【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち https://forgotten-legend.com ボクシング不滅のレジェンドたち Thu, 01 Oct 2020 05:54:33 +0000 ja hourly 1 https://forgotten-legend.com/wp-content/uploads/2019/10/cropped-box512-32x32.png 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち https://forgotten-legend.com 32 32 偉大なる臆病者/ウィラポン・サハプロム https://forgotten-legend.com/legend/92124 https://forgotten-legend.com/legend/92124#respond Thu, 01 Oct 2020 03:26:29 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92124

長谷川には、1回殴ったら2回殴り返された。2回殴ったら3回殴り返されました。僕が戦った時は若くてフレッシュでエネルギッシュで力が漲っていたのだとおもいます。 西岡は、すごく速くて、捕まえるのが難しかったです。 元ムエタイ ...

The post 偉大なる臆病者/ウィラポン・サハプロム first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

長谷川には、1回殴ったら2回殴り返された。2回殴ったら3回殴り返されました。僕が戦った時は若くてフレッシュでエネルギッシュで力が漲っていたのだとおもいます。
西岡は、すごく速くて、捕まえるのが難しかったです。

元ムエタイのスター、ウィラポン・サハプロムはボクシングに転向し、1990年代から2000年代にかけてバンタム級タイトルを長期間保持していた。2度目の王座奪取は特に記憶に残るもので、14回のWBCベルト防衛に成功した。バンタム級の王座の長期防衛に成功したのはオーランド・カニサレスとマヌエル・オルティスだけで、ウィラポンより王座保持期間が長いのはカニサレスだけだ。

サハプロムは1968年11月16日、タイのナコンラチャシマで4人の子供の次男として生まれた。本名はティーラポール・サムランクランという。

サハプロムがまだ幼かった頃、彼の家族は150キロ以上(100マイル近く)西のサラブリに引っ越した。父親はトラックの運転手として働き、母親は小さな屋台を経営していた。サハプロムは、貧しい家族を助けるために幼い頃から仕事を始めた。

ウィラポン
「12歳くらいの若い頃、パンクしたタイヤを修理する道端の小さなブースで働いていました。トラックの運転手が主な客だった。朝は学校に行き、夕方には店で働き、店で寝泊まりしていました。1つの穴につき30バーツ(1ドル)もらっていました。時にはもっと儲けるために、わざとタイヤに穴を開けたりもしてました。」

この時期にムエタイのキャリアをスタートさせた。

ウィラポン
「地元のお寺のお祭りでファイトをみました。たくさんの子供たちがいて、みんなの体重を測って、手首に体重を書いていました。子供たち全員をまとめて、試合を組んだんです。その時に戦う気があるかどうか聞かれました。それがデビューでした。最初は家で練習していました。ジムにも入っていませんでした。バンコクの大会に参加するようになってからは、サラブリでトレーニングをしていましたが、試合の15日前くらいにプロモーターがスパーリングパートナーを呼んでくれました。」

ムエタイのキャリアの絶頂期には、サハプロムはジュニアフライ級、フライ級、ジュニアバンタム級で権威のあるルンピニとラチャダムナン選手権で優勝した。1試合あたり200,000バーツ(6,500ドル)の賞金を得た。

サハプロムのプロモーターはプロボクシングへの転向を決意し、ナコーンルアンプロモーション(NKL)と契約した。

1994年12月、デビュー前の3ヶ月間、ボクシングを中心としたトレーニングを行い、ジョエル・フニオを3ラウンドでノックアウトしたのがデビュー戦となった。

サハプロムはさらに2勝し、プロになってわずか9ヶ月後、経験豊富な同郷のダオルン・チュワタナとWBAバンタム級の王座をかけて対戦、12ラウンドほぼ互角の戦いを繰り広げ、サハプロムがスプリットディシジョンで勝負を決めた。

サハプロムは初防衛戦で、手ごわい指名挑戦者ナナ・コナドゥにノックアウトされた。

ウィラポン
「初回で彼を倒した後、自信過剰になってしまった。2ラウンドが始まってからは、ノックアウトしようと意気込んで強引になってしまいました。驚いたことに、コナドゥは回復していて、ノックダウンされてしまいました。私はTKOで負けました。」

敗北後、ファンはサハプロムに懐疑的になった。師匠であるスラチャートは、彼にボクシングを続けるかどうか問うた。サハプロムは立ち直ろうと決意し、3年以内に16戦連続で勝利を収め、アクティブに試合を続けることでボクシングの腕を磨いた。その後、1998年12月にWBC王座決定戦でタイトルを再び獲得した。

ウィラポン
「シリモンコン・シンワンチャは、日本での世界タイトル防衛戦で辰吉丈一郎に敗れました。彼のプロモーターが日本のプロモーターとオプション契約を結んでいたので、ベルトを取り戻すために日本に派遣されました。」

タイ人ファイターはこのチャンスを逃すことなく、6ラウンドで日本の人気ファイターをストップした。

今回のサハプロムは、はるかに長くタイトルを保持した。辰吉との再戦(TKO7)、タフなメキシコ人アダン・バルガス(UD12)、リカルド・バラハス(KO3)らを破った。未来のスーパーバンタム級世界王者の西岡利晃と4回戦い、2勝2分を記録している。

2005年4月、36歳のサハプロムは東京で長谷川穂積と対戦。タイ人はピークを過ぎた兆しを見せており、ハードファイトの末判定で王座を奪われた。サハプロムは再戦を決意し、何度かの勝利を収めた後、1年後に長谷川と対戦したが、9ラウンドでノックアウトされた。

その後も戦い続け、2008年6月にはタイトルエリミネーターでブシ・マリンガと対戦、4ラウンドでストップされた。

通算戦績(66勝4敗2分、46KO)で引退。

現在51歳のサハプロムは結婚しており、2人の子供がいる。彼はチャイヤプム県に住んでおり、「バン・チャンプ・ロック(世界チャンピオンの家)」と呼ばれるレストランを経営している。

ウィラポン
「私が有名になったのはボクシングのおかげです。もしボクシングがなかったら、今日の私は存在しないでしょう。多くのファンが今でも私のことを覚えていてくれています。彼らの中には、レストランで食事をした後、会いたいと言ってくる人もいます。写真を撮りたいと言ってきます。私のファンだからと、父親や祖父を連れてレストランに来てくれる人もいます。」

ライバルについて

ベストジャブ リカルド・バラハス

彼はしっかりとしたクリーンなジャブを持っていた。メキシコのボクサーはみんなボクシングが上手い。

ベストディフェンス セルジオ・ペレス

非常に良いディフェンスだった。体勢を前後に切り替えていたので、クリーンなパンチを打ち込むのが非常に難しかった。サウスポーを予想していたが、2ラウンドでオーソドックスに切り替えた。そして3ラウンド目にまた切り替えた。

ベストハンドスピード アダン・バルガス

素早いパンチを打ってきた。指名試合で戦ったメキシコ人はみんな上手かった。

フットワーク 西岡利晃

すごく速くて、捕まえるのが難しかったです。

スマート リカルド・バラハス

バラハスが一番頭が良かったと思います。先に倒せたのがよかった。コンビネーションが良かったです。勝ったのは、彼の顎にクリーンなアッパーを当てる機会があり、ラッキーだったからです。その後、右クロスを打つタイミングがわかったので、それで試合は終わった。彼の顎にアッパーを当てていなかったら、非常に難しい試合になっていたと思います。

屈強 長谷川穂積

1回殴ったら2回殴り返された。2回殴ったら3回殴り返されました。僕が戦った時は若くてフレッシュでエネルギッシュで力が漲っていたのだとおもいます。

ベストチン 長谷川

先ほども言ったように(彼は)耐久性がありました。爆発力もありました。

ベストパンチャー バラハス

バラハスが一番強かったです。完璧にクリーンなパンチを当てられなかったにもかかわらず、パンチの感触が伝わってきました。バラハスとは30代前半の自分がピークの時に戦った。長谷川やコナドゥと戦った時はパンチをうまく受け止められませんでした。だから倒されたんです。長谷川とは30代後半の頃に対戦したので、ピークのの頃と比べると力が落ちていました。

ベストスキル バラハス

どのメキシコ人もとても上手かったと思います。しかし、リカルド・バラハスは最も美しく戦った。技術的にはバラハスが一番だったと思います。彼は美しいメキシカン・ボクシング・スタイルを持っていました。

総合 アダン・バルガス

私はまだ戦いを鮮明に覚えている。彼は身長173cm(5フィート8)もあって素晴らしい体格でした。彼は私に非常に厳しい時間を与えた。バルガスは私が対戦した中で最高だった。最初の6ラウンドでポイントを取られました。サウスポーだったことが、さらに難しい試合でした。6ラウンド目でガス欠になったので、判定で勝てました。タフな試合でした。

日本人との激闘が記憶に鮮明なウィラポンだが、本人の印象としてはメキシカンが強敵だったようだ。西岡よりもその前に戦ったアダン・バルガス、フランスで戦ったリカルド・バラハス。彼らは世界王者になれずにリングを去ったが、西岡や長谷川以上にウィラポンにとっては強敵だった。

フランスでタイ人とメキシコ人が戦った背景には、タイの財政難と、当時フランスにブライム・アスロウムという五輪金のエリートがいて、フランス側が彼とウィラポンとの対戦を画策していたが、ウィラポンがあまりに強く、スルーされたようだ。たった3ラウンドで終わった試合だったが、ウィラポンの勝利の喜び方はかなりのもので、それだけ難敵だったのだろう。

ウィラポンは長期政権を築いたバンタム級の巨人だが、アジアンコンプレックスを抱えていたようにおもう。アジアを中心に防衛を重ねたが、かなり小柄で、必殺の強打を持つ怖いファイターではなかった。ラファエル・マルケスやティム・オースティンの方が強かったかもしれない。ナナ・コナドゥに負けてからは黒人恐怖の克服に時間をかけたという。メキシカンは常に最大の敵だったのだろう。

ウィラポンは、ムエタイのキャリアに裏打ちされたテクニック、当て勘があり、ボクシングだけをやってきた日本人とは技の多彩さが違った。右をジャブのように使ったり、パンチの芯を外したり、細かな匠の技が当時の辰吉や西岡とは違った。辰吉との試合はどちらも圧勝だったが、辰吉が怖いからこそ相当の研究と緻密さで乗り越えたようにおもう。

しかし、長谷川の若さや爆発力には対応できず、外国人のパワーやスキルには相当警戒していた。臆病だからこそ築けた長期政権だったようにおもう。ダオルン・チュワタナとの差はわずかだったが、一方は短命、一方は歴史に名を刻むレジェンドになった。

格闘技には虚勢、強がりも大事だが、本当に結果を出すのは、相手に敬意を示し、恐怖をコントロールし、必至に練習し研究し対策した者だ。

少し意外な、ライバル回想でした。

The post 偉大なる臆病者/ウィラポン・サハプロム first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/92124/feed 0
コロンビアの誇り/(Kid Pambelé)アントニオ・セルバンテス https://forgotten-legend.com/legend/92116 https://forgotten-legend.com/legend/92116#respond Tue, 08 Sep 2020 16:41:09 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92116

アーロン・プライヤー 「キャリアを振り返ると彼が一番だったとおもう。セルバンテスにはプロで100戦のキャリアがあった。10年間、2団体で王者に君臨していた。初回に俺はダウンして立ち上がり逆転KOしたんだ。セルバンテスが俺 ...

The post コロンビアの誇り/(Kid Pambelé)アントニオ・セルバンテス first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

アーロン・プライヤー

「キャリアを振り返ると彼が一番だったとおもう。セルバンテスにはプロで100戦のキャリアがあった。10年間、2団体で王者に君臨していた。初回に俺はダウンして立ち上がり逆転KOしたんだ。セルバンテスが俺のキャリアでは一番偉大な男だった。」

コロンビアのボクサー・パンチャーであるアントニオ・セルバンテスは、1970年代に長年チャンピオンとして君臨していた選手であり、広く史上最高のジュニア・ウェルター級の一人と考えられている。

セルバンテスは1945年12月23日、コロンビア北部のサンバジリオ・デ・パレンケで生まれた。アメリカ大陸で最初の奴隷の反乱が起きた場所とされる地域で、幼少期は非常に困難な時代を過ごした。

セルバンテス
「私はシャンバスという貧しい地域に住んでいました。 “El Corral de Negros”(黒い庭)と呼ばれていました。荒れた土地だったが、働き者の町でもあった。両親と同様、私の兄弟は皆勤勉な労働者でした。みんな働かないと食べていけない。私は家族と一緒に、生きていくために必要なことをしました。

靴磨きが私の収入源だった 当時は誰もが大事な靴の手入れをしなければならなかったので、私は最高の輝きを与えるためにそこにいました。タバコはもっとアングラな仕事だった。誰にでも売ってとにかく少しでも多くのお金を稼ぎました。」

叔父がセルバンテスにボクシングを紹介し “キッド・パンベレ “とあだ名をつけた。

セルバンテス
「この地域の子供たちはみんな戦うのが好きだったので、私も自然にそうしていました。」

10代の頃、将来のチャンピオンとなるセルバンテスはトレーナーのカルメロ・プラダと出会い、一緒に仕事をするようになった。セルバンテスは、1964年1月に18歳でプロ転向を決意するまで、わずか3試合アマチュアに出場しただけだった。

セルバンテス
「プロになったばかりの頃は、良いファイターではなかったから、誰も興味を持ってくれませんでした。」

プロとしての最初の20試合で無敗だったが、1966年後半に無名のチプリアーノ・ズールアガに2連続判定負けを喫した。さらに連敗したが、敗北から学び、そのたびにリベンジを果たした。

1968年、国内タイトルを獲得。プラダが住んでいたベネズエラでも戦い始めた。

1970年秋、アメリカデビューを果たし、ホルヘ・ロドリゲスを8ラウンドで下した。この勝利に続いて、未来のライト級ベルトホルダーであるロドルフォ・ゴンザレスを打ち破った。

1971年に4戦勝利し、WBA王者のニコリノ・ローチェに挑戦。
セルバンテスのボクシングは好調だったが、ブエノスアイレスで有名なルナパークでアルゼンチンの巨匠に15ラウンド全会一致の判定負けを喫した。

2度目の王座挑戦の機会を求めていた頃、ローチェは1972年3月にパナマの新鋭のアルフォンソ・フレイザーに王座を奪われた。その年の後半、セルバンテスはフレイザーのWBAベルトに挑み、10ラウンドストップでコロンビア初の世界王者となった。

振り返ってみると、これが最も誇りに思う瞬間だったと言う。

セルバンテス
「国民的ヒーローになった。コロンビアのボクサーはほとんどトップになれないとおもわれてきた。それを変え、私たちでもチャンピオンになれることを示すことができました。あらゆる場所に招待されました。世界王者になった夜にお祝いをして、コロンビアに着いたときにはバランキージャでパレードをして、ボゴタで素晴らしいレセプションをしました。」

それから3年半もの間、セルバンテスは10回もタイトルを防衛し、しばしばアウェーでタイトルを防衛するなど飛躍的な活躍をした。ローチェとの再戦(RTD9)、ライオン古山(UD15)、エステバン・デ・ヘスス(UD15)などの挑戦を跳ね返した。

1976年3月、セルバンテスは17歳の神童ウィルフレッド・ベニテスと対戦するために敵地プエルトリコに向かった。セルバンテスはオッズでは4-0といわれていた。両者は序盤は互角の戦いをしたが、中盤以降はベニテスが主導権を握った。ディフェンディング・チャンピオンのセルバンテスも食い下がったが、タイトルを守るには十分ではなかった。ベニテスは史上最年少で世界タイトルを獲得したボクサーとなり、その記録は現在も破られていない。

セルバンテスは復帰し、その後15ヶ月間で5連勝した。ベニテスがウェルター級の栄光を求めて王座を返上した時、セルバンテスは再び王座を手にした。

1977年6月、セルバンテスはカルロス・マリア・ヒメネスを5ラウンドで下し、再びWBAのストラップを手に入れた。その後、アドリアーノ・マレロ(UD15)ミゲル・モンティリャ(UD15、TKO7)を破り、合計6回の防衛に成功。タイ、南アフリカ、アメリカ、韓国で試合を行った。

アーロン・プライヤーの登場だ。

1980年8月2日、セルバンテスは初回に猛威を振るった挑戦者からダウンを奪うも、プライヤーの反撃を受けて4ラウンドにノックアウトされた。セルバンテスはその後数回しか戦わず、1983年12月に無名のダニー・サンチェスに敗れた。

通算戦績は91勝12敗3敗、45KO。

引退後、セルバンテスは水道橋、高速道路、エネルギー資源の開発に尽力した。また、長年薬物問題と闘っていたが、現在は麻薬とは無縁だ。

セルバンテス
「リングの外では良いことはあまり書かれない、悪いことの方が新聞が売れるから。自慢するのは好きではないが、私は地元の人々や町を助けてきたし、今でもできる限りのことをしている。若者には、酒やドラッグ、パーティーなどの悪徳行為には近づかないように言っておきたい。飲酒、ドラッグ、パーティーなどの悪徳は、すべてのものを奪ってしまうのです。家族や本当の友人の協力で、私はついにやめることが出来ました。」

現在74歳のセルバンテスは、ボリバル州のトゥルバコの農場で妻と二人で暮らしている。11人の子供がいて、そのうち3人は現在の妻との間に出来た子だ。多くの孫やひ孫もいる。

セルバンテス
「私には多くの浮き沈みがあった。でも最近は元気にやっています。」

ライバルについて

ジャブ アドリアーノ・マレロ

ジャブで非常に鋭く、懸命に打ってきた。

ディフェンス ニコリノ・ローチェ

非常に巧みで、アンタッチャブルな男だった。

ハンドスピード ウィルフレッド・ベニテス

両手の速さは地獄のようだった。

フットワーク ベニテス

彼は横にも後ろにも滑らかに上手く動いた。

クレバー ニコリノ・ローチェ

パンチの行方がわかっているようだった。

屈強 ライオン古山

15ラウンドずっと前に出てきて強く殴り続けたのに傷つけられなかった。

ベストパンチャー アーロン・プライヤー

106戦して2回しかKO負けがないが、そのうち1回はプライヤーに止められた。恐るべきパワーを感じた。

ベスト・チン 古山

バットで殴っても倒せなかっただろう。

ベストボクシング ベニテス

若いのにボクシングのすべてを知っていた。

総合 ベニテス

シンプルに最高の相手だった。

セルバンテスの時代は私のリアルタイム観戦の時期ではないが、振り返るにつけ、最も崇高で偉大なジュニアウェルター(スーパーライト)級だったかもしれない。

コロンビア初の世界王者にして未だに最高峰だろう。
個人的にはバンタム級のミゲル・ロラも大好物だ。
コロンビアには短命に終わっても印象深い王者が多い。
治安はしこたま悪い。

今と違い、世界王者になったらアメリカで戦っていけばいいのではなく、セルバンテスは世界中を旅した。

日本でも

ライオン古山
門田恭明
バトルホーク風間

らを下している。

ライオン古山がタフネス部門の2冠を制しているのがうれしいが、技術的には遥かに敵わぬ名王者だったことだろう。ゆっくりと見直してみたい。

以下、セルバンテスのライバルたちの記事も紹介したい。この頃が、(ただの翻訳だが)個人的にも書きながら感動していたほどの良記事だとおもう。

ハッピーエンドは振り向かない/(孤独な猛獣)アーロン・プライヤー

プライヤー
総合 アントニオ・セルバンテス
キャリアを振り返ると彼が一番だったとおもう。セルバンテスにはプロで100戦のキャリアがあった。10年間、2団体で王者に君臨していた。初回に俺はダウンして立ち上がり逆転KOしたんだ。セルバンテスが俺のキャリアでは一番偉大な男だった。

天才の行方/(Bible of Boxing=ボクシングの教科書)ウィルフレド・ベニテス

The post コロンビアの誇り/(Kid Pambelé)アントニオ・セルバンテス first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/92116/feed 0
夢を見るな、夢になれ/(Tuurrific=やばい)レジリオ・ツール https://forgotten-legend.com/legend/92108 https://forgotten-legend.com/legend/92108#respond Sat, 29 Aug 2020 17:51:45 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92108

知ってる人はいるだろうか? 彼は決して誰に負けるわけでもなく、底知れぬ才能を宿したまま、この世界を去っていった、やばい奴だった。 レジリオ・ツール(Regilio Tuur、1967年8月12日 – )はオラ ...

The post 夢を見るな、夢になれ/(Tuurrific=やばい)レジリオ・ツール first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

知ってる人はいるだろうか?
彼は決して誰に負けるわけでもなく、底知れぬ才能を宿したまま、この世界を去っていった、やばい奴だった。

レジリオ・ツール(Regilio Tuur、1967年8月12日 – )はオランダのプロボクサー。
スリナム パラマリボ出身。第6代WBO世界スーパーフェザー級王者。
ダウンやストップされた経験がなく(敗戦は全て僅差での判定負けだった)
カウンター一撃で序盤中盤に倒す速攻や終盤に倒すことも出来た万能型の選手。

1988年ソウルオリンピックに出場したが準々決勝で今大会で銀メダルを獲得するダニエル・ドミトレスク(ルーマニア)に0-5の判定負けを喫し敗退した。なおツールは1回戦でいきなりのKO勝利と3回戦では初回レフェリーストップ勝ちを収めるなど強打を発揮した。特に上記の1回戦で優勝候補と言われたケルシー・バンクスを破った時は今大会最大のサプライズと言われる大波乱を演出した。

「一体何が起きたんだ、あいつは何者だ?」

世界選手権覇者にして優勝候補のケルシー・バンクスは、オランダから来た無名のスリナム人を楽な相手とみていた。しかし1分50秒後に倒れていたのは自分だった。右ストレート一閃、その後数分間気絶していた。

1967年、スリナムのパラマリボで生まれたレジリオ・ツールの衝撃の映像は世界を一気に駆け巡った。彼はオリンピックの前年にヨーロッパのアマチュア選手権で銅メダルを獲得していたが、世界的には無名の選手だった。一部の専門家やハンガリー人のコーチ、ジュラ・ボディスだけが、この小さな黒人ファイターの素晴らしさを知っていた。

しかしツールのオリンピックの冒険は準々決勝で終わりを告げた。

その後、ツールはニューヨークでプロ契約を結び、ボクシングのメッカ、マジソン・スクエアガーデンでデビューし、若きヒーローとしての地位を獲得していく。ツールのプロとしてのキャリアは印象的で、51戦46勝30KO4敗1分という記録を残した。

人生のハイライトは、1994年9月24日、ロッテルダムのスポーツパレイス・ホールでオスカー・デ・ラ・ホーヤの返上で空位になったWBO世界スーパーフェザー級王座決定戦で、エウゲン・スピードと対戦し12回3-0(118-108、118-110、117-109)の判定勝ちを収め王座獲得に成功。

当時ツールの周りにはたくさんの人がいた。母親、兄弟たち、大勢の友人、ツールにとっては負けることの許されない戦いだった。そのため、ツールの陣営は「夢を見るな、夢になれ」と書かれたキャップを被って試合に臨んだ。

ソウルでジャイアントキラーとしてスタートし、1997年初頭に終止符を打った彼の騒しいキャリアにピッタリのスローガンだった。

それは、仕事でもプライベートでも常につきまとった。

ガールフレンドに対する虐待で有罪判決を受けたツールはニューヨークに戻り、脚本通りの人生を送った後、ロッテルダムでファッション会社を経営するも破綻した。現在ツールは再びアメリカにやってきて、様々なアドバイザーやコンサルタントをしているという。

1995年3月9日、後のIBO世界ライト級王者トニー・ペップと対戦し12回3-0(117-111、119-109、116-112)の判定勝ちを収め初防衛に成功。

1995年6月17日、ペテ・タリフェッロと対戦し5回2分43秒TKO勝ちを収め2度目の防衛に成功。

1995年9月16日、元WBA世界スーパーバンタム級王者ルイス・メンドーサと対戦し11回TKO勝ちを収め3度目の防衛に成功。

1995年12月23日、アムステルダムのRAIでギオルギオ・カムパネイラと対戦し12回3-0(118-110、119-109、119-111)の判定勝ちを収め4度目の防衛に成功。

1996年4月1日、ナルシソ・バレンズエラと対戦し12回3-0(2者が120-108、120-109)の判定勝ちを収め5度目の防衛に成功。

1996年9月6日、アトランティックシティのバリーズ・パークパレス・ホテル・カジノでホセ・ビダ・ラモス初回1分47秒KO勝ちを収め6度目の防衛に成功。

1997年初頭に王座に在位のまま現役引退を表明。WBO世界スーパーフェザー級王座を返上した。

2001年8月30日、フレディー・クルスと対戦し8回判定勝ちを収め5年振りの復帰戦を白星で飾った。

2001年11月23日、後の世界2階級制覇王者オルランド・サリドと対戦し8回1-2の判定負け。なおツールがスーパーフェザー級で試合をすることが5年振りだった。

2001年12月20日、ショーン・シモンズと対戦し2回KO勝ち。

2002年5月2日、ジミー・ゼイキレと対戦し2回KO勝ちを最後に正式に引退。

ニューヨーク州ライト級王座
EBUヨーロッパスーパーフェザー級王座
第6代WBO世界スーパーフェザー級王座(防衛6=剥奪)

知ってる人はいるだろうか
格闘技はさかんでも、オランダのボクサーは珍しく、スリナムというのもまたまたミステリアスだ。だから、名前だけはずっと前から知っていた。運よく王者になれたタイプの短命王者だったのかなくらいの印象で。

人生の主役/中垣龍汰朗と松本圭佑

この記事を書き、「人生の主役」つながりで

大人になることは人生の主役を降りること/ケビン・ケリー

この記事を紹介したら、ケリーのマネージャーだったと知り、調べてみて驚愕、今のスーパーフェザー級より強いのではないか。

オルランド・サリド
「フィジカルがとても強かった。何度か私の方が大きくて強いんだと忘れそうになった。」

サリドと戦ったのは、6度の防衛に成功後、無敗のまま王座を返上(はく奪)し5年後の復帰戦でのことである。1-2の惜敗。その後も2試合し共に2回KO勝ちでそのまま引退した。

実質、世界王者、ボクサーの終止符としては無敗のままの立派な記録だ。

スリナム出身のオランダ人、レジリオ・ツールがプロデビューに恵まれたのは、ソウルオリンピックでの衝撃があったからだろう。ケルシー・バンクスというアメリカ代表は、183センチもあるフェザー級で、アマチュアで500戦以上のキャリアがあり、世界選手権はじめ数々の大会で金メダルを獲得してきた大物だった。

バンタム級でケネディ・マッキニーが金
ライトヘビー級でアンドリュー・メイナードが金
ヘビー級でレイ・マーサーが金
スーパーヘビー級でリディック・ボウが銀
ライトミドル級でロイ・ジョーンズ・ジュニアが銀

だった時のメンバーだ。

調べてみると、オシャレなレジリオ・ツールの写真がいっぱいあるが、ボクシングに関してはほぼ見つけられず、あってもオランダ語なので、解読不可、現状精一杯の記録として残しておくことにした。

モテちゃって、プライベートで色々あったのだろう。
独自のオーラと色気があります。

NLD/Laren/20100612 – Ex bokser Regilio Tuur en partner winkelend in Laren

是非、リアルタイムで観たかったファイターだな。
南北アメリカ唯一のオランダ語圏、スリナムのミステリアスにして底知れぬ天才、それが(Tuurrific=やばい)レジリオ・ツールだ。

記録をみる限り、もっと活躍できた、レジェンドクラスの天才だったかもしれない。

The post 夢を見るな、夢になれ/(Tuurrific=やばい)レジリオ・ツール first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/92108/feed 0
青い空の真下/坂本博之 https://forgotten-legend.com/legend/92082 https://forgotten-legend.com/legend/92082#respond Fri, 28 Aug 2020 05:13:13 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92082

こんなはずじゃなかっただろ? 歴史が僕を問い詰める まぶしいほど青い空の真下で ボクシングには多くの悲しい物語があるが、これは、過酷な環境の中で戦いながらも、ファンだけでなく、同じような環境に置かれた子供たちにも感動を与 ...

The post 青い空の真下/坂本博之 first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問い詰める
まぶしいほど青い空の真下で

ボクシングには多くの悲しい物語があるが、これは、過酷な環境の中で戦いながらも、ファンだけでなく、同じような環境に置かれた子供たちにも感動を与えてきたファイターの、真実の物語だ。

事実、彼はボクシングを引退した後も、今も人々に感動を与え続けている。

ボクシングには、これまでにも過酷な環境でキャリアを積んできたファイターがたくさんいる。

坂本博之もその一人だ。

坂本は1970年末に生まれたが、幼い頃に両親が離婚し弟と共に捨てられた。親戚の家に預けられたが、兄弟共にひどい虐待を受け、弟が栄養失調で倒れた後は福岡の児童養護施設に入ることになった。

そんな虐待を受けながらも、坂本はテレビで見ていたボクシングに夢中になった。それがきっかけで福岡から上京し、20歳でデビュー。

後に 「和製デュラン 」と呼ばれるようになった坂本は、プロとしての成功をいち早く手に入れた。最初の6戦で6勝0敗(6KO)を記録しただけでなく、その後も、1992年12月に東日本ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、翌年2月には全日本ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞するまでに成長した。

1993年にはリック吉村を相手に日本ライト級王座を獲得。
坂本は24歳、19勝0敗(14KO)、日本では急成長中のスターとしての評判を高めていた。しかし、残念ながら20勝0敗には届かず、元世界王者のフアン・マルティン・コッジに2度キャンバスに叩きつけられ、アルゼンチンのベテランに判定負けを喫して19勝1敗となった。

この敗戦は一時的な後退となったが、坂本は再び調子を取り戻し、年が明ける前にアメリカでジェフ・メイウェザー、ロジャー・ボレロスに勝利してOPBFライト級王座を獲得するなど、さらに2勝を挙げた。

坂本はメイウェザーに勝ったことでコッジに敗れた後の再建に成功し、WBCライト級王者スティーブ・ジョンストンと対戦。当時無敗だった “リル・バット・バッド “には明らかに負けていたが、この試合はスプリットデシジョンだった。スコアカードはレイ・ソリスが坂本有利を記録していたが、日本人ファイターの力不足は明らかだった。

坂本はジョンストンに敗れた後、3連勝して2度目の世界タイトル戦を獲得したが、またしても実力のある王者、セサール・バサンに判定負けを喫した。

坂本の世界王者への望みは薄れたが、炎はまだそこにあった。

バザンに敗れた後、坂本はバート・バドに勝利して立ち直り、限られた相手を相手に勝利を重ねていった。5連勝後、3度目の世界挑戦でベネズエラの強打者ヒルベルト・セラノと対戦。当時WBAライト級王者だったセラノは、数ヶ月前にステファノ・ゾフを倒して王座を獲得、初防衛のために来日した。

40秒ほどお互いを感じ合った後、坂本のパワーはセラノに伝わり、セラノは最初の深刻なショットでダウンした。その後すぐにセラノは再びダウンを喫し、ラウンド終了間際には坂本は悲願を掴みかけていた。しかし、残念ながら坂本はそのラウンドを無傷で終えることができず、目の下にひどい傷を負った。傷は深刻で、5ラウンドで試合は中止となり、無念のドクターストップとなった。

怪我の回復には時間が必要で、再び戦うのは7ヶ月近く先のことだった。セラノは日本に戻り、約1年ぶりにリングに戻ってきた日本人ファイター、畑山隆則にWBA王座を奪われた。セラノを止めた後、畑山は坂本と戦いたいと宣言し、王座への挑戦機会を与えた。

悲しいことに坂本は、畑山との残忍な戦いの果て、10ラウンドでストップされた。坂本の方がパンチが強そうに見えたが、スピードと防御力に欠けており、より軽快な畑山に対応できず敗退した。

坂本と畑山の戦いは、両者にとって最高の終わりを告げるようなものだった。

畑山はその後すぐにタイトルを失い、坂本はその後の4試合で2度ストップされ、2007年にデビュー戦のタイ人とのテクニカルドローを最後に引退。この引き分けは坂本のキャリアの中で唯一のものであり、39勝7敗1分(29KO)でグローブを置くことになった。

ヒーローとしての坂本博之はこれで終わりでもおかしくなかったが、正反対の結果を生んだ。ファイターがもっと多くのことをするための出発点となったのだ。

2010年、坂本は格闘家から経営に転向し、SRSボクシングジムを設立。「坂本ジム」であったはずのものが「スカイハイ・リングス」となり、人の可能性を引き出すことを目的としたジムとなった。自分のことよりも生徒のことを優先した創業者の坂本が考えていたことは他の誰も決してわからなかっただろう。

坂本は畑山と対戦する前の2000年7月にも「青空SRS」(実質的には青空基金)を立ち上げており、これはまだ現役時に立ち上げたものだ。青空基金の目的は、児童養護施設の子どもたちを支援することであり、坂本自身も同じような立場にあった子どもたちに、ボクシングのセッションや講演会などを提供することだった。坂本は、自分と同じような思いをしている子供たちを支援したいと考えていたのだ。

2017年には、坂本の素晴らしい活動と支援が認められ、HERO’S賞「HEROs SPORTSMANSHIP for THE FUTURE」を受賞。孤児院の子どもたちに関わる負の連鎖を断ち切るために、年間40~50か所の孤児院を訪問することを表明している。

基金の基本理念はシンプルで、「すべての子どもは平等である」ということ。

世界チャンピオンになるという坂本の夢は遂に実現しなかったが、子どもたちを支援するという自らが築いた遺産は、たとえ個人的な悲願の世界タイトルを獲得したとしても、それより遥かに長く生き続けることだろう。

個人的にはもっと古く、辰吉世代だったので

坂本の新人時代の躍進の頃はややボクシングから距離を置いていた。

観ても辰吉のような異能の天才ではない、努力型のアジアンボクシングだと感じた。つまり、世界王者になる選手ではないと。

骨太で全KOスタイルの迫力、試合毎にスキルも向上していく坂本は、自身の生い立ち、ストーリーと相まって当時の日本ボクシングファンの心を鷲掴みにした。

しかし坂本の階級は日本のお家芸「最軽量級」ではなく歴史と伝統のライト級だった。

東洋無敵、和製デュラン、和製タイソンのような強打者坂本でも、コッジのパワーに屈し、ジョンストンの柔軟さ、バサンの屈強、難解さには通じなかった。

3度目の世界戦、ヒルベルト・セラノ戦こそ、最も世界に近づいた、記録ではなく記憶では世界王者になっていた試合だった。初回で9割が世界王者を確信しただろう。

しかし不気味で異様に深い傷を負ってしまった。
あの傷ではストップは仕方ないが、続けていたらノックアウトで世界ライト級王者、坂本博之が誕生していたかもしれない。

畑山との歴史に残る死闘を経て、満身創痍の壊れたファイターとなり引退したが、その人気、魂はそのままに、タイガーマスクの伊達直人を地で行く第二の人生の活躍をみせている。

坂本博之だから、彼でしか出来ない事だ。

タイトルはいつもそうだが、書きながら、「青空基金」でこの歌を思い出し、歌詞を読み返してみるとまるで坂本博之そのままの歌のように感じたので拝借した。

コッジ戦でダウンはしたが、畑山戦ではじめて、不屈、不倒の男が堕ちた瞬間をみた気がする。畑山隆則は2階級で世界王者になった。坂本博之は遂に一度も世界に届かなかった。

これがボクシングなのだ。どんなに逆境でハングリーで才能があっても、映画のようなサクセスストーリーが待っているわけではない。「あしたのジョー」は感傷的なフィクションに過ぎない。

ボクシングファンにとって世界王者ではなくとも永遠に忘れられない魂を揺さぶる最高のファイターだった。

The post 青い空の真下/坂本博之 first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/92082/feed 0
風のHipster(ヒップスター)/畑山隆則 https://forgotten-legend.com/legend/92065 https://forgotten-legend.com/legend/92065#respond Fri, 21 Aug 2020 05:57:43 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92065

やんちゃで熱く、期待を裏切らない、人々がアスリートに求める要素を全て持つ彼は、全力で時代を駆け抜けた。 畑山隆則(24勝2敗3分19KO)アジア以外のボクシングファンは畑山のことはあまり知らないかもしれない。 中学時代は ...

The post 風のHipster(ヒップスター)/畑山隆則 first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

やんちゃで熱く、期待を裏切らない、人々がアスリートに求める要素を全て持つ彼は、全力で時代を駆け抜けた。



畑山隆則(24勝2敗3分19KO)アジア以外のボクシングファンは畑山のことはあまり知らないかもしれない。

中学時代は野球部に所属、エースで4番として活躍し、将来はプロ野球選手になることを熱望していた。 スポーツ推薦で青森山田高校に入学したが、先輩部員と対立し1ヶ月で退部。かねてより、同郷の元WBA世界フライ級王者レパード玉熊(国際)の世界戦を見ていたこともありプロボクサーも志望する。

そして辰吉丈一郎(大阪帝拳)がWBC世界バンタム級王座を獲得した試合をテレビ観戦したのを機にプロボクサーになることを決意。高校を中退(引退後に再入学し卒業した。)し単身で上京し、初めにヨネクラジムへ入門するが、大人数の選手や練習生を抱える環境に馴染めず、程なくして京浜川崎ボクシングジムに移籍。同ジムにて韓国出身の柳和龍トレーナーと出会い、以後良きパートナーとして二人三脚でプロボクサー人生を送っていくこととなる。

1993年6月、17歳でプロとしてデビュー、アマチュアキャリアはゼロだった。

1994年2月13日、大阪府立体育会館にて小谷繁(グリーンツダ)と対戦し、3回KO勝ちを収めて全日本スーパーフェザー級新人王となり、試合後にはMVPを獲得。以後、8戦8勝(8KO)

1997年10月5日、両国国技館にて世界初挑戦としてWBA世界スーパーフェザー級王者崔龍洙(韓国)に挑戦するも、1-1(116-114、114-116、114-114)のドローで王座の獲得に失敗。

1998年3月29日、両国国技館にて再起戦として18戦無敗の日本スーパーフェザー級王者コウジ有沢(草加有沢)に挑戦し、9回TKO勝ちを収めて王座の獲得に成功。お互いに無敗同士となったこの試合は「史上最大の日本タイトルマッチ」と称され、全国ネット生中継でフジテレビの昼間に放送された。その後、世界再挑戦準備に専念するため、日本王座は防衛することなく返上した。この試合は日本タイトルマッチとしては9年ぶりの年間最高試合に選ばれた。

https://www.youtube.com/watch?v=g8vFO9nHsgY

1998年9月5日、両国国技館にて2度目の世界挑戦として前回引き分けた崔龍洙に再び挑戦し、2-0(2者が116-113、114-114)の判定勝ちを収めて2度目の挑戦で無敗のまま世界王座の獲得に成功。

1999年2月13日、有明コロシアムにてサウル・デュラン(メキシコ)を迎えて初防衛戦。2回にダウンを奪われるも、挑戦者が2度の減点を取られたこともあり、1-1(114-111、113-116、113-113)のドローで規定により初防衛に成功。

1999年6月27日、有明コロシアムにて同級1位の指名挑戦者ラクバ・シン(モンゴル)を迎えて2度目の防衛戦を行うも、5回TKO負けを喫し王座から陥落するとともにプロ初黒星を喫した。試合後の同年7月に現役引退を表明した。

2000年、引退を撤回しメキシコ系アメリカ人でもあるルディ・エルナンデスを新トレーナーに迎え入れ、プロボクサーとして復帰することを発表。

2000年6月11日、階級をライト級に上げて復帰初戦で世界挑戦することが発表され、有明コロシアムにてWBA世界ライト級王者ヒルベルト・セラノ(ベネズエラ)に挑戦。約1年のブランクを感じさせない動きで王者を翻弄し、合計5度のダウンを奪った末の8回KO勝ちを収めて王座の獲得に成功し、2階級制覇を達成した。

試合後のリング上で「次(初防衛戦)は坂本選手とやります」と宣言した。

2000年10月11日、横浜アリーナにて元OPBF東洋太平洋ライト級王者坂本博之(角海老宝石)を迎えて初防衛戦を行い、10回TKO勝ちを収めて初防衛に成功。

https://www.youtube.com/watch?v=SafSnE84Ozg

2001年2月17日、両国国技館にて全階級を通じての日本王座最多防衛回数となる22度の防衛を果たした元日本ライト級王者リック吉村(石川)を迎えて2度目の防衛戦を行い、挑戦者が減点を取られたこともあり、1-1(116-111、112-115、114-114)のドローで規定により2度目の防衛に成功。

2001年7月1日、さいたまスーパーアリーナにて同級1位の指名挑戦者で元WBA世界ライト級王者ジュリアン・ロルシー(フランス)を迎えて3度目の防衛戦を行うも、0-3(110-118、111-117、112-117)の判定負けを喫し王座から陥落。この試合を最後に2002年1月、正式に引退した。

https://www.youtube.com/watch?v=kusOKvyXGLM

畑山は日本のファンにとり、クローゼットクラシックシリーズのお気に入りの一人であり、そのシリーズのファンは畑山の試合がどれほど素晴らしく、彼がどれほど楽しいかを十分に知っているだろう。悲しいことに、ここでは彼の最も楽しい試合の話をしているのではなく、最も重要な勝利の話をしているのだ。それを考慮しても、私たちは畑山の素晴らしい試合をいくつか紹介することができる。

畑山隆則VS坂本博之は、日本のボクシング界を代表する男同士の対戦だった。
坂本は他の世界タイトル戦で何度も失敗しているが、その中にはセラノとの一戦も含まれている。この試合は素晴らしく、残忍でスリリングなもので、坂本は最終的に打たれすぎ、10ラウンドの早い段階で燃え尽きるように倒れた。悲劇的なボクシングの話が好きな人にとっては、坂本のキャリアと人生は一読の価値がある。畑山は、この後、同じファイターではなくなってしまったといえる。燃え尽きたような魂の宿る究極の試合だった。

畑山隆則は日本においてはデラホーヤのようなカリスマ性のあるファイターで、当時一人で日本のボクシングを支えていた。

やんちゃで運動神経抜群の少年だったのだろう、アマチュアの経験は一度もなく、プロの叩き上げのみで成り上がった。元来のセンスが素晴らしく、日本では走攻守の揃ったノックアウトパンチャーとして連戦KOで出世していったが、世界のスーパーフェザー級は別次元だった。ボクシングの妙、奥深さを身をもって教えてくれた。

崔龍洙は畑山のライバルといえる世界王者で、畑山以上の実績を残したが、彼もアジアの世界王者だった。スピード、見栄え、全て畑山が上にみえるのに、崔龍洙のタフネス、抵抗力、底力は恐ろしく、かつての相手のようにはいかなかった。

崔龍洙との試合を経て、世界で勝ち抜くために泥臭い「コリアンスタイル」を取り入れて、畑山はさらにスタイルに幅をもたせていった。そこが並の才能とは違う。

しかし防衛戦は多難だった。

サウル・デュランと引き分け、ラクバ・シンとの防衛戦では、選手生命の終わりともいえる痛烈なダウンを食らい敗北。ラクバ・シンは崔龍洙とどっこいの実力だったが、この階級の世界的ファイターの怖さを象徴するKOシーンだ。

畑山のような天才をしても、本当の世界との差は隔絶の感を抱いたが、その後は日本を中心に、誰もが期待する試合を続け、劇的な勝利を魅せていった。

畑山隆則VSコウジ有沢

浮かれて地に落ちた畑山より、真面目なイケメンの日本王者、コウジ有沢を推す声も大きかった試合だ。しかしキャリア、修羅場、才能の差をみせつけて畑山の完勝となった。

畑山隆則VS坂本博之

辰吉VS薬師寺と並んで語り継がれる永遠の試合だが、内容は断然こっちがいい。感動的なストーリーを持つ苦労人、坂本を応援するファンの方が多かったようにおもう。畑山はメイウェザーのような憎まれっ子だった。両者死力を出し尽くし、感動的なフィナーレを迎えたが、畑山の頭脳的完勝といえる内容だった。

畑山
「俺にはパンチがない、坂本にはある。だから俺が勝つんです。」

その後の試合は勝敗だけみれば

リック吉村には空転させられて負けでもおかしくなく
ジュリアン・ロルシーにはリングジェネラルシップで勝ちでもおかしくない

ような試合を消化し引退した。

マニアは知っている。

当時、オルズベック・ナザロフらとスパーリングしていた畑山もわかっていただろう。

スーパーフェザー級、ライト級には

フロイド・メイウェザー
ディエゴ・コラレス
アセリノ・フレイタス

ら、屈指の強豪が揃っていた。

そんなメンツの中では、いくら日本の誇り、畑山隆則であろうとも手も足も出ないであろうと。

しかし、やれば熱いファイトになったのは想像に難くない。

代わりに、畑山隆則は記録よりも記憶に残る数々の名勝負を日本のファンに提供し、一人日本ボクシングを支え続けた。やんちゃで熱く、期待を裏切らない、人々がアスリートに求める要素を全て持つ彼は、全力で時代を駆け抜けた。

彼にアマチュアキャリアや幼少期からの経験があれば、どれほど怪物だったろうか。

The post 風のHipster(ヒップスター)/畑山隆則 first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/92065/feed 0
サンディニスタの猛牛/El Bufalo(バッファロー)ロセンド・アルバレス https://forgotten-legend.com/legend/92052 https://forgotten-legend.com/legend/92052#respond Thu, 06 Aug 2020 01:42:56 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92052

全階級、歴史上屈指の芸術的ボクサー、リカルド・ロペスのすぐそこ、表裏には、もう一人の偉大なミニマムがいた。 ニカラグアのボクサーパンチャー、ロセンド・アルバレスは、1990年代後半と2000年代初頭に2階級で世界タイトル ...

The post サンディニスタの猛牛/El Bufalo(バッファロー)ロセンド・アルバレス first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

全階級、歴史上屈指の芸術的ボクサー、リカルド・ロペスのすぐそこ、表裏には、もう一人の偉大なミニマムがいた。

ニカラグアのボクサーパンチャー、ロセンド・アルバレスは、1990年代後半と2000年代初頭に2階級で世界タイトルを獲得し、国の人々を感動させた。

アルバレスは1970年5月6日、ニカラグアの首都マナグアのシウダード・サンディーノで生まれた。7人の末っ子で、戦争で荒廃した国での幼少期、困難な日々を送っていた。9歳の時、ニカラグア革命で父と兄が殺された。幼い子供は母親と一緒に牧草地の死体を見に行き、悲しみの衝撃に打ちのめされた。

アルバレス
「生活は苦しく、父と兄の暖かさのない人生はとても悲しいものでした。母は再婚することなく、私に最高のものを与えることに専念してくれた。私は彼女をヒーローだと思っている。」

困難な人生のスタートは、アルバレスのタフネスを形成するのに役立った。

アルバレス
「自分自身を守ることを学んだ。父や兄がいなかったので、大きな子供たちの絶え間ない虐待から自分を守るために大変でしたが、それが私に鋼の気性と戦士の心を与えてくれました。何も、誰も恐れることはありませんでした。喧嘩が絶えませんでした。不正は大嫌いです。」

16歳の時、アルバレスは2年間の兵役に就き、当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンが資金提供したサンディニスタ政府と反革命派の紛争に参加した。

その間にボクシングをはじめアマチュアとして頭角を現した。中米大会で金メダルを獲得し、3度の国内タイトルを獲得。75勝12敗という記録を残した後、1992年12月にプロに転向した。

ベネズエラでホセ・ボニージャと対戦する前に、最初の12戦で勝利した。”エル・バッファロー “は11戦目で未来のフライ級タイトルホルダーを印象的に止めた。さらに6勝を挙げた後、アルバレスはタイのサカオ(バンコクから200キロ東の小さな町)に渡り、1995年12月、長年王座に君臨していたチャナ・ポー・パオインと対戦、苦しい戦いの末、スプリットディシジョンでWBAストロー級王座に就いた。

振り返ってみると、これが彼のキャリアの中で最も誇らしい瞬間だったと感じている。

猛威を振るった王者は4度の防衛戦に成功、そのうち3度はアジアに遠征した。マネージャーであるルイス・スパダが統一戦を用意したとき、14ヶ月間のブランクに終止符を打つことになった。

アルバレス
「ドン・キングがメキシコシティでリカルド・ロペスと対戦するために非課税で265,000ドルのオファーをしてきた。その代わりにドン・キングと4年間のプロモーション契約を結ばなければならなかった。自分のキャリアの大きなステップだとおもって試合を受けたんだ。」

1998年3月3日、フリオ・セサール・チャベス対ミゲル・アンヘル・ゴンザレス戦のアンダーカードで、世界最高の105ポンド級ファイター2人が激突した。

アルバレス
「メキシコに行ってロペスに勝ったんだ。ロペスをキャンバスに倒し、ひどく痛めつけた。第8ラウンドのテクニカル・ドロー(頭突きでロペスを切ったため)で勝利を剥奪された。判定が発表されるまでに22分かかり、スコアカードの1枚が失われた。」

アルバレスはずっと再戦を熱望していたが、ついにマネージャーからの連絡を受けた。

アルバレス
「10月13日にルイス・スパダから電話があり、ドン・キングが11月13日にラスベガスで『フィニート』ロペスとの対戦をオファーしてきたことを知らせてくれた。時間がなく、その時点で体重が137ポンドだった。1ヶ月で105ポンドにしなければならなかったが、不可能でした。ドン・キングは、承諾しなければ再戦はないと言い、私のプライドに触れたので、受け入れることにしました。」

アルバレス
「たった1ヶ月で30ポンドの減量に励んだ。体が壊れていたんだ。計量時は105ポンドにならず(アルバレスは108¼)、チーム・ロペスが翌日の10時に計量しろと要求してきたので、さらなる苦しみが始まった。午前中に2回目の計量に行ったら、午後2時になると言われた。午後2時に戻ったら、計量は午後6時だと言われた。午後6時に着いた時、ロペスは休んでいて、食事も十分に摂っていて、私は一日中食べていませんでした。回復しなかったし、コンディションも非常に悪かった。」

アルバレスはWBA王座を剥奪されたが、ロペスにはWBCの王座がかかっていなかったため、王座を獲得する資格があった

契約したばかりの115ポンドの水分補給重量で戦った両者は、12ラウンドの激戦の末、ロペスがスプリットディシジョンの判定勝ちを収めた。

アルバレス
「フィニートの顔に、これまでの誰よりも多くのダメージを与えた。ロペスと彼のチームは私との3戦目を望んでいなかった。」

体重の問題でジュニアフライ級に移籍したが、しばらく活動を休止していた。3勝した後、ラスベガスでイベンダー ホリフィールドVSジョン ルイスのアンダーカードで空位の WBAストラップのためにべビス・メンドーサと対戦し、7ラウンド、ローブローで失格となった。

両者は2001年3月に再戦を行い、アルバレスがスプリットディシジョンの判定勝ちを収めた。二人はさらに2度戦い、アルバレスは両方の試合を制し、リングマガジンのベルトを獲得した。第3戦と第4戦の間には、IBFタイトルホルダーのビクター・ブルゴスとの統一戦、両者は引き分けに終わり、両者ともタイトルを保持した。

アルバレスのキャリアが不活発だったことは、今日まで彼を後悔させている。

アルバレス
「ドン・キングとプロモーション契約を結んだが、毎年1試合しかオファーしてくれなかった。契約では年に3試合だった。この邪悪なプロモーターに全幅の信頼を置いていたが、彼は他との契約を許してはくれなかった。14ヶ月ごとに試合をしていただけでは、体重を維持することができなかった。ドン・キングから受けた待遇のせいで、多くのお金と信用を失ってしまった。ドン・キングとの出会いは私にとって最悪だった。」

アルバレス(37勝4敗2分、24KO)は、2006年4月にホルヘ・アルセに初めて、そしてキャリアの中でたった一度だけストップされた後引退した。

現在50歳の元2階級世界タイトルホルダーは結婚しており、マナグアに住んでいる。夫婦には息子がおり、以前の関係から2人の子供もいる。7年前に「バッファロー・ボクシング・プロモーションズ」という会社を設立し、現在は22人のファイターと契約している。WBCケア基金のアンバサダージェネラルにも任命されており、フランシスコ法王のボックスバル基金にも関わっている。若者の薬物やアルコール摂取を防ぐためのモチベーションアップのための講演を行ったり、ニカラグアの高齢者や貧しい家庭のために自治体の協力を得て慈善活動を行ったりしている。

ライバルについて

ベストジャブ リカルド・ロペス

ロペスは非常に精度の良いジャブを持続して打ってきた。

ベストディフェンス リカルド・ロペス

私が攻めた時の打撃のかわし方を知っていて、ガードがとても固かった。

ハンドスピード ベビス・メンドーサ

彼のコンビネーションは強くて、非常に速くて精度が高かった。彼のパンチをかわすのは、かなり骨が折れた。

フットワーク リカルド・ロペス

フィニートはリングを動く達人だ。

スマート リカルド・ロペス

彼はラウンド毎にエネルギーの使い方を知っていて、無駄にエネルギーを消費しなかった。

屈強 ホルヘ・アルセ

アルセの強さは抜群で、とても勇敢な戦いぶりでした。

ベストチン チャナ・ポー・パオイン

6オンスのグローブで顔面を12発も殴って、傷だらけになってももケロっとしていた。彼に恐怖心はありませんでした。

ベストパンチャー  ホルヘ・アルセ

6ラウンドでKO負けしたのはアルセだけだった。違うウェイトで3度目の世界王座を狙っていました。

スキル リカルド・ロペス

ロペスは非常にテクニカルでクレバーだった。

総合 リカルド・ロペス

ロペスはテクニックでは常に相手を凌駕していたし、リングの中では非常にクレバーによく動いていた。

マナグア源流/El Bufalo(バッファロー)/ロセンド・アルバレス

私にとってミニマム級のベスト、レジェンドは

リカルド・ロペスであり、このロセンド・アルバレスだった。

ミニマムのロベルト・デュランだよと周りに触れ回っていたが相手にされなかった。

ロベルト・デュランと言ったのには根拠があり、不屈のスタミナと精神力、ファイターに一番大事な、核(コア)を強く感じる男だったからだ。
不人気、お荷物的なミニマム級で、祖国なき冷遇を受けてきたが、リカルド・ロペスという永遠のライバルを得て、歴史に名を残すファイターになることができた。

しかし、やはりアルバレスは主役にはなれなかった。
リカルド・ロペスとの初戦は悔しいがアルバレスのものだろう。

リカルド・ロペス戦こそ、人生のハイライトであり、あとはオマケでしかなかった。
ベビス・メンドーサと4度も戦ったり、後のレジェンド、ホルヘ・アルセに引導を渡されることになるが、もうあの時のEl Bufalo(バッファロー)ではなかった。

その背景には、やはり、ニカラグアの軽量級という現実と
ドン・キングの呪縛があったようだ。

全階級、歴史上屈指のパーフェクトボクサー、リカルド・ロペスのすぐそこ、表裏には、もう一人の偉大なミニマムがいた。

The post サンディニスタの猛牛/El Bufalo(バッファロー)ロセンド・アルバレス first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/92052/feed 0
0勝73敗 グッドラックルーザー/ベキシェ・モヨとエリック・クランブル https://forgotten-legend.com/legend/92021 https://forgotten-legend.com/legend/92021#respond Tue, 28 Jul 2020 13:00:02 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92021

私はもう眠らなければならない。みんなを愛しています。みんな良い子でいてね。 入国審査官によって国外退去を命じられる予定だったボクサーが、ロンドン南部の公園で遺体で発見された。 ジンバブエ国籍のベキシェ・モヨ(42歳)は1 ...

The post 0勝73敗 グッドラックルーザー/ベキシェ・モヨとエリック・クランブル first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

私はもう眠らなければならない。みんなを愛しています。みんな良い子でいてね。

入国審査官によって国外退去を命じられる予定だったボクサーが、ロンドン南部の公園で遺体で発見された。

ジンバブエ国籍のベキシェ・モヨ(42歳)は15年間イギリスに住んでいたが、内務省から国外退去を命じられた。

元銀行の支店長で、親切で知的な人で、常に自分のことよりも他人を優先する人と言われていた彼は、先週の月曜日に行方不明になったと報告されていた。

ジンバブエに住んでいる彼の取り乱した家族は、モヨがFacebookページに奇妙なメッセージを投稿していたことに気づいてから警戒を強めた。

モヨ
「私はもう眠らなければならない。みんなを愛しています。みんな良い子でいてね。」

警察はサットンのウォリントンにあるモヨの自宅付近の捜索を開始し、ミッチャムコモン付近で遺体を発見した。

モヨは50回以上のプロの試合に出場し、法律の学位を取得するために勉強したり、地元のボクシングクラブでボランティア活動をしたり、子供たちにボクシングを教えたりしていた。

友人であるタペロ・コボト氏は、モヨの遺体をジンバブエへ返還するために活動している。

タペロ・コボト
「彼はスポーツビザでここに来ました。長い間ここにいたいと無期限の残留許可を申請しようとしていた。しかし、彼はすべてが変わったと言い、ブルックハウス移民センターに連れて行かれた。11月に移民センターから解放されたが、強制送還の裁判は続きました。彼は正しい方法で物事を進めていると思っていたので、(強制送還は)失望した。彼はとても親切な人でした。自分よりも他の人に重きを置く人だった。例えば、最後の50ポンドを持っていたとしたら、誰かが問題を抱えていたら、それを与えるような人だった。」

オンラインの募金ページは、約1000ポンドに達し、モヨをジンバブエに送るのに役立った。

内務省は、モヨが昨年11月まで入国管理センターにいたことを確認している。モヨは強制送還されることになっていた。

広報担当者
「3月7日(火)午前0時40分頃、3月6日(月)の夜に行方不明となった男性に関連した調査を行っていた警察官が、ミッチャムコモン近くで死亡した男性の遺体を発見しました。男性は現場で死亡が確認されました。近親者には連絡しました。死亡は不審者として扱われていません。調査は続いています。」

https://boxrec.com/en/proboxer/323707

この選手を取り上げたのは、その驚くべき戦績からです。

0勝73敗2分

KO負けは6度しかないので、自分を守る術は心得ていたのだろう。
あるいは負けるためにリングに上がっていた。

2011年は、18試合
2013年は、16試合

もしている。

伝説の敗者/クリスチャン・ライト

こういうファイターは割のいい日雇い仕事のようにボクシングに取り組んでいたのだろうか。
それとも、それしか生きる術をしらない。

最低限の尊厳と自分を守る術は心得ていたと信じたいが

https://boxrec.com/en/proboxer/5316

こんなボクサーもいた。

0勝31敗全KO負け
あるいは自分を守るためにはすぐ倒れる。

エリック・クランブル(Eric Crumble、1966年12月10日生まれ)は、アメリカの元ボクサー。
1990年6月22日にプロデビューして以来、クランブルは32試合に出場し、1994年のノーコンテストを除いて全敗している。さらに、すべての敗戦は1回戦か2回戦でノックアウトされている。

13年間のボクシング人生の中で、クランブルは6つの階級で戦ってきた。最も注目すべき相手は、1993年にエンジェル・マンフレディ、1996年にアントゥーン・エコルズと対戦した。

クランブルは現在、ウィスコンシン州ミルウォーキーに住んでいる。

奇妙なのは、彼の写真やビデオの証拠がないことだ。
しかし、彼はエンジェル・マンフレディやアントゥーン・エコルズのようなビッグネームと戦ってきた。ボクシング界のクズのほとんどは、少なくともリング上でのビデオや写真をいくつか持っている。

エリック・クランブルの写真はない。
インタビューやフェイスブックのページも見つからない。
ウィキペディアにはミルウォーキー在住とある。ミルウォーキーには72歳のジェームズ・エリック・クランブルの記録があるが… 年齢が合っていない。

これもある種のレジェンドである。

The post 0勝73敗 グッドラックルーザー/ベキシェ・モヨとエリック・クランブル first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/92021/feed 0
悪魔が来りて笛を吹く/エドウィンDinamita(ダイナマイト)・バレロ https://forgotten-legend.com/legend/92017 https://forgotten-legend.com/legend/92017#respond Fri, 24 Jul 2020 06:36:06 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92017

バレロは自殺したのではなく、刑務官たちに殺されたんだ。 ベネズエラのバレンシアにある荒れたストリートで生まれたバレロは、他の同年代の子供たちからは仲間外れにされていた。 だから余計に遊びの喧嘩は深刻なものになってしまう。 ...

The post 悪魔が来りて笛を吹く/エドウィンDinamita(ダイナマイト)・バレロ first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

バレロは自殺したのではなく、刑務官たちに殺されたんだ。

ベネズエラのバレンシアにある荒れたストリートで生まれたバレロは、他の同年代の子供たちからは仲間外れにされていた。

だから余計に遊びの喧嘩は深刻なものになってしまう。
その気性の激しい子供は12歳の時ボクシングに出会った。

バレロはアマチュアとして、かつて倒れたことのない男たちを次々に倒し、86勝6敗57KOの成績を残した。バレロのスタミナ、純粋なパワーと強度は、彼を本能の怪物にした。

ベネズエラのボクシングトレーナーの多くは、バレロの才能に感銘を受け、今後の活躍に期待を寄せていた。

多くの人は、バレロには戦うための自然な才能があり、象徴的なボクサーに必要な要素が全て備わっていると考えていた。5フィート6で、体重は120ポンドしかなかったが、破壊するためだけに作られたマシーンのようだった。

WBCライト級王者であるマイキー・ガルシアはバレロとスパーリングを行ったことがある。

マイキー
「彼はハードヒットだけでなく、スパーリングの相手を常にノックアウトしていた。憑依されたように、バレロは人を傷つけたがっていた。」

バレロの戦術には「相手の武器を奪う」というものがある。これは相手の腕を殴り続けることで、腕が痛くて上がらないようにするものだ。

2001年2月5日、19歳の時にバレロはヘルメットをかぶらずにバイクで大事故に遭う。頭蓋骨を骨折しプロデビュー前に血栓を取り除く手術を受けた。

プロデビューしたのは2002年7月9日のことで、リングの隅で相手を倒すために2分間、絶え間ないパワーパンチを繰り出していた。続く17人の対戦相手を全て1ラウンド以内に撃破し、そのパワーと俊敏性、数え切れないほどの強烈なパンチを放って、自分の名を世に知らしめることになった。

ベネズエラの30年間で最高のプロスペクトとなり、当然のことながら、リングに上がったすべてのファイターを打ちのめし、歩くデスマシーンとなった。

2004年、バレロが12勝12KOだった時、ゴールデンボーイ・プロモーションズと契約、スターダムの夢はほぼ現実のものとなった。しかし脳の手術が明らかとなり、出場停止処分を受け、アメリカでボクシング活動ができなくなった。

再び戦えるかどうかわからないという思いに精神的に打ちのめされたはずだが、バレロはそうではなかった。決して歩みを止めなかった。スポーツ界のスーパースターになるために必要なものはすべて持っていたが、2009年までアメリカでは戦わず、他の場所で戦うことになった。

2006年、バレロはパナマ・シティでヴィセンテ・モスケラとWBAスーパーフェザー級王座決定戦に臨んだ。1回で2度もノックダウンされたモスケラは決して諦めない根性を見せ立ち上がって戦い続けた。バレロも第3ラウンドでノックダウンされた後、気迫とハートを見せた。ラウンドを重ねるごとに相手を懲らしめるバレロは、10ラウンド目についにモスケラをストップした。

スーパーフェザー級王座を4度防衛した後、WBCライト級王座に挑戦。この間、100%のノックアウト率を維持し、多くの著名なボクシングスターから注目を集めた。

フレディー・ローチはバレロをマニー・パッキャオとのスパーリングに招待した。

スパーリングの映像は公開されていないが、2004年にエリック・モラレスとスパーリングを行った時のものならある。バレロは信じられないほどのパンチを繰り出しモラレスの鼻を折った。マニーとエドウィンのスパーリングの間に何が起こったのかは想像することしかできないが、それが競争的で爆発的なものだったと多くの関係者は信じている。

リングを愛し、常に相手をノックアウトすること、それがバレロの最大の資質だった。学習過程であるスパーリングでも、バレロは相手を痛めつけたり、足がフラフラになるまでショットを繰り出した。

より良い挑戦のために体重を増やしていた。アントニオ・ピタルアとの戦いは、世界クラスの相手を簡単に倒すことができるバレロが、この段階でどれだけ学んでいるかを示していた。

試合はわずか3分49秒で終了し2階級世界王者となった。
バレロにはもっと厳しいテストが必要だった。

2010年2月6日、アントニオ・デマルコとの試合がラストファイトになった。デマルコはWBCライト級のベルトを獲得したが、バレロとは対戦しなかった。4インチの身長差があるデマルコは、最初の2ラウンドでバレロを抑えていた。2ラウンドでは、デマルコが不用意にバレロにヒジ打ちをしたが、頭から血が滴るバレロは全く気にしない。デマルコが10ラウンド目にスツールに座ったまま棄権するまで、自由にコンビネーションを繰り出していった。

バレロは3月10日にライト級王座を返上し、スーパーライト級を目指すことになる。

妻を殺害した罪で逮捕されたバレロは、刑務所の独房で首を吊って自殺した。
もっと多くのことを成し遂げられたはずのボクサーの恐ろしい最期だった。

エドウィン・バレロの生死には多くの謎が渦巻いていた。妻の死が訪れる前に、彼に対して多くの暴行疑惑があった。妻はアザや傷跡が絶えず、半年間の精神科のリハビリが最終的に二人の死につながった。ベネズエラでの彼の人気と功績のために、多くの人がバレロは恩赦されるとおもっていた。このことが、刑務官たちが、エドウィン・バレロを抹殺することに駆り立てたのかもしれない。

バレロのマネージャーだったホセ・カスティーリョは

「バレロは自殺したのではなく、刑務官たちに殺されたんだ。」

と述べた。

バレロは多くのドラッグに手を出していたとも言われている。目が赤い、早起きしない、イライラする、調子に乗らないなどの症状は、彼の友人が語ったもので、スポーツ選手としては非常に珍しいものだった。社会が決めたルールや法律の中で生きることが耐えられないケースに多い症状だ。

エドウィン・バレロの終焉は、偉大な才能が浪費された悲劇の物語の一つとなった。

世界王者としての名誉やボクサーとしての地位はリングの外で何をしようと関係ないはずだ。
バレロのキャリアは、彼の犯した許しがたき行為よりも、大統領の友人であり、国の象徴であるという名声の方が優先されるだろう。

エドウィン・バレロは偉大なボクサーだったが、根っからの暴力人間だった。
ついに悪魔が彼に追いついたのだ。

狂乱のロードウォリアー/エドウィン・バレロ

The post 悪魔が来りて笛を吹く/エドウィンDinamita(ダイナマイト)・バレロ first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]> https://forgotten-legend.com/legend/92017/feed 0 天まで届け/ブラック・マジック・マン/トラベール・マジオン(メイジオン) https://forgotten-legend.com/legend/92007 https://forgotten-legend.com/legend/92007#respond Wed, 22 Jul 2020 15:56:22 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=92007

彼の共感力、成熟度は24歳を超えていた。 オルティスは、この日の夜に25歳になったはずのマジオンにバルガスとの戦いを捧げると語った。 今週の金曜日、トラベル・マジオンは友人のバージル・オルティスがサミュエル・バルガスを相 ...

The post 天まで届け/ブラック・マジック・マン/トラベール・マジオン(メイジオン) first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

彼の共感力、成熟度は24歳を超えていた。
オルティスは、この日の夜に25歳になったはずのマジオンにバルガスとの戦いを捧げると語った。

今週の金曜日、トラベル・マジオンは友人のバージル・オルティスがサミュエル・バルガスを相手にリングに復帰するのを見るために、応援にかけつけたはずだった。

2人はこの1年で親しくなり、ゴールデンボーイの旗の下で戦い、いつかは世界タイトルを獲得することが約束されていた。オルティスのトップへの旅は再開され、マシオンはスーパーウェルター級のビッグネームを呼び寄せていた。

しかし、マジオンは24歳でこの世を去った。

水曜日の夜、マジオンはテキサス州オースティン近郊のハイウェイで交通事故に遭い、悲惨な死を遂げた。

テキサス州公安局によると、マジオンの車は中央分離帯を横切り、61歳のリチャード・サルターが運転する車と正面衝突した。マジオンは現場で死亡し、サルターはその夜病院で死亡した。

アーニー・ギャビオン(GBP)
「彼の性格は格闘家の理想でした。人に考えを押し付けられても文句を言わず、ゴールデンボーイファイターになることを決意していた。笑顔が絶えない。純粋に人が好きで人生を謳歌していた。私の方が感化されそうなほどだった。」

2月以来のDAZNとゴールデンボーイの初戦となる金曜日のイベントでは、マジオンの死は悲しみの雲となるだろう。スーパーウェルター級のマジオンはゴールデンボーイのイベントの常連となっており、おそらくDAZNが設立されてから2年の間にDAZNの放送に出演した中で、リング上でのパフォーマンスだけでなく、社会的良心においても、より記憶に残る選手の一人だっただろう。

2019年8月の同ネットワークでのデビュー戦では、ジェレミー・ラモスとの対戦前の入場時に、マジオンは銃暴力の犠牲者を称えた。このイベントはテキサス州グランドプレーリーで行われ、23人の命を奪ったエルパソのウォルマートでの大量銃撃事件から7日後のことだった。前例のない動きとして、マジオンはDAZNのプロデューサーに懇願し、音楽なしでリングに歩いて行くことと、コメンテーターと観客の両方が犠牲者に敬意を表して黙とうすることを要求した。

ボクシングは、10カウントの敬礼、黙祷、社会的、政治的なメッセージをファイターの身体やリングのコスチュームに表現することを知らない人はいない。しかし、現実の世界の出来事に反応するためにネットワークに請願し、自分たちのプラットフォームを使って感動的なオマージュを披露するファイターはほとんどいない。

マジオンの共感力、成熟度は24歳を超えていた。

マジオンのトリビュートが行われた夜は、彼とオルティスが初めて会った夜でもあった。オルティスは地元でのメインイベントに出場し、最終的にアントニオ・オロスコを6ラウンドで下し、マジオンは8ラウンドでラモスに全会一致の判定勝ちを収めた。

オルティス
「彼とは初めて会ったけど、会ってすぐに何年も前からの知り合いのように笑って話していた。トラベルよりも早く意気投合したことはないよ。その後、もっと仲良くなれなかったのは残念だ。良いボクサーで良い人だっただけでなく、素晴らしいショーマンでもあった。彼の試合を見ていて楽しませてもらった。とてもカリスマ的だった。」

オルティスは、この日の夜に25歳になったはずのマジオンにバルガスとの戦いを捧げると語った。

オルティス
「彼は自分の3倍の年齢の人よりも性格が良かった。誰かを批判することはなかった。いつも笑っていた。部屋に入ってきて雰囲気が悪かったとしても、5秒でその場を盛り上げてくれました。」

オースティン出身のマジオンは、キャリアを積んでいた時でさえ、とてつもない逆境を乗り越えてきた。

17歳でプロに転向し、アン・ウルフの指導を受けた。ウルフは厳しいトレーニング方法で有名だが、マジオンは決して怯むことはなかった。走力とスタミナのある選手として有名になり、1日に10マイルを走り、ウルフのリクエストで試合の週に17ラウンドのスパーリングを一度に行ったこともある。マジオンが6歳の時から19歳になるまで、二人は一緒にトレーニングをしていた。

マジオンがウルフの元を離れると、多くの不運に遭遇した。2015年から2017年にかけて、自己免疫性肝炎のために25ヶ月間の休養が必要だった。復帰した1年後、上腕二頭筋の怪我に加え、肘の怪我にも悩まされた。

しかし、2019年には、”ブラックマジック “はプロとしての彼のストライドだけでなく、トレーニングの新しい喜びを見つけたようだ。長期間、ボクシングを奪われたことで、彼はスウィートサイエンス(ボクシング)の新しい評価を発見した。新しいトレーナーのオゼル・ネルソンの下で、50年代と60年代の伝説的なファイターの研究を始め、シュガー・レイ・ロビンソンという新たなアイドルを見つけた。リング上ではより遊び心のあるスタイリッシュなアプローチを採用した。ラモスとの試合の週、彼は記者に「もうノックアウトを狙うだけではなく、リングで楽しみたい」と語った。

彼の目標は世界チャンピオンになってコーチになること。それが人生のプランだった。

マジオンの最後の戦いは2020年1月11日、DAZNで放送された試合でベテランのフェルナンド・カスタネダを1ラウンドでノックアウトした。この1ラウンドでの勝利は、マジオンの今後の活躍を予感させるものだった。

前回の試合では、トレアノ・ジョンソンに引き分けたほどタフな相手だったが、マジオンがあっさり下したことで、スーパーウェルター級のタイトル争いの扉をノックする一人としての地位を確立した。

その後の彼の行動で、身近な人たちは彼のことをより大切に思うようになった。

ジーナ・ボール(友人)
「私の娘は初めてのトーナメントで負けたことを悔やんでいました。全米2位というのは、決してみっともないことではなく、すごいことなのです。マジオンが17勝無敗になったのは娘の試合と同じ夜で、娘は落ち込んでいました。彼らはまるで兄と妹のような関係でした。マジオンは祝賀会の時間を利用して 娘に電話して様子を見に行きました。

マジオン
「12歳でこんな大活躍をしたなんて想像できる?君が決勝で勝てなかったことは問題ではない。」

マジオンから電話がかかってくるとすぐに、娘は笑顔を取り戻しました。」

マジオンの謙虚さは、アーニー・ギャビオン(GBP)にとっても思い出深いものだ。

アーニー・ギャビオン(GBP)
「私が最初にしなければならなかったことの一つはDAZNの活動を再開することでした。NBAが始まった頃でした。ステープルズセンターにはスイートルームがあって、トラベルとマネージャーのクリーブランドが自分たちも入れられるかどうか聞いてきた。なんとかスイートルームに入れることができ、彼らは私に感謝してくれた。試合後にトラベルがスイートルームを掃除しようと言った。私はそれを聞いたとき、床に伏した想いだった。次にトラベルがサンアントニオにいたとき、彼は私に感謝して最高の笑顔をみせてくれた。」

ジーナ・ボール(友人)は今、亡き友人を称えるため忙しく動いている。彼女はファンや友人、仲間のファイターに紫の風船を解き放つ姿を撮影してもらい、マジオンのFacebookページに投稿してもらうように頼んでいる。

ジーナ・ボール(友人)
「紫は彼の好きな色でした。私は彼のお母さんのために、彼が触れたすべての生活をトレースしていく作業をしています。私たちが彼を心から恋しがっていることを知らせるために、小さなメモが書かれた紫色の風船を天まで解き放っています。彼が今まで知っているよりも多くの想い、気持ちをこめて。」

ブラック・マジック・マン(黒魔術の男)/トラベール・マジオン

まだ無名の存在だったが、世界王者候補最有力だとおもっていた。ニックネーム通り、恐ろしい男と畏怖していたが、真摯なほどに純粋でナイスガイだったようだ。

身長185センチ、リーチ191センチ、崇拝する、トーマス・ハーンズやシュガー・レイ・ロビンソンになりえたかもしれない「ブラック・マジック・マン」トラベール・マジオンの運命は突如断たれた。

17勝13KO無敗

合掌。

The post 天まで届け/ブラック・マジック・マン/トラベール・マジオン(メイジオン) first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/92007/feed 0
6オンスのオデッセイ/アキーム・アニフォウォシェ https://forgotten-legend.com/legend/91980 https://forgotten-legend.com/legend/91980#respond Thu, 09 Jul 2020 03:40:06 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91980

アニフォウォシェにとって、彼が夢にまで見たタイトルを手にするきっかけとなったオデッセイは、ナイジェリアのラゴスから始まった。 https://www.youtube.com/watch?v=amvMztlthPQ 彼が涙 ...

The post 6オンスのオデッセイ/アキーム・アニフォウォシェ first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>

アニフォウォシェにとって、彼が夢にまで見たタイトルを手にするきっかけとなったオデッセイは、ナイジェリアのラゴスから始まった。

https://www.youtube.com/watch?v=amvMztlthPQ

彼が涙を流したのは、筋肉が衰えて棒のようになった足と、かつては細く研ぎ澄まされた体が、エル・グレコの絵の中の人物のように衰えていたからだ。

アキーム
「私は何度も泣いています。鏡で自分の姿を見るたびに、『あぁ、ダメだ』と言ってしまいます。」

22歳のAnifowoshe(Anna-fee-OH-sheeと発音)は言った。

しかし、それ以上に彼の目には見えないものがあり、彼の心は現実を拒絶していた。

これらの怪我は、アキームがボクシングの世界タイトルマッチの人生最高のチャンスから、昏睡状態と車椅子、死の淵に彼を導いた悲惨な数週間の始まりだった。

キロガとの試合の残忍な結末は、ボクシングの新たな問題を提起した。

アキームを除く誰もが、若いナイジェリアの移民、自分自身の人生を作るチャンスを夢見、オリンピックを目指した有望な選手は事実上終わったと感じていた。しかし、アキームだけは、彼のキャリアが終わったとは思っていない。深刻すぎるダメージにもかかわらず、彼は信じられないほど、再び戦うんだと主張した。

彼をここまで導いた世界タイトルマッチは、1991年6月15日に王者キロガの故郷サンアントニオで行われた。キロガが全会一致の判定で勝者と宣言された直後、キッド・アキーム(Kid Akeem)は片膝をついて沈み込み、突然キャンバスに倒れ込む前に血を吐き始めた。

ジェラルド・ザバラ博士(リングドクター)
「私がリングに上がる頃には、アキームは痙攣を起こしていた。意識がなく、呼吸困難で、右目の瞳孔が拡張していました。瞳孔が拡張しているということは、脳が頭と首の背骨の間にある穴を押し通そうとしていることを意味します。脳の圧力が非常に高くなっていました。歯磨き粉がチューブを破って出てくるような状態です。」

一人の男の災難と不幸は、すぐにボクシングの議論のネタになった。

アキームの負傷により、小柄な男がタイトルマッチで6オンスのグローブを使うことに疑問が生じた。アニフォウォシェが23試合で着用した8オンスのグローブではなく、キロガやアキームは試合時6オンスのグローブを着用していた。

テキサス州のボクシング当局は、重いグローブの方が怪我を防ぐことができると主張し、IBFは軽量級のタイトルマッチで軽いグローブを使用していると非難した。

IBFのボブ・リー会長は、重いグローブは、試合が進むにつれて小さなファイターを危険にさらす可能性があると述べ、ルールを擁護した。6オンスのグローブは他のタイトル戦で使用されているが何の問題も発生していない。しかしルールを変更することを検討すると述べた。

その夜のダメージは一方的なものではなかった。115ポンドとはいえ、細身のアニフォウォシェは常にヘビーパンチャーであり、それをキロガにも見せつけた。試合終了時には、キロガの顔は血まみれで腫れ上がっていた。

後にリングサイドでは、この試合がキロガのホームグラウンドで行われていなければ、試合は中止され、アニフォウォシェが勝利を手にしていたかもしれないとの声も聞かれた。最後のゴングでは、キロガは敗者のアキームよりもダメージがあるようにみえたほどだ。

昏睡状態のアキームがサンアントニオのバプティスト医療センターの集中治療室で治療されている頃、キロガも緊急治療室で、顎、左の眉毛とまぶたの切り傷の手当てを受けていた。退院して間もなく、キロガはIBFは6オンスのグローブの使用を禁止すべきだと語った。勝利は容易ではなかったことを十分に認めた。

試合後のレポートによると、アキームは頭部に400以上のパンチを受けていた。対照的に、先月のマイク・タイソンとドノバン・ラドックの12ラウンドのヘビー級戦では、交換されたパンチはずっと少なかった。

アニフォウォシェのマネージャー、ビリー・バクスターは、負傷の原因となったのはグローブのせいではなく、試合の激しさだったと述べた。

ビリー・バクスタ
「グローブよりも試合内容によるダメージが大きかった。どちらのファイターもクリンチをしなかった。毎ラウンド3分の壮絶な打撃戦だった。」

医師が脳への圧力を和らげるために頭蓋骨に穴を開けた後、アニフォウォシェは7月4日まで病院に入院していた。 その日は医師の助言に反して、妻シャロンが夫をラスベガスに連れて帰った日で、彼は3歳のアキーム・ジュニアと1歳半のカゼーム、2人の息子と再会した。

家族はスティールヘッド・レーンにある2ベッドルームの質素なアパートに住んでいた。

アニフォウォシェが退院する前日、磁気共鳴画像検査の結果、脳の両側に小さな損傷があることが判明した。ファイターの怪我の全容は2、3カ月は分からないだろうとおもわれた。

アニフォウォシェが退院した日、彼は入院後初めて左足を動かすことができた。医師は、アニフォウォシェが3~6ヶ月で歩けるようになることを示していると予想しているが、全体的な見通しについては悲観的な見方をしているわけではない。

ザバラ博士
「正直に言えば、アキームが完全に回復する可能性は30%しかないだろう。肉体的な力を完全に回復したとしても、彼は重度の再負傷のリスクが高いため、再び戦うことを考えるのは愚かなことだ。」

しかし、アニフォウォシェは彼の怪我を、目標である世界タイトルに到達するための一時的な後退に過ぎないと考えている。

アニフォウォシェ
「信じてくれ、私はまた戦う。すべては私にかかっている。キロガが与えたダメージは ボクシングの将来を示唆するものではない。言っておくよ。私は毎日祈っているし、人々にも祈ってもらっている。キロガは私に何のダメージも与えていない。判定がショックで倒れてしまったんだ。」

しかし、昏睡状態は脳の損傷を示す明確な兆候だ。
アニフォウォシェは少し考えてからこう言った。

アニフォウォシェ
「信じてください、私が昏睡状態にあるとき、私は自分に何が起こっているかわかっていました。わかっていたんです。聞いてください。私に起こったことは、私の心を混乱させました。毎日頭にきているんだ。病院でキロガに会っても言うんだ。ロバート、俺は勝ったんだ、もう1度やろうと。キロガは私を見て言った。お前はクレイジーだ。

私はまだ世界チャンピオンになることを考えている。できるだけ早く復帰したい。信じてくれ、また戦うためなら何でもするよ。スロー・バイ・スロー、時間をかけて。夢はまだ終わっていない。」

アニフォウォシェにとって、彼が夢にまで見たタイトルを手にするきっかけとなったオデッセイは、ナイジェリアのラゴスから始まった。

彼はそこで9人の子供たちの家族の中で育った。

父親のアシュルはトラック運転手、母親のニモタはバーを経営していた。

アニフォウォシェがボクシングを始めたきっかけは、コミカルなものだった。

姉に殴られた後、兄のダダが彼をジムに連れて行ってくれたのは、自分の身を守るためだった。しかし、当時9歳だったアニフォウォシェはストリートライフに興味を持ち、ジムに通うのをやめるまでに時間はかからなかった。12歳になると、彼は「ハッパ」を吸ったり、バス停でうろついたりしていたという。

14歳の時、財布を奪った女性に反撃され、ひどく殴られたので、彼はジムに戻り、再びボクシングを始めた。その後もボクシングを続け、地元や全国の大会で優勝するようになった。

1984年には、ナイジェリアのオリンピックチームの一員となる。大会会場となったロサンゼルスで、彼は年齢の記入を求められたところ、正直に「15歳」と書いてしまった。彼は不適格と宣言された。

しかし、彼はナイジェリアに戻るのではなく、アメリカに残り、1988年の大会を目指すことにした。

1960年代半ば、ジョブ・コープでジョージ・フォアマンを発見したブロード・ウスは、ラスベガスに住んでいた。アニフォウォシェがここに到着した時は夜で、街はネオンに照らされていた。

昼間になると、砂漠での生活はそれほど華やかではないことがわかった。車を持っておらず、常にお金が不足していた。それでも彼は日常的に他人、特に同胞のアフリカ人にお金を貸し、ブロード・ウスと暮らしていた時も、後に自分の家で暮らしていた時も、避難所のない人たちを家賃なしで泊めていた。

1986年5月、リノで行われた世界アマチュア選手権に出場したアニフォウォシェは、準々決勝でソ連のボクサー、ユーリ・アレキサンドロフを相手にした試合で審判の判定に被害を受け、抑えきれないほどの涙を流したという。

アニフォウォシェ
「私の人生、私の人生。毎日トレーニングしてきた。毎日トレーニングしてきた。私の人生、私の人生」

失望がオリンピックの野望を放棄させ、代わりに1987年1月にプロに転向した。

アニフォウォシェはほぼ隔月で戦い、350ドルから600ドルの賞金を得て、ランチョ高校の3年生のカリキュラムに合わせて試合をアレンジした。

アニフォウォシェ
「私はストレートAの生徒だった。学校が好きな人はいないだろうが、何をするにしても一番を目指すべきだ。」

その献身はボクシングにも及んだ。

ミゲル・ディアス(トレーナー)
「彼はいつもスパーリングを要求していた。もう1ラウンドやらせてくれと言っていた。彼は仕事を恐れていませんでした。誰にも口答えしない。いつもありがとうと言う。彼は 他の世代から来た子供だった。」

1988年5月 シャロンとアキームは結婚した。彼の賞金が1試合1000ドルを超えることはめったになく、家族を養うのに十分な額ではなかったが、バクスターはアニフォウォシェに世界王者の夢を託し、彼の家賃を支払い、小遣いを渡して、ファイターをサポートしていた。

バクスターの目標は、アキームと同じだった。キロガと戦うことで、アニフォウォシェは15,000ドルというささやかな世界戦の賞金を得ることになるが、これは前戦の最高額である7,000ドルの2倍以上だ。

ナイジェリアの大統領は、試合前の楽屋で、アニフォウォシェが母国で初のタイトル防衛戦を5万から6万人の同胞で埋め尽くされた屋外スタジアムで行うことを想像していた。

友人であり、マネージャーでもあるナムディ・モウェタは、アニフォウォシェと同じくラゴス出身で、部族語で「お前はライオンだ」と言って彼を鼓舞した。

それから3週間余り後、彼はベッドに横たわり、傷ついた男が夢を手放さないようにしていた。プロモーターの保険では 1万ドルしか補償されなかったが、彼の医療費はそれをはるかに超えるだろう。

日曜日、バクスターはラスベガスに飛んだ。バクスターはアニフォウォシェのための無料の物理療法を手配し、彼をサポートするための財団と共に、アニフォウォシェの治療に全力で奔走した。漠然とした人生の中で、心配することがたくさんあった。

2日後、バクスターは彼のアパートを訪れた。

「今日は散歩してたんだ」

アニフォフォシェはベッドの上から言った。

「外に出て15分だけ。」

バクスターは懐疑的な顔をしていた。

「助けがいたのか?」

「妻のシャロンが私の後ろを歩いていた、念のために。」

2時間後 彼がリビングルームに移動できるように足を助けられた時、アニフォフォシェは左足を前に動かそうとしたがその場で固まってしまった。何度も試してみたが足は動かなかった。結局、義父のウィリー・スコットが彼を腕に抱きかかえ、リビングルームの車椅子まで彼を歩かせた。」

それから間もなく、シャロンが、夫の薬を持って家に戻り、その朝、本当に外を歩いたのかと聞かれた。

シャロンはそんな事実はないと言った。

運命の結末まで数マイル/ロバート(PIKIN)キロガ

1991年6月15日
IBF世界ジュニアバンタム級タイトルマッチ

王者ロバート・キロガ(17勝11KO)VS挑戦者アキーム・アニフォウォシェ(キッド・アキーム)(23勝18KO)

この試合こそ、階級屈指の歴史的名勝負だった。
これを超える試合は未だかつてない。
世界王者になれなかった最強の男をみた。

しかし、敗者だけでなく勝者の栄光、運命も一瞬の花火と消えた。

ナイジェリアの褐色の長身強打者、アキーム・アニフォウォシェはキロガへの敗北が致命傷となり、23勝18KO1敗という記録で引退した。一命をとりとめたアキームはその後麻薬密売に手を染め、ナイジェリアに強制送還された。

ナイジェリアでボクシングを再開したが、1994年、わずか26歳で亡くなっている。

禁止されている試合に出てシャワー室で倒れたという説やトレーニング中に倒れたとも言われている。いずれにせよ、キロガ戦の敗北とダメージが彼の運命を決めたのだろう。

トレーナーのミゲル・ディアスは、アキームがこれまでに訓練した中で最も自然な才能を持っていたと語った。

https://www.youtube.com/watch?v=NXwYm_4MOsA

The post 6オンスのオデッセイ/アキーム・アニフォウォシェ first appeared on 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち.

]]>
https://forgotten-legend.com/legend/91980/feed 0