【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち https://forgotten-legend.com ボクシング不滅のレジェンドたち Thu, 09 Jul 2020 06:18:40 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.4.2 https://forgotten-legend.com/wp-content/uploads/2019/10/cropped-box512-32x32.png 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち https://forgotten-legend.com 32 32 6オンスのオデッセイ/アキーム・アニフォウォシェ https://forgotten-legend.com/legend/91980 https://forgotten-legend.com/legend/91980#respond Thu, 09 Jul 2020 03:40:06 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91980 アニフォウォシェにとって、彼が夢にまで見たタイトルを手にするきっかけとなったオデッセイは、ナイジェリアのラゴスから始まった。

彼が涙を流したのは、筋肉が衰えて棒のようになった足と、かつては細く研ぎ澄まされた体が、エル・グレコの絵の中の人物のように衰えていたからだ。

アキーム
「私は何度も泣いています。鏡で自分の姿を見るたびに、『あぁ、ダメだ』と言ってしまいます。」

22歳のAnifowoshe(Anna-fee-OH-sheeと発音)は言った。

しかし、それ以上に彼の目には見えないものがあり、彼の心は現実を拒絶していた。

これらの怪我は、アキームがボクシングの世界タイトルマッチの人生最高のチャンスから、昏睡状態と車椅子、死の淵に彼を導いた悲惨な数週間の始まりだった。

キロガとの試合の残忍な結末は、ボクシングの新たな問題を提起した。

アキームを除く誰もが、若いナイジェリアの移民、自分自身の人生を作るチャンスを夢見、オリンピックを目指した有望な選手は事実上終わったと感じていた。しかし、アキームだけは、彼のキャリアが終わったとは思っていない。深刻すぎるダメージにもかかわらず、彼は信じられないほど、再び戦うんだと主張した。

彼をここまで導いた世界タイトルマッチは、1991年6月15日に王者キロガの故郷サンアントニオで行われた。キロガが全会一致の判定で勝者と宣言された直後、キッド・アキーム(Kid Akeem)は片膝をついて沈み込み、突然キャンバスに倒れ込む前に血を吐き始めた。

ジェラルド・ザバラ博士(リングドクター)
「私がリングに上がる頃には、アキームは痙攣を起こしていた。意識がなく、呼吸困難で、右目の瞳孔が拡張していました。瞳孔が拡張しているということは、脳が頭と首の背骨の間にある穴を押し通そうとしていることを意味します。脳の圧力が非常に高くなっていました。歯磨き粉がチューブを破って出てくるような状態です。」

一人の男の災難と不幸は、すぐにボクシングの議論のネタになった。

アキームの負傷により、小柄な男がタイトルマッチで6オンスのグローブを使うことに疑問が生じた。アニフォウォシェが23試合で着用した8オンスのグローブではなく、キロガやアキームは試合時6オンスのグローブを着用していた。

テキサス州のボクシング当局は、重いグローブの方が怪我を防ぐことができると主張し、IBFは軽量級のタイトルマッチで軽いグローブを使用していると非難した。

IBFのボブ・リー会長は、重いグローブは、試合が進むにつれて小さなファイターを危険にさらす可能性があると述べ、ルールを擁護した。6オンスのグローブは他のタイトル戦で使用されているが何の問題も発生していない。しかしルールを変更することを検討すると述べた。

その夜のダメージは一方的なものではなかった。115ポンドとはいえ、細身のアニフォウォシェは常にヘビーパンチャーであり、それをキロガにも見せつけた。試合終了時には、キロガの顔は血まみれで腫れ上がっていた。

後にリングサイドでは、この試合がキロガのホームグラウンドで行われていなければ、試合は中止され、アニフォウォシェが勝利を手にしていたかもしれないとの声も聞かれた。最後のゴングでは、キロガは敗者のアキームよりもダメージがあるようにみえたほどだ。

昏睡状態のアキームがサンアントニオのバプティスト医療センターの集中治療室で治療されている頃、キロガも緊急治療室で、顎、左の眉毛とまぶたの切り傷の手当てを受けていた。退院して間もなく、キロガはIBFは6オンスのグローブの使用を禁止すべきだと語った。勝利は容易ではなかったことを十分に認めた。

試合後のレポートによると、アキームは頭部に400以上のパンチを受けていた。対照的に、先月のマイク・タイソンとドノバン・ラドックの12ラウンドのヘビー級戦では、交換されたパンチはずっと少なかった。

アニフォウォシェのマネージャー、ビリー・バクスターは、負傷の原因となったのはグローブのせいではなく、試合の激しさだったと述べた。

ビリー・バクスタ
「グローブよりも試合内容によるダメージが大きかった。どちらのファイターもクリンチをしなかった。毎ラウンド3分の壮絶な打撃戦だった。」

医師が脳への圧力を和らげるために頭蓋骨に穴を開けた後、アニフォウォシェは7月4日まで病院に入院していた。 その日は医師の助言に反して、妻シャロンが夫をラスベガスに連れて帰った日で、彼は3歳のアキーム・ジュニアと1歳半のカゼーム、2人の息子と再会した。

家族はスティールヘッド・レーンにある2ベッドルームの質素なアパートに住んでいた。

アニフォウォシェが退院する前日、磁気共鳴画像検査の結果、脳の両側に小さな損傷があることが判明した。ファイターの怪我の全容は2、3カ月は分からないだろうとおもわれた。

アニフォウォシェが退院した日、彼は入院後初めて左足を動かすことができた。医師は、アニフォウォシェが3~6ヶ月で歩けるようになることを示していると予想しているが、全体的な見通しについては悲観的な見方をしているわけではない。

ザバラ博士
「正直に言えば、アキームが完全に回復する可能性は30%しかないだろう。肉体的な力を完全に回復したとしても、彼は重度の再負傷のリスクが高いため、再び戦うことを考えるのは愚かなことだ。」

しかし、アニフォウォシェは彼の怪我を、目標である世界タイトルに到達するための一時的な後退に過ぎないと考えている。

アニフォウォシェ
「信じてくれ、私はまた戦う。すべては私にかかっている。キロガが与えたダメージは ボクシングの将来を示唆するものではない。言っておくよ。私は毎日祈っているし、人々にも祈ってもらっている。キロガは私に何のダメージも与えていない。判定がショックで倒れてしまったんだ。」

しかし、昏睡状態は脳の損傷を示す明確な兆候だ。
アニフォウォシェは少し考えてからこう言った。

アニフォウォシェ
「信じてください、私が昏睡状態にあるとき、私は自分に何が起こっているかわかっていました。わかっていたんです。聞いてください。私に起こったことは、私の心を混乱させました。毎日頭にきているんだ。病院でキロガに会っても言うんだ。ロバート、俺は勝ったんだ、もう1度やろうと。キロガは私を見て言った。お前はクレイジーだ。

私はまだ世界チャンピオンになることを考えている。できるだけ早く復帰したい。信じてくれ、また戦うためなら何でもするよ。スロー・バイ・スロー、時間をかけて。夢はまだ終わっていない。」

アニフォウォシェにとって、彼が夢にまで見たタイトルを手にするきっかけとなったオデッセイは、ナイジェリアのラゴスから始まった。

彼はそこで9人の子供たちの家族の中で育った。

父親のアシュルはトラック運転手、母親のニモタはバーを経営していた。

アニフォウォシェがボクシングを始めたきっかけは、コミカルなものだった。

姉に殴られた後、兄のダダが彼をジムに連れて行ってくれたのは、自分の身を守るためだった。しかし、当時9歳だったアニフォウォシェはストリートライフに興味を持ち、ジムに通うのをやめるまでに時間はかからなかった。12歳になると、彼は「ハッパ」を吸ったり、バス停でうろついたりしていたという。

14歳の時、財布を奪った女性に反撃され、ひどく殴られたので、彼はジムに戻り、再びボクシングを始めた。その後もボクシングを続け、地元や全国の大会で優勝するようになった。

1984年には、ナイジェリアのオリンピックチームの一員となる。大会会場となったロサンゼルスで、彼は年齢の記入を求められたところ、正直に「15歳」と書いてしまった。彼は不適格と宣言された。

しかし、彼はナイジェリアに戻るのではなく、アメリカに残り、1988年の大会を目指すことにした。

1960年代半ば、ジョブ・コープでジョージ・フォアマンを発見したブロード・ウスは、ラスベガスに住んでいた。アニフォウォシェがここに到着した時は夜で、街はネオンに照らされていた。

昼間になると、砂漠での生活はそれほど華やかではないことがわかった。車を持っておらず、常にお金が不足していた。それでも彼は日常的に他人、特に同胞のアフリカ人にお金を貸し、ブロード・ウスと暮らしていた時も、後に自分の家で暮らしていた時も、避難所のない人たちを家賃なしで泊めていた。

1986年5月、リノで行われた世界アマチュア選手権に出場したアニフォウォシェは、準々決勝でソ連のボクサー、ユーリ・アレキサンドロフを相手にした試合で審判の判定に被害を受け、抑えきれないほどの涙を流したという。

アニフォウォシェ
「私の人生、私の人生。毎日トレーニングしてきた。毎日トレーニングしてきた。私の人生、私の人生」

失望がオリンピックの野望を放棄させ、代わりに1987年1月にプロに転向した。

アニフォウォシェはほぼ隔月で戦い、350ドルから600ドルの賞金を得て、ランチョ高校の3年生のカリキュラムに合わせて試合をアレンジした。

アニフォウォシェ
「私はストレートAの生徒だった。学校が好きな人はいないだろうが、何をするにしても一番を目指すべきだ。」

その献身はボクシングにも及んだ。

ミゲル・ディアス(トレーナー)
「彼はいつもスパーリングを要求していた。もう1ラウンドやらせてくれと言っていた。彼は仕事を恐れていませんでした。誰にも口答えしない。いつもありがとうと言う。彼は 他の世代から来た子供だった。」

1988年5月 シャロンとアキームは結婚した。彼の賞金が1試合1000ドルを超えることはめったになく、家族を養うのに十分な額ではなかったが、バクスターはアニフォウォシェに世界王者の夢を託し、彼の家賃を支払い、小遣いを渡して、ファイターをサポートしていた。

バクスターの目標は、アキームと同じだった。キロガと戦うことで、アニフォウォシェは15,000ドルというささやかな世界戦の賞金を得ることになるが、これは前戦の最高額である7,000ドルの2倍以上だ。

ナイジェリアの大統領は、試合前の楽屋で、アニフォウォシェが母国で初のタイトル防衛戦を5万から6万人の同胞で埋め尽くされた屋外スタジアムで行うことを想像していた。

友人であり、マネージャーでもあるナムディ・モウェタは、アニフォウォシェと同じくラゴス出身で、部族語で「お前はライオンだ」と言って彼を鼓舞した。

それから3週間余り後、彼はベッドに横たわり、傷ついた男が夢を手放さないようにしていた。プロモーターの保険では 1万ドルしか補償されなかったが、彼の医療費はそれをはるかに超えるだろう。

日曜日、バクスターはラスベガスに飛んだ。バクスターはアニフォウォシェのための無料の物理療法を手配し、彼をサポートするための財団と共に、アニフォウォシェの治療に全力で奔走した。漠然とした人生の中で、心配することがたくさんあった。

2日後、バクスターは彼のアパートを訪れた。

「今日は散歩してたんだ」

アニフォフォシェはベッドの上から言った。

「外に出て15分だけ。」

バクスターは懐疑的な顔をしていた。

「助けがいたのか?」

「妻のシャロンが私の後ろを歩いていた、念のために。」

2時間後 彼がリビングルームに移動できるように足を助けられた時、アニフォフォシェは左足を前に動かそうとしたがその場で固まってしまった。何度も試してみたが足は動かなかった。結局、義父のウィリー・スコットが彼を腕に抱きかかえ、リビングルームの車椅子まで彼を歩かせた。」

それから間もなく、シャロンが、夫の薬を持って家に戻り、その朝、本当に外を歩いたのかと聞かれた。

シャロンはそんな事実はないと言った。

1991年6月15日
IBF世界ジュニアバンタム級タイトルマッチ

王者ロバート・キロガ(17勝11KO)VS挑戦者アキーム・アニフォウォシェ(キッド・アキーム)(23勝18KO)

この試合こそ、階級屈指の歴史的名勝負だった。
これを超える試合は未だかつてない。
世界王者になれなかった最強の男をみた。

しかし、敗者だけでなく勝者の栄光、運命も一瞬の花火と消えた。

ナイジェリアの褐色の長身強打者、アキーム・アニフォウォシェはキロガへの敗北が致命傷となり、23勝18KO1敗という記録で引退した。一命をとりとめたアキームはその後麻薬密売に手を染め、ナイジェリアに強制送還された。

ナイジェリアでボクシングを再開したが、1994年、わずか26歳で亡くなっている。

禁止されている試合に出てシャワー室で倒れたという説やトレーニング中に倒れたとも言われている。いずれにせよ、キロガ戦の敗北とダメージが彼の運命を決めたのだろう。

トレーナーのミゲル・ディアスは、アキームがこれまでに訓練した中で最も自然な才能を持っていたと語った。

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野心は自暴自棄に、期待は諦めに/不倒のコブラ アルフレッド・コティ https://forgotten-legend.com/legend/91974 https://forgotten-legend.com/legend/91974#comments Tue, 07 Jul 2020 04:04:55 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91974 野心は自暴自棄に、期待は諦めに変わっていた。

「アルフレッドはイギリス王者を 冷酷なまでに粉砕した」

ガーナのアルフレッド・コティはスコットランドのドリュー・ドーチャーティを止めてWBOバンタム級王座を防衛したばかりだ。

1500人の観客は、勇敢なドーチャーティのショットを見ようと集まっていたが、彼らは両者の力量差が大きすぎることを認めた。4ラウンドの20秒後に試合は終了した。

1988年にラファエル・デル・バーレを相手に世界タイトルを獲得したガーナのオリンピアンは、大きなことを成し遂げようとしていた。

アルフレッド・コティ
「アズマー・ネルソンはいつも世界チャンピオンになったら、それを守るために死を覚悟して戦わなければならないと言っていた。彼は私の親友であり、私はいつも彼の指導を尊敬している。ガーナでは彼の義父が私のマネージャーをしています。私は今、すべての選手のために準備ができています。私は試合前に簡単だと言った。彼は勇敢だったが、私のクラスではない。今のところどのバンタムも怖くない。ファンシーダンスのプリンス、ナシーム・ハメドに期待しているが、彼をファイターとは評価していない。ダンスは得意だが サーカスよりもボクシングの方が大事だ。」

コテイは20勝1敗、若くて野心的で危険な選手だった。国際ボクシング殿堂会員のハリー・マランは 彼を “超一流 “と呼んだ。

この頃アルフレッドはスペンサー・オリバーという 才能ある若いファイターに出会った。1994年のコモンウェルスゲームから戻ってきた “オーメン “は、コティのチーム「KOPRO」から契約のオファーを受けた。

スペンサー・オリバー
「アルフレッドとスパーリングをする機会が来たんだ。彼はバンタム級だからやってみようと思ったんだ。全身に効く強烈なショットを打たれた。彼は並外れていた。KOPROでプロに転向して、僕らは仲間になったんだ。彼はとても静かで、とても控えめで、多くを語らず、時折ジョークを飛ばしていたが、驚異的な才能を持っていた。多くのことを教えてくれた。スパーリングを軽んじる人ではなかったので、私を鍛えてくれた。厳しいスパーリングが好きだったし、彼との思い出は本当に深い。私たちはガーナに行き、アズマ・ネルソンの家に泊まりました。彼はガーナを愛していました。」

オリバーは欧州タイトルを獲得したが、ピーク時の世界タイトル戦を12ラウンドで終えた最後の試合でひどいケガに見舞われた。

この時点でコティはロンドンでダニエル・ヒメネスに世界タイトルを奪われており、アメリカに移ってからは青コーナーで21勝2敗のグティ・エスパダスや22勝1敗のフアン・マヌエル・マルケスとの対戦を引き受けていた。

オリバーは回復し、再び歩けるようになっていたが、コティはアメリカ西海岸におり、スペンサーは自分の仕事をしていたので、二人は疎遠になった。数試合のうちに、コティは「超一流」から「過去の名選手」になっていた。そして「名のある相手」から「ただの対戦相手」に堕ちた。

コティは努力を続けたが、彼のキャリアには舵がかからなかった。

2001年、コティはブラジル人パンチャーのアセリノ・フレイタスが初めて倒せなかった男になった。ポポ(フレイタス)は29勝0敗(29KO)の輝かしい戦績から30勝0敗(29KO)になった。ノンタイトル戦だったが、当時WBOスーパーフェザー級王者だったフレイタスは、次の試合でホエル・カサマヨールからWBAのベルトを獲得した。

しかし、コティには、衰退が始まっており、ボクシングではその時点に達すると、それは不可逆的であり、悪化するだけだった。2002年はマラリアで欠場したが、2003年10月のオーランド・サリド戦では10ラウンド大差で敗れた。

ジム・ブレイディ(コーチ、故人)
「サリドからダウンを奪ったことは別として、サリドは優れたなファイターで、おそらくコティが積極的に動いていたとしても勝てなかったろう」

最後の3ラウンドではかつてのスタイリッシュなアフリカ人は夢遊病者のようだった。

コティは11戦中2勝しかせず フレイタス サリド ホセ・ミゲル・コット アントニオ・ディアス ビクター・オルティス アンソニー・ピーターソンに敗れた。コティは常にプロスペクトにラウンドを与えていたがすべての距離をわかっていた。それが8ラウンド、10ラウンド以上に関わらず、決して倒されることはなかった。

ガーナでの試合もあったが、コティはアメリカ全土で容赦なく酷使された。

オリバーにとっては、遠くから見ていても耐えられないほどだった。

スペンサー・オリバー
「彼が何度か負けているのを知り、とっくに引退したのかと思っていたら、またボクシングをやっていた。44歳まで引退していなかったののを知り、正直言って悲しい。彼のキャリアを追うのをやめたのは、彼がよく殴られているのを見てからだ。偉大なファイターが戦い続けているのを見ていると、それがどのようになるかわかるだろう。別人のように見えたんだ 悲しいと思った。」

野心は自暴自棄に、期待は諦めに変わっていた。

1988年にコティがデビューした翌年に生まれた15勝0敗の同胞であるフレデリック・ローソンとの最後の試合で、コティは唯一ストップ負けをした。ストップ負けはこれが最初で最後、この試合で引退となった。コティは第3ラウンドを終えた後、試合を続けることができなかった。2012年のことだ。

その試合はガーナで行われたが、コティはアメリカで暮らすために戻ってくることになった。

6月30日(火)にニューヨークのブロンクスで52歳の若さで亡くなった。

26勝17敗1分(16KO)という記録は、彼を正しく表すものではない。

スペンサー・オリバー
「彼のことは本当に大切な思い出だよ。彼こそがナシーム・ハメドに勝てると信じていたんだ。彼とはリングを共にしたこともあるし、特別な存在だと思っていた。バンタム級がキツイことは知っていたが、いつかはナシームと戦うだろうと思っていたし、誰かがハメドを倒せるならば、それはアルフレッドだろうと思っていた。

彼は美しい人であり 常に助けてくれた。」

コティは1988年ソウルオリンピックのフライ級で出場。1回戦は初回レフェリーストップ勝ちを収め、2回戦は同じアフリカ勢同士の対戦になったが5-0の判定勝ちを収めた。しかし3回戦では今大会の銅メダリストのマリオ・ゴンサレスに0-5の判定で敗れた。

日本が未加入のIBF、WBOで活躍した選手なので、アルフレッド・コティの事はあまり良く知らない。しかし初期は、日本の鬼塚やカオサイも苦戦したアルマンド・カストロら、猛者を下している。スペンサー・オリバーが言う通りの脅威の才能だったのだろう。

この記事でアイク・クオーティーよりもアルフレッド・コティの方がエリートでみんなの注目を集めていたとあるが、クオーティーは人気のウェルター級で時代を築き、フライ級上がりのコティは晩年体重を増やし、階級上のデカいプロスペクトの踏み台にされた。

輝かしい才能、世界王者の誕生、しかし僅差の試合を落とし王座を陥落してから何かが狂った。ガーナではなく、英国やアメリカで大きく人生を狂わせたような戦績だ。

恐らく環境になじめず、気持ちがきれ、昔覚えたスキルだけで凌いでいたのではないか。それが見事に伺える増量と、初期の白星、後期の黒星、残酷なコントラストとなっている。

しかし、フライ級から咬ませ犬として雇われた男は、誰にも倒されることは拒んだ。当時全勝全KOのアセリノ・フレイタスの記録を止め、強打のビクター・オルティスにも倒されなかった。

バンタム級の選手がそれをするだけで驚異的だ。
それだけが最後に残された矜持だったのかもしれない。

一体何がアルフレッド・コティを壊してしまったのだろう。
44歳まで現役を続け、52歳で脳卒中で死亡、明らかに打たれすぎた後遺症だろう。

こういう選手を容赦なく酷使してはいけない。
生きるため、金のためだったにしても、もっと彼にしてやれることがあったはずだ。

コモンウェルスイギリス連邦フライ級王座
第5代WBO世界バンタム級王座(防衛2)
WBCインターナショナルスーパーバンタム級王座
WBFインターコンチネンタルライト級王座

ちなみにコティも出場した1988年ソウルオリンピックのフライ級

金メダルは
金光善(ソウル五輪だからじゃないかな)

銀メダル
アンドレアス・テウス

銅メダル
マリオ・ゴンサレス
ティモフェイ・スクリアビン

ティモフェイ・スクリアビンはユーリ・アルバチャコフ(世界選手権金)が出るべきだったロシアの選手であり、ユーリが出ていれば金だったのではないかな。

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一杯のコーヒー/シュガー・レイ・ロビンソン https://forgotten-legend.com/legend/91968 https://forgotten-legend.com/legend/91968#respond Tue, 09 Jun 2020 03:19:37 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91968 ロビンソンに関しては、1000杯のコーヒーでも足りないほどのエピソードがありそうだから、これはほんの一口。

シュガー・レイ・ロビンソン(Sugar Ray Robinson、1921年5月3日 – 1989年4月12日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。本名はウォーカー・スミス・ジュニア(Walker Smith Jr.)。ミシガン州デトロイト出身。元世界ミドル級および世界ウェルター級チャンピオン。

シュガー・レイ・ロビンソンはボックスもファイトもでき、激しく重いパンチを繰り出すこともそれに耐えるタフネスもあった。ダンスもスラッグも何でもできた。しかし唯一、ボクシングを辞めることだけが出来なかった。

彼のファンなら知っているだろうが、ロビンソンが25年のプロキャリアでストップされたのは一度だけだ。夏のニューヨークの炎天下の試合で、ジョーイ・マキシムのライトヘビー級に挑戦した試合、40度近い会場内の熱気にやられて過度の脱水となり、13回終了後のインターバル中に無念の途中棄権をしたのが唯一のTKO負けだ。ポイントは3-0でシュガー・レイがリードしていた。

173ポンドで計量(当日)した王者マキシムに対して、現役ミドル級王者シュガー・レイは157ポンド1/2。16ポンド近い体重差を押しての挑戦は、あと1歩で実らなかった。しかし、このように不屈の闘志で戦い続けるというロビンソンの素晴らしい素質が、晩年の彼を苦しめることになる。

あまりにも長い間、ボクシングという職業を続けてきた偉大なファイターはロビンソンだけではない。それでも、彼のウェルター級とミドル級の偉大な記録を考慮すれば、いかに過酷な戦いを強いてきたかがわかる。

他の多くのファイターのようにロビンソンはお金の問題を抱えていた。最高のパウンドフォーパウンドファイターとして得た膨大な現金は、手からこぼれる砂のようにふるい落ち、財産を残すことができなかった。

ロビンソン
「ボクシングには興味がない。ファイトが好きじゃない。」

何度もこう発言していたロビンソンはしかし何年も何年も戦い続け、高齢で衰えた身に過酷すぎるスケジュールを強いていた。

1921年5月に生まれ、1940年10月にプロデビューしたロビンソンは1961年に最後の世界タイトルに挑戦したが、ジーン・フルマーとの4度目の対戦で15ラウンド判定負けを喫した。39歳の時だった。年老いた元王者には試合が多すぎたが、ロビンソンはグローブを手放すことができず。さらにそれから40戦以上戦った。現代の基準では考えられない数字だ。

キャリアが徐々に終わりを迎えた1960年代に、完全に体力を消耗しダメージを残す過酷なスケジュールを組んでいた。1960年だけで4試合戦ったが、全てがミドル級タイトルマッチだった。これまで5度のミドル級王者となり歴史を築いてきたが、6度目の戴冠も近かった。しかし、(過去に勝っている)ポール・ベンダーにスプリットで敗れ王座を否定された。

12月3日、ジーン・フルマーの持つNBA認定世界ミドル級王座挑戦、15回引き分け。通算6度目の王座奪取に失敗。1961年3月4日、ジーン・フルマーにダイレクトリマッチで再挑戦、15回0-3の判定負け、またも王座奪取に失敗。そしてこの一戦が、ロビンソン生涯最後の世界タイトルマッチとなった。

これで、元最強王者は終わるべきだった。しかしロビンソンはリングに上がり続けた。

全盛期の派手な散財、事業投資の失敗などが祟り、リングに上がるしか稼ぐ方法がなかった。その実力も衰え、往年の彼なら簡単に倒していたような相手に敗れることもしばしばであった。しかし彼は、もう引退すべきだという評論家の声に対し

「彼らは私に一杯のコーヒーも奢ってくれたことはない。私は自分の生活のために闘うのだ。彼らの思い出のためにでなく」

と反論した。

ロビンソンは引退することができず、また引退する気もないまま、44試合を戦い続けた。かつては誰にも屈しなかった40代のロビンソンは、何を言われても受けざるを得なかったのだ。

ロビンソンの凋落は苦し紛れで、ゆっくりとした転落だった。かつては圧倒したであろうファイターに負けることも多くなった。ロビンソンはもはや色あせたスーパースターであり、凡庸なファイターになら昔の遺産だけで勝てるマスターとして、トリニダード・トバゴ、ロンドン、イギリス、ウィーン、オーストリア、ドミニカ共和国、ブリュッセル、ベルギー、スコットランドのペイズリーなどで戦った。

勝つこともあれば、判定負けで帰国することもあったが、シュガー・レイは家に長く滞在することなく、荷物をまとめて次の試合に備えて動き回った。

4年2か月で44戦戦い、30勝10敗3分1ノーコンテストという記録を残した。

ロビンソンのような偉大な王者が、晩年に何度も何度も戦い、もう衰えきって何も残ってないにも関わらず戦い続けるようなことは二度と見ることはないだろう。それはもちろん良いことだ。

ロビンソンは晩年、痴呆症に苦しんだ。仮に心身の消耗が少なく引退していたとしても、この恐ろしい症状に悩まされていたかどうかは誰にもわからないが、恐らくこのような霧の中で日々を終えることはなかっただろう。

シュガー・レイ・ロビンソンは歴史上最高のファイターとして称賛されているが、それは、ウェルター級やミドル級でのまばゆいほどの絶頂期のパフォーマンスによるものだ。それでも、ロビンソンがいかにタフで、勇敢で強かったかは決して忘れてはならない。

シュガー・レイ・ロビンソン、彼の人生とキャリアは、事実よりもはるかに良い、尊厳のある結末を迎えるべきだった。

ロビンソンの最終戦績は173勝109KO19敗6分、2つのノーコンテスト、という驚異的なものだった。
アマ戦績は85戦85勝69KO

彼のようなファイターは二度と現れないだろう。

リアルタイムの選手ではなく、過去映像も熱心に見てきた世代ではないので多くは語れないが、繊細緻密にして野性的、攻防よどみなき感性と芸術性、今のファイターと比べても見劣らない、あるいはそれ以上に美しいシュガー・レイ・ロビンソンが「オールタイム・パウンド・フォー・パウンド」と言われることは納得だ。

引退後

ロビンソンは自伝に、引退時の1965年までに既に稼いだお金を使い果たして破産しており、マンハッタンの小さな自宅アパートには、引退セレモニーで受け取った大き目のトロフィーを支えられる強度を持つ家具さえなかったことで、トロフィーを床に置かざるを得なかったと記している。

1967年、国際ボクシング名誉の殿堂博物館の殿堂入りを果たす。

晩年は糖尿病とパンチのダメージからアルツハイマー病を発症。

67歳で死亡、イングルウッドの共同墓地に埋葬された。

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永遠のライバルに恵まれたヒーロー/(ベビーフェイス・アサシン)マルコ・アントニオ・バレラ https://forgotten-legend.com/legend/91958 https://forgotten-legend.com/legend/91958#respond Tue, 28 Apr 2020 06:29:04 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91958 大橋秀行はリカルド・ロペスと戦ったから偉大なキャリアに箔がついた。
当時の川島なら勝機はあったかもしれない。

ボクシングの一時代を切り取っても、メキシコボクシング全体の歴史を語るにしても、マルコ・アントニオ・バレラは最高のファイターの一人だった。大事なのは彼がエキサイト満載の試合を続け、何よりファンに愛された事だ。

「ベビーフェイス・アサシン」と呼ばれたバレラは20年以上のプロキャリアでスーパーフライ級からスーパーライト級までの強豪と戦い、3階級制覇、4度世界王者に輝き、世界戦21勝4敗の記録を残して世界殿堂入りを果たした。

15歳でプロになったバレラは43連勝を記録、1995年ダニエル・ヒメネスに勝利しWBOスーパーバンタム級王座を獲得、8度の防衛に成功した。1996年、1997年に天敵のジュニア・ジョーンズに連敗した時、ハードな試合を繰り返してきたバレラはエリートファイターとして終わったとおもわれた。

しかしファンは間違っていた。バレラは過去のスラッガーとしてでなくテクニック溢れるボクサーとして再起を図り、偉大な勝利を記録した。同郷のもう一人の伝説、エリック・モラレスとの3部作での勝ち越しも含まれる。

バレラは、ナシーム・ハメドへの勝利をはじめ、ジョニー・タピア、ケビン・ケリー、ポーリー・アヤラなどのライバルに打ち克ってきたが、マニー・パッキャオに2度、ファン・マヌエル・マルケスに1度敗れた。2001年、無敗のスーパースター、ハメドに黒星をつけた試合は歴史的な金字塔だ。

バレラ
「間違いなく最高の試合だった。ハメドに対する勝利が最高の瞬間です。」

2011年、67勝44KO7敗の記録を残して引退したが、今でもボクシングに深くかかわっている。TVアステカのアナリスト、メキシコシティではジムを所有し、何人ものファイターを育成している。

ライバルについて

ベストジャブ エリック・モラレス

モラレスのジャブは最高だった。本当に痛かった。ジャブでパワーを感じることはあまりないが、彼のジャブは強烈だった。

ベストディフェンス ファン・マヌエル・マルケス

間違いない。彼はカウンターパンチャーだ。当たるとおもわせておいてカウンターを常に狙っている。タイミングを掴むのがとても難しかった。

ベストチン モラレス

ハードパンチを浴びせたが彼はなんともないようだった。

ベストパンチャー マニー・パッキャオ

速いだけでなく驚くようなパワーがこもっていた。

ハンドスピード パッキャオ

スピードとパワーにのったパンチが様々なアングルからコンビネーションで打ち込まれるんだ。

フットワーク パッキャオ

リングの隅々まで動き回り、相手を混乱させて、どこでパンチを打ち込めばいいのかよくわかっている。直線的ではなく様々な角度から攻めてくる。他のファイターとは一線を画している。

スマート ナシーム・ハメド

他のファイターとは全く違うアプローチをしてくる点で際立っていた。俺を挑発して心理戦を挑んできたり、出入りで翻弄したり・・・私をマインドゲームに誘って弄んでいた。

屈強 パッキャオ

パワーや強靭さだけでなくそれがすさまじいスピードにのってくるんだ。動きやパワーだけじゃなく常にスピードが加わってくるから彼は別格なんだ。

ベストボクサー ハメド

彼は何から何まで他のファイターとは違う。様々なアングルからパワフルなパンチが打てるし、総合的に強靭でソリッドなパンチャーだ。

総合 モラレス

モラレスが対戦相手の中では一番タフな男だった。どんなに打っても効いてないようなそぶりで常にプレッシャーをかけてきて、本当に、本当に、ハードなパンチを打ってくる。

バレラのことは以前書いたが、川島郭志と戦う可能性もあったのだ。
大橋秀行はリカルド・ロペスと戦ったから偉大なキャリアに箔がついた。
当時の川島なら勝機はあったかもしれない。

記事を読むと総合は圧倒的にパッキャオでしょと言えそうだが、同郷のライバルに賛辞を示している印象だ。
パッキャオの凄さが伝わる言葉の数々・・・
パッキャオはつまり、超絶パワフルなのに加え、エンジン、運動量が半端ないのだ。ひと時も休ませてくれない。

マルコ・アントニオ・バレラはフリオ・セサール・チャベスの再来のようなフルアクションの総合パッケージだった。チャベスを継ぐには小さく、注目度の低い軽量級だったが、そんなの言い訳にならないほどの人気、ライバルに恵まれて最高のキャリアを築いた。ファンが期待するどんな試合も逃げずにこなしたからだろう。

ボクシングはハングリースポーツであり、メキシコのレジェンドには貧困からのサクセスストーリーが多いが、バレラは金持ちのボンボンであり、プロボクサーと同時に弁護士になる気でいたインテリでもあった。

そんなインテリジェンスが、メキシコの伝統的な殴り合いに加味されていた。

超のつく本格的な世界王者だったが、遂に日本人は誰一人バレラに絡むことはなかった。

メキシコの伝統的ファイターを体現したような、巧くて強い、手本のような総合力のファイター、マルコ・アントニオ・バレラ。そんな男にも幾多の苦闘とそれを凌駕するほどのライバルたちがいた。素晴らしい時代のスターだった。

井上尚弥の進む道の参考になりそうでもある。

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シリアに枯れた涙/タリク・アブドゥル・ハック https://forgotten-legend.com/legend/91946 https://forgotten-legend.com/legend/91946#respond Fri, 24 Apr 2020 03:12:48 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91946 タリク・アブドゥル・ハックはコモンウェルスゲームズの表彰式で涙を流し、2人の世界ヘビー級王者と戦った後、ボクシングから去った。

2010年にボクシングの銀メダルを母国に持ち帰った最後の男として、ハックはトリニダード・トバゴで尊敬されるべき男だが、宗教的過激主義に陥ったことが彼のリングキャリアを汚してしまった。ハックは4年後、イスラム国に参加するためシリアに向かい、2015年に殺害された。

トリニダード・トバゴには、ハックに代わる、東京オリンピックで期待されるヘビー級、ナイジェル・ポールという新しいスーパー ヘビー級の候補がいるが、2012年イギリスのオリンピックのスター、アンソニー・ジョシュアの元対戦相手であるハックの功績には届かないだろう。

ハックのナショナルコーチ、レイノルド・コックスは回想する。

「もしタリクがボクシングを続けていたら、彼はおそらく今後数年間、本当にうまくやっていたと思う。」

優秀なアマチュア選手であった彼は、2011年の世界選手権でジョシュアとの1回戦で白熱の試合を演じたが、そのわずか数ヶ月前には、ニュージーランドの人気若手選手ジョセフ・パーカーに屈辱的な敗北を喫している。

格闘技の才能、ハックは10代の頃から、空手、柔術、テコンドー、ボクシングなどを通じ地元の新聞では「スクールボーイの拳闘士」と評されていた。同時に弁護士になるための勉強もしていた。

ハック
「学校やトレーニングをしていない時は、食べたり寝たりしているだけです。私の年齢では奇妙に聞こえるかもしれませんが、友人は私を応援してくれています。誰もが選択肢があると信じているし、私は今これらのことを選択しています。」

ハックの叔母は弁護士だったが、父親のヤクブがボクシングのコーチをしていたため、学業は二の次になったが、ハックは攻撃性をスポーツにのみ注ぎ込んでいた。10代のナショナルチャンピオンは、プエルトリコ人を45秒でノックアウトするなど、印象的な勝利を連発し注目を集めていたが、身長185センチの彼は特に堂々としたヘビー級とはいえなかった。

2009年にシニアデビューを果たしたハックは、キューバの世界王者、エリスランディ・サボンから厳しいレッスンを受けたりしながら、ロンドンオリンピックでは金メダルをとるアンソニー・ジョシュアを早々に敗退寸前まで追い込んでいった。

ハックは、コモンウェルスゲームズのトリニダード・トバゴチームの一員としての地位を確保した。パキスタン出身の対戦相手を10-1で圧倒して勝利した。次の相手は、後にプロのWBOヘビー級王座を獲得することになるジョセフ・パーカーだった。

レイノルド・コックス

「私はその試合のコーナーにいました。タリクが勝ったのは、彼の決断力だと思う。彼はパーカーを追いかけ続けた。パーカーはパンチ力に頼っていたが、ハックはポイントを取ろうとしていたし、本当に良いディフェンスをしていた。見ていて本当に良い試合だった。」

パーカーと7-7の同点で試合を終えた後、ハックの正確なパンチは5人のジャッジのうち3人に支持され勝利を得た。カメルーンのオリンピック選手ブレイズ・イェプモウにポイントで勝利し、地元で人気のパラミジート・サモタと金メダルをかけて争った。

インド人ファイターのサモタは地元判定のような内容で金メダルを獲得した。
銀メダルが首にかけられている時、ハックは泣いていた。

彼の最後の戦いはジョシュアとの試合だった。
世界アマチュア選手権の1回戦で引き分けとなり、鼻の怪我に悩まされながらも、ハックは序盤のラウンドで粘り強く立ち向かった。

ハック
「タフな相手だったが、振り返ってみると、ジョシュアはスロースターターだったし、アマチュアキャリアも少なかった。試合が進むにつれて、彼に勢いを与えてしまったかもしれない。」

ジョシュアは、後にプロの世界王者への道を開くことになる戦いを終わらせる力を発揮した。
ハックは第3ラウンドと最終ラウンドでダウンした。

彼のボクシングキャリアはほぼ終わりを告げた。

トリニダード・トバゴに戻ってきたハックは、スポンサーとの財政問題に巻き込まれ、2012年のロンドン大会の予選から外れることになった。

ハック
「トリニダードのボクシングは意味がないし、誰も気にしていないような気がする」

世間の自分に対する評価に幻滅したハックは数年後、イスラム国の新兵についての記事やドキュメンタリーで再び登場することになる。

シリアとイラクのISIS支配地域へのアクセスを許可された最初の欧米人ジャーナリスト、ユルゲン・トーデンホーファーは、2014年12月のハックとの出会いに愕然とした。

トーデンホーファー
「私はシリアとイラクでスウェーデン、フランス、アメリカなど、世界中の人々を見てきました。カリブ海から来た男はとてもイケメンだった。とても魅力的だった。おしゃれで、レイバンのメガネをかけていました。ここで何をしているの?前は何をしていたの?と尋ねました。」

ハック
「カリフ(イスラム国の支配者)の言うとおりにするつもりだ。」

ハックは、イスラム国の勧誘率が最も高いトリニダード・トバゴから旅をしてきた驚くほど多くの男たちの中にいた。ハックには妻と妹のアリヤがいたが、宗教的過激主義に没頭するきっかけとなったのは、銃撃事故で父親を亡くしたことだったと明かしている。

ハックは2015年に殺害されたことを確認しているが、その数ヶ月前にはシリアでの爆撃中に重傷を負い、才能の源である片手を失っていた。

トリニダード・トバゴでは、ハックの名前は、スポーツ界での実績だけで語られている。コックスは、193センチの長身ファイターであるナイジェル・ポールが、メジャー大会でも表彰台に上る可能性があると楽観的に考えている。30歳のポールはリオ五輪ではすぐに敗退したが、コックスはポールがトリニダード・トバゴのボクシングの評判を高めてくれることを期待している。

コックス
「より多くの人がボクシングを志すためのお手本が必要なんだ。ポールはとてもまともな男だ。優しくていい人だよ。でもスポーツではそれが仇になるかもしれない。ボクシングでは、時には非常に凶暴になる必要がある。アグレッシブになる必要がある。それでもお手本として ナイジェル・ポールは、ボクシングの知名度を上げるために必要で優秀な人材だよ。」

プロの世界でキラキラ輝く男だけが一流のファイターではない。
巨額の億万長者になる者もいれば、生きていくのもままならないトップファイターもいる。

井上尚弥に2戦2勝のキューバ人や、フロイド・メイウェザーに土をつけた男、それに勝って金メダルを獲得したのはたしかタイ人だ。

全ての偉大なボクサーに敬礼
タリク・アブドゥル・ハックに合掌

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lucky charm(幸運のお守り)/フランキー・ランドール https://forgotten-legend.com/legend/91927 https://forgotten-legend.com/legend/91927#respond Wed, 08 Apr 2020 05:29:48 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91927 泣くな、お前はいつだって俺の幸運のお守りなんだから。
キャリアは長くても栄光は一瞬、人生は続く。

不屈のブラック・ジャック/(The Surgeon=外科医)フランキー・ランドール | 【忘れられた伝説】ボクシング不滅のレジェンドたち

ランドールといえば、フリオ・セサール・チャベスに初めて土をつけた男という名誉だけがついてまわるが、キャリアを通して振り返ると、不遇、不運の王者だった。こんな地味な男が輝いてはいけない、何かの間違いだとばかりに再戦や不運なジャッジが付きまとった。 ボクシングの政治と悪癖に翻弄されながらも粘り強く耐えたファイターの一人が、3度王者に輝いた(The Surgeon=外科医)フランキー・ランドールだ。

フランキー・ランドールは10年以上に渡り、ライト級とスーパーライト級で活躍してきたが、1994年1月29日にラスベガスMGMグランドでレジェンドのフリオ・セサール・チャベスを破った功績で知られている。ランドールの苦節のキャリアはこの勝利で報われた。

チャベスへの勝利はWBCスーパーライト級王座をもたらしただけでなく90戦無敗のチャベスを初めて破った男として永遠に歴史に刻まれる。

しかし、時の流れはランドールに優しくはなかった。
現在58歳のランドールはWBAスーパーライト級タイトルを2度獲得しているが、今は介護施設にいる。

マーカス・ランドール(息子)
「父はプキリスティック認知症とパーキンソン病を患っています。前頭葉の脳損傷で、発話、運動能力、精神に問題を抱えています。症状が悪化しているので、家族は父をテネシー州の介護施設に入れることにしました。本人のためにも具体的な場所は非公開にしたい。」

マーカスは、ここ数年、父親の衰弱ぶりを間近で見てきた。

マーカス
「父の症状は時間の経過とともに悪化していきました。父は生涯をボクシングに捧げ、仕事を愛していた。しかし、私と家族は10年近く父の症状と向き合ってきました。以前の父とはかけ離れた存在になっていくのを見るのはつらいです。まるで時間に縛られているかのようです。目を覚まして元の父に戻るような気がしますが実際は違います。ボクサーのフランキー・ランドールを覚えている人もいるでしょうが、僕のヒーローである父はただそこに座ってどんどん衰弱していくだけです。これは挑戦であり、それが私の戦いになっています。」

しかしマーカスはボクシングを恨んではいない。
父親の手に手を添えて言った。

マーカス
「私を育ててくれた父の職業に悪意を持つことはできません。父の好きな言葉は「自分の仕事を愛している。」です。その仕事で父は世界に自分を知らしめた。父は必死に努力し、困難や葛藤を乗り越えてきました。ボクシングは父に多くのものを与えましたが、父から奪ったものは決して取り戻せません。どんなに悔しくても、どんなに辛くても、父をこの悪夢から救い出したい。」

マーカスは父が無駄に戦い続けた(他の道を知らず)ことを理解している。

マーカス
「父はピークを過ぎても戦っていました。人生の全てをボクシングに捧げた。プロスポーツ選手で自分のアイデンティティから離れることが出来る人はいません。ボクシングは父の人生であり、生きていく術だった。ボクシングが父に人生の目的を教えてくれたんだ。もし可能なら父はトレーナーとして2人の孫たちにボクシングを教えているだろう。ボクシングの知識と経験の宝庫ですから。「The Surgeon=外科医」と呼ばれた男(父)はボクシングを愛していた。しかし私たち家族の人生はまた別の旅です。」

マーカスの大事な思い出は、フランキーが「仕事を愛している」と言ったこと、1-15のアンダードッグとしてチャベスに勝った後のインタビューの言葉だ。

フランキー・ランドール
「テネシーに帰ってきた息子に言いたい。マーカス、愛しているよ!」

新王者はその夜ショータイムで語った。

チャベス戦の勝利がいかに偉業であるかは、ティム・ウィザースプーン、マイク・タイソン、ジュリアン・ジャクソン、ティム・オースティンなどの元トレーナーであるアーロン・スノーウエルにも十分伝わっている。

スノーウエル
「90戦無敗のP4P、チャベスに勝ったのはボクシングの歴史に残る快挙だ。あの試合のおかげでMGMグランドはボクシングのオアシスになったんだ。」

試合後の言葉も鮮明に覚えている。

スノーウエル
「フランキー・ランドールは自分の仕事を愛していた。試合が終わって帰り道、マーカスたちは歓喜に震え泣いていました。するとフランキーは言いました。」

フランキー・ランドール
「泣くな、お前はいつだって俺の幸運のお守りなんだから。」

フランキー・ランドールの記事はかつて書いた。

51戦目で初の世界挑戦という不遇の男だった。
しかしその51戦目で、伝説のチャベスを倒した最初の男となり、歴史にその名を刻んだ。

しかし栄光は長くはなく、リマッチで不運な結末でチャベスにリベンジされ、その後ファン・マルチン・コッジと3度も戦うも、フェアとは言えない試合ばかり、王座を離れてから、ここから誰もがランドールを忘れていくのが世の常だ。

その後あまりにも多く戦い続け、負け続けた。
明らかにピークアウトしていた。

ボクシングを愛し、ボクシングしか知らなかった者のサガだろう。
見事なまでの凋落のキャリアになっている。

https://boxrec.com/en/proboxer/490

それが、彼の今の状態を招いたといっても過言ではない。

時代が変わり、ワシル・ロマチェンコは2戦目で世界に挑んだ。
田中恒成はプロ15戦で3階級王者だ。

もう2度と、フランキー・ランドールのようなボクサーは出てこないだろう。

キャリアは長くても栄光は一瞬、人生は続く。

58勝42KO18敗1分

WBC世界ジュニアウェルター級王座(防衛0)
WBA世界ジュニアウェルター級王座(防衛2)
WBA世界ジュニアウェルター級王座(防衛0)

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賢者の哲学に屈した男/Cincinnati Kid(シンシナティの子供)ティム・オースティン https://forgotten-legend.com/legend/91914 https://forgotten-legend.com/legend/91914#respond Fri, 03 Apr 2020 07:25:52 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91914 Cincinnati Kid(シンシナティの子供)ティム・オースティンはかつて、ドンキングの馬小屋の控えめな宝石だった。

ティム・オースティン(Tim Austin、1971年4月14日 – )は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。オハイオ州シンシナティ出身。第7代IBF世界バンタム級王者。1992年バルセロナオリンピックボクシングフライ級部門銅メダリスト。身長は166cmと小柄だが180cmとリーチの長さを生かした連打・ストレートを武器に活躍し、KO率は80%と高いハードパンチャー。

1990年全米国際ゴールデングローブスフライ級部門で優勝を飾る。翌年1991年にも連覇を飾る。その年に行われた全米アマチュア選手権でも全米王者になる。

翌年1992年バルセロナオリンピックボクシングフライ級部門アメリカ代表に選出されて出場。1回戦はブルガリアのユリヤン・ストロゴブと対戦し、判定で勝利を収め2回戦はタンザニアのベンジャミン・ムワンガタと対戦し、判定で勝利を収めベスト4に進出。 準決勝でキューバのラウル・ゴンサレスと対戦するが、初回に打ち合うも一方的に打たれまくった所をレフェリーストップで敗れるが銅メダルを獲得した。メダル獲得後オースティンはプロに転向することを発表した。最終的なアマチュア時代の戦績は122戦113勝9敗。

ティム・オースティンは最も過小評価されているファイターの一人だ。かつて、リングマガジンでファイターオブザイヤーを決める決議で10票が集計され、オースティンは1票だけ獲得した。つまり、その一票を投じたのは私だ。(記者Max Kellerman)

オースティンは優れたアマチュアキャリアを経て10試合連続KO勝ち、1997年7月19日、テネシー州ナッシュビルにあるブリヂストン・アリーナにて世界初挑戦。21戦全勝の王者ムブレロ・ボティーレと対戦。8回にダウンを奪うと最後は連打をまとめてレフェリーストップを呼び込み8回2分20秒TKO勝ちを収め王座獲得に成功。

Cincinnati Kid(シンシナティの子供)はアダン・バルガスやアーサー・ジョンソンなど(ささやかなファイトマネーをもたらしただけ)に対して9度の防衛に成功。しかし周辺階級でビッグマッチが実現することなくドン・キングのアンダーカードに埋もれたままだった。当時ビッグネームにジョニー・タピア、ダニー・ロメロ、マルコ・アントニオ・バレラ、エリック・モラレスらがいたが、試合は決して実現しなかった。

この小さなCincinnati Kid(シンシナティの子供)は本格的な王者であるにも関わらず、お金を稼ぐことが出来なかった。この国(アメリカ)ではバンタム級に関心のある者はほとんどいない。

かつてジョー・フレージャーはマーベラス・マービン・ハグラーにこう言った。

「お前は自分に対して3つのストライキをしている。黒人であること、サウスポーであること、そして素晴らしいことだ。」

ハグラーは確かに黒人のサウスポーだったが、オーソドックス(右)で戦うこともできた。しかしハグラーはただ素晴らしいだけでなく極上に素晴らしかった。彼の偉大さは成功への障害を克服するほどだった。

しかしオースティンは極上の地点まで行けなかった。黒人でサウスポーで素晴らしい、3つのストライキで自分にブレーキをかけた。バレラ、モラレス、タピアなどの大金争いの可能性をかけた最初のステップでつまづいた。10度目の防衛戦の相手、ラファエル・マルケスがパンチの出来る男だった。

2003年2月15日、シーザーズ・パレス内コロシアム・アット・シーザーズ・パレスにてラファエル・マルケスと対戦。序盤からハードパンチャーマルケスを圧倒しスコアでも3-0で(67-66、2者が68-65)リード奪っていた。8回も激しい打ち合いに発展。マルケスの左右ワンツーで崩れると最後は右ストレートでロープからはみ出しダウン。あわや10カウント寸前だった。最後はロープを何度も背負った末連打を浴びた所でレフェリーが救出。8回2分20秒TKO負けを喫しプロ27戦目にして初黒星で10度目の防衛に失敗し王座から陥落。

アマチュアの経験が長かったオースティンは当時31歳でピークを過ぎていたのかもしれない。あるいはドン・キングのハウストレーナーである、アーロン・スノーエルが間違った指示を出したのかもしれない。彼は東京でマイク・タイソンがジェームズ・バスター・ダグラスに敗れた試合でタイソンの傍らでエンスウェル係をしていた。

オースティンは試合後、8回にマルケスを倒しにいったが逆に捕まってしまったと述べた。

オースティン
「マルケスがノックアウトされていてもおかしくない試合だった。再戦に値する。」

実際その通りかもしれない。マルケスにストップされるまでオースティンが試合を支配していた。倒しかけていた。オースティンのような実績あるファイターがおそらく勝っていたはずの試合で突然王座を失った場合、再戦に値するだろう。

しかしラファエル・マルケスが再戦に応じたのはオースティンではなくマーク・ジョンソンだった。

ジョンソンもまた、オースティン同様に「黒人、サウスポー、Good(素晴らしい)」という3つの障害にぴったりあてはまる男だった。ミゲル・カントの時代を知らない私の個人的な評価では、リカルド・ロペスに匹敵するほど素晴らしいフライ級ファイターだ。マーク・ジョンソンは恐ろしく素晴らしい112ポンドのファイターだったし115ポンドでも一流だったし118ポンド(バンタム級)でもマルケスに対抗する力があると信じていた。

しかしマルケスは初戦でジョンソンをスプリット判定で下し(集計ミス)再戦では8ラウンドでToo Sharp(マーク・ジョンソン)を止めた。

メキシコ人やメキシコ系アメリカ人のファンにアピールするためには、メキシコの有望なプロスペクトをスピードのある優秀な黒人のサウスポーと組ませるのは避けるべきだというのは、マッチメーカーやマネージャー、つまりはボクシングの「賢者たち」の間では昔から言われ続けてきたことだ。

この「哲学」は次の前提に基づいている。

①メキシコのトレーナーは伝統的にファンにアピールするため打ち合いを好む。
②アメリカのトレーナーは洗練されたテクニック、戦略、戦術、機微を好む。
③サウスポーのファイターは少なく、有利である。(少ないから経験が出来ない)
④黒人ファイターは民族的な支持者、ファンを持っていない。
(メキシコ系、イタリア系、アイルランド系、ユダヤ系が彼らのルーツ、民族を重んじてボクサーを応援するように、黒人ファイターを応援する者はいない。)
⑤黒人ファイターはメキシコ人ファイターよりも速い。彼らはスピードに何らかの遺伝的優位性がある。現代のスポーツ用語で言えば、より速い「筋肉繊維」を持っている。

これら仮説についての私の見解はこうだ。

①全てのボクシングファンは打ち合いよりも勝敗を重視する。しかしメキシコのボクシング文化はマチズモやタフネスを何よりも重視する。
②アメリカには他のどの国よりも優れたトレーナーがいて、科学的トレーニングの下地がある。
③サウスポーは実際有利だろう。サウスポーであるだけで心理的にも優位にたてる。
④アフリカ系アメリカ人のマーケットはボクシングで最も悪用されている。
⑤何らかの理由で、今までほとんどの場合、優秀なアメリカの黒人ファイターは優秀なメキシカンに対してスピードでは有利だった。

全てがこの仮説にあてはまるわけではない。

サルバドール・サンチェスやミゲル・カントは速くて、非常に熟練したボクサーだった。オスカー・デラホーヤはメキシコ系アメリカ人だが、彼のハンドスピードは常に最大の武器だった。それでも、メキシコボクシングのアイコンは、ルーベン・オリバレス、アルフォンゾ・サモラ、カルロス・サラテ、フリオ・セサール・チャベスのような超攻撃的なファイターであり、判定ではなく、残忍なノックアウトを記録することで知られている。

しかし、大事なのはこれら認識が現実を反映しているかどうかではない。マルケス兄弟の出現、マルコ・アントニオ・バレラは顔優先の喧嘩屋から熟練のカウンターパンチャーに変容した。

彼らはスピードでも互角に最高の黒人サウスポーと渡り合い、オールドスクールスタイルでありつつも、得意のレバーブローで相手を打ち負かすのではなく、正確なショットでオースティンやジョンソン、最高レベルの黒人サウスポーを打ち負かした。

アマチュア
113勝9敗
1990年全米国際ゴールデングローブスフライ級部門優勝
1991年全米国際ゴールデングローブスフライ級部門優勝
1991年全米アマチュア選手権フライ級部門優勝
1992年バルセロナオリンピックフライ級銅メダル

プロ
27勝24KO2敗1分
第7代IBF世界バンタム級王座(防衛9)

ティム・オースティンのその後

マルケスに敗れた直後に、オースティンは16歳の少女をレイプしたとして非難され、後に無罪となった。その後もオースティンは法的問題を抱え、2005年にキャリアを再開したがすぐに脱線した。

2連勝をKO勝利で飾って2階級上げてフェザー級に転向。

後のIBF世界フェザー級王者エリック・エイケンにTKO負け。この試合を最後に現役を引退。
2008年1月に彼は妻を殺すと脅迫したり、蹴ったりしたために家庭内暴力で逮捕され、起訴された。

当時IBF王者だったから、日本人と絡むことはなかったが、こんな男が王者でいたなら誰も歯がたたなかっただろう。私にとってはカオサイ・ギャラクシーよりも、ウィラポンよりも、ジョニゴンよりも勝ったラファエル・マルケスよりも、ティム・オースティンの方がずっと怖くみえた。

ジョー・フレイジャーのセリフ、賢者の哲学はなるほどな。
確実に存在する事実だ。ボクシングはメキシコ系で成り立っている。

アフリカ系アメリカ人のマーケットはボクシングで最も悪用されている。

Cincinnati Kid(シンシナティの子供)ティム・オースティンはかつて、ドンキングの馬小屋の控えめな宝石だった。

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スローバック/The Great(偉大な)デボン・アレクサンダーとケビン・カンニガム https://forgotten-legend.com/legend/91906 https://forgotten-legend.com/legend/91906#respond Tue, 31 Mar 2020 03:41:24 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91906 ある時期、メイウェザー自身がアレキサンダーを自身の後継者に指名した。メイウェザーは、デボンの世界が崩壊するまで対決の可能性すら示唆した。
ここにも、一寸先は闇のボクシング、人生のドラマがあった。

ケビン・カンニガム
「私はドラッグが人間にどう作用するのか見てきた。だから決して手を出さなかったんだ。」

カンニガムの唯一の中毒はボクシングだ。52歳のトレーナーの楽しみは教え子を叱咤激励した後、口にマウスピースを押し込むことだ。しかしボクシングがドラッグの入り口になることもある。

2012年1月、カンニガムはマルコス・マイダナ戦に備えてデボン・アレクサンダーをトレーニングしていた。アレクサンダーはスパーリング中のバッティングで鼻を負傷した。鼻の腫れは試合を延期するほどのものではなく、アレクサンダーはマイダナをこれまでの誰よりも明確に大差判定で破った。しかし鼻の腫れは益々悪化した。医者はアレクサンダーの鼻に血栓を発見し、除去手術が行われた。

カンニガム
「これで治ったとおもったけど、デボンがジムに戻ると反射神経が落ちていた。ひどいものだった。何かがおかしいとおもったが、デボンは全然OKだ、問題ないと言い続けた。」

納得のいかないカンニガムはアレクサンダーの顧問であるアル・ヘイモンに相談した。彼らはデボンをクリーブランド・クリニックに連れていき、その後メイヨークリニックで心臓の検査もしたが異常はみつからなかった。

アレクサンダーの異常(病気)はリングで現れた。2013年、彼はショーン・ポーターにベルトを奪われた。アミール・カーンにも負けた。そして50-1というオッズのアンダードッグ、アーロン・マルティネスに敗れた時カンニガムは悟った。

カンニガム
「何があったのか、俺に正直に話すまで2度と組まないとデボンに言ったんだ。」

2か月後、アレクサンダーはカンニガムを自宅に招き正直に告白した。鼻の手術後に処方された鎮痛剤の中毒になっていたと。

カンニガム
「それを聞いてショックだった。デボンは薬物乱用がチームメイトに及ぼした現実をみていた。彼はビールも飲まない規律正しい男だった。」

カンニガムの兄は薬物中毒者だったが、カンニガム自身はボクシングに夢中になることでその誘惑を回避していた。米軍に所属し世界各地を巡り、そこでも陸軍のボクシングチームに所属した。帰国してセントルイス警察に入隊、治安の悪い第8区で働きながら薬物と戦ってきた。

カンニガム
「私は9年間警官をしていました。1991年から92年にかけてコカインが大流行した。15歳の子供が銃弾で血まみれになって路上に横たわって死んでいる現場をみた。この地域社会を良くするために何ができるか考えさせられた。そして、トラブルに巻き込まれないようにしてくれたのがスポーツだったことを思い出したんだ。」

カンニガムは市長と話し合って古い警察署の地下室の利用を許された。そこにボクシングジムを作り、セントルイス警察アスレチックリーグ(PAL)を始めた。

カンニガム
「ボクシングをきっかけにして子供達になにかポジティブな事をしてもらおうと路上から引っ張りこんできたんだ。プロボクサーになることが重要なんじゃない。道徳的価値観や労働倫理、規律と構造、集中力を身につけさせたかった。」

学んだのは子供達だけではない。カンニガム自身もベン・スチュワートやケニー・アダムスなどのトレーナーに師事しコーチングのイロハ、現在のボクサーに欠けているものを教えてもらった。パンチをセットアップする方法とタイミング、ディフェンスからオフェンスの切り替え、またその逆を瞬時に行う方法を知ることは、失われた芸術であるとカンニガムは言う。

カンニガム
「現在、スローバックの技術を持っているのは、アンドレ・ウォード、ワシル・ロマチェンコ、テレンス・クロフォード、エイドリアン・ブローナーだけです。エイドリアンは全てを持っていたし自分を売り込む方法も知っている。メイウェザーの残した穴を彼が埋めると思っていたけど、リング外の規律を守らないとリングの中でも影響が出るんだ。

フロイドは本当にラストモヒカン(英雄)だった。彼のトレーニングキャンプには栄養士、ストレッチの専門家、ビタミンの専門家、タエ・ボー(テコンドーとボクシング、またエアロビクスや踊りの要素を組み合わせた、ビリー・ブランクスが考案したエクササイズのひとつ)の専門家しか連れて行かなかった。これがボクシングだ。スキルとテクニックとストラテジー(戦略)に焦点を当てるべきなんだ。」

サウスポーのコーリー・スピンクスは、PALのカニンガムの愛弟子の一人だ。 アマチュアでの素晴らしいキャリアを経て、スピンクスはプロで王者となり、ウェルター級とジュニアミドル級タイトルを獲得した。

アレキサンダーもサウスポーで、7歳でPALに参加した。カニンガムの指導の下、アマチュアで300勝10敗の成績を残した。プロとして、スーパーライト級で2つ、ウェルター級で1つのベルトを獲得、マルコス・マイダナやルーカス・マティセなどを破った。

ある時期、メイウェザー自身がアレキサンダーを自身の後継者に指名した。彼は、デボンの世界が崩壊するまで対決の可能性すら示唆した。

中毒を明かしたアレクサンダーはリハビリ施設に入り8ヶ月間治療に専念、1年かけて中毒から抜け出した。トレーナーにも新しいスタートが必要だった。カニンガムは現在、フロリダの西パームビーチに住み キャンプ・カニンガムと呼ばれる ボクシング・ジムを開いた。

カンニガム
「フロリダで引退したいと思っていた。今のところ気に入っているよ。セントルイスは冬は寒すぎて、夏は暑すぎる。キャンプ・カニンガムは、世界クラスのファイターがビッグファイトのためにキャンプを行うのに最適な場所です。ビーチから3ブロック離れているが、ジムはプライベートでゲート付きだ。

フロリダはフィットネスの本場だといって、みんながビーチボディを手に入れようとしている。フィットネスやコンディショニング、ストレングストレーナーがたくさんいるんだ。でも、キャンプ・カニンガムではボクシングが中心だよ。ボクシングの基本、スキルとテクニックに重点を置いている。

デボンもキャンプカニンガムの常連だよ。彼はこの秋に復帰する予定だ。二人ともこの再出発にエキサイトしている。デボンは現在のアメリカで一番の問題となっているドラッグ依存症を克服するために、多くのことを乗り越えてきた。彼は30歳とまだ若いが、ベテランのプロだ。だから、私たちはトラッシュトークや対戦相手を罵倒するために復帰するわけではない。デボンはいつどこで何をするかを教えてくれればいいだけで、私たちはパフォーマンスで話をするつもりだ。」

アマチュア300勝10敗、無敗でプロの世界王者になった時、デボン・アレクサンダーはボクシングの未来だった。

ゴリラのような体躯のファン・ウランゴを仕留めたアッパーは芸術だった。
ライバルのティモシー・ブラッドリーに僅差で敗れた試合は仕方がないにしても、マティセやマイダナにもスキルとテクニックで勝ってきたが、まさか病院で処方された薬物の依存症となってしまっていた。

その後も往年のスキルは残っているから、強豪にも接戦、勝ち負けを繰り返しビクター・オルティスやアンドレ・ベルトとは僅差の勝負になるくらいのレベルを維持していたが、昨年格下といえるイバン・ラドカッチに敗れ、厳しい状況に追い込まれている。しかし年齢的にはまだ33歳、今頂点に君臨しているテレンス・クロフォードやワシル・ロマチェンコとさほど変わらない年齢なのだ。

一度失われた輝きが再び光度を増すのは厳しい状況だが、確かに誰もが認めた、メイウェザー自身も認めた輝きがあった。

ここにも、一寸先は闇のボクシング、人生のドラマがあった。

WBCウェルター級ユース王座(防衛0=返上)
WBCアメリカ大陸スーパーライト級王座(防衛1=返上)
WBC世界スーパーライト級王座(防衛2)
IBF世界スーパーライト級王座(防衛1=返上)
IBF世界ウェルター級王座(防衛0)

アマチュア300勝10敗
プロ27勝14KO6敗1分

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無冠の帝王の孤独/(ナイトアレキサンダー)アレクサンデル(サーシャ)・バクティン Vol.2 https://forgotten-legend.com/legend/91899 https://forgotten-legend.com/legend/91899#comments Sat, 28 Mar 2020 16:07:55 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91899 印象に残る試合がたくさんありました。4度目の防衛戦の相手、熟山竜一と彼の地元で戦いました。顎にいいのをもらって初めてダウンしました。ダウンとはこういうものなのかと理解できました。

無冠の帝王、アレクサンダー・バクティンの功績を称える、第三回全ロシアボクシングトーナメントが、バクティンの故郷チタで開催された。国内22の地域から100人を超えるファイターが参加した。この地でプロで一度も負けたことのないアレクサンダー・バクティンは生まれ育った。

どうしてボクシングを選んだのですか?

バクティン
「クラスノカメンスクは小さな町ですが、空手、柔道、ボクシング、サッカーなどスポーツが盛んでした。私は父に従って柔道をしていましたがいい成績を残せませんでした。祖母のマリア・アレクサンドルフがボクシングを紹介してくれました。彼女は私がアスリートになりたいという夢の手助けをしてくれました。8歳から始めましたが12歳から試合に出場できるレベルになりました。100人のうち、3、4人だけがボクシングに残ります、そのうち1人だけが多少はまともな結果を残します。クラスノカメンスクでは私は無敗で80連勝しました。しかしエレツのロシア選手権、81戦目で初めて負けました。多分それは数字の魔法だったのかもしれません。私は1981年生まれですから。」

他のスポーツの選択肢はなかったのですか?

バクティン
「サッカーやバスケ、バレーボールなども好きですが、ボクシングは私にとっては意味がありました。ある日喧嘩をして練習を禁止されたのでカンフーに転向しました。殴れないんだったらキックがあると。でもボクシングの方が自分に向いていていました。階級上の選手にも勝っていました。だからコーチに二度と喧嘩などしないと謝ってボクシングに戻りました。」

プロになってからは日本を舞台にしていましたが、日本への移住はどのように実現したのですか?

バクティン
「多くのボクサーはプロの世界王者になって名声を築きたいとおもっています。1999年にヨーロッパアマチュア選手権の後日本のプロモーターが私に声をかけてくれました。最初は真剣に受け止めていませんでしたが、通訳を通じ何度もコンタクトしてきたので、訪日してスパーリングや観光をしました。19歳でした。それがプロとしての始まりでした。

東京の協栄ジム、ここは偉大な先輩のユーリ・アルバチャコフやオルズベク・ナザロフが世界王者になったところです。東京で7年、日本で最後の年は沖縄ワールドジムにお世話になりました。今でも東京にはたくさんの友人がいて、電話したりコミュニケーションをとっています。」

日本の印象について

バクティン
「私は旅行にいったのではありません。戦争(試合)の準備にほとんどの時間を費やしていました。それでも富士山や有名なお寺なども見てきました。とても美しい国で面白いところがたくさんあります。特に気に入ったのは東京の夜景です。色とりどりに光っていて誰もがきっと感動するとおもいます。」

日本語は話せますか?

バクティン
「言葉を忘れたわけではありません。日本にいけば大丈夫だとおもいます。話すのは問題ありませんが、カタカナやひらがなといった文字、50音の形を勉強しようとしましたが挫折しました。ボクシングの練習ばかりしていると疲れて日本語教室に行けなくなってしまいます。」

好きな日本料理はありますか?

バクティン
「和食のクオリティーは非常に高いです。私は日本で一度もお腹を壊したことがありません。日本人はとても丁寧に料理の質を見極めています。お店で賞味期限切れの魚など売っていません。」

日本酒にははまらなかったのですか?

バクティン
「そういえばあまり印象に残っていません。お酒は飲まず健康を心がけていました。今でも毎週アイスホッケーのトレーニングを3回、ボクシングジムで軽く動いています。」

これまであなたは一度も負けていません。一番苦しかった試合はなんですか?

バクティン
「印象に残る試合がたくさんありました。4度目の防衛戦の相手、熟山竜一と彼の地元で戦いました。顎にいいのをもらって初めてダウンしました。ダウンとはこういうものなのかと理解できました。あんなパンチを食うとたいていノックアウトされるものです。「何してるんだ、立て」というコーチの声が聞こえました。その言葉で奮起し立ち直って勝利しました。ボクシングは決してどんな時でも油断してはならないと思い知らされました。勝っていても残り数秒で逆転されてしまうこともあるのだと。」

フィリピンのローリー・ガスガとのIBO戦はいかがでしたか?

バクティン
「私のキャリア最悪の試合です。当時私はWBC1位、WBA2位でしたが世界挑戦できずにいました。コンディションは60%程度でした。日本を含めたプロキャリアを通じてずっとアレクサンドル・ジミン氏のコーチングを受けましたが、あの時コーチはニコライ・ワルーエフの試合のためにドイツに行って不在でした。私は自己流でトレーニングして、どうやら筋肉に負荷をかけすぎてしまったようです。ハードな運動は回復期間を設けて行うべきですが、私は休むことをしなかった。試合前は調子が良さそうな気がしますが完全に持久力を失ってしまいました。規律とプライドがあったから何とか勝てたのだとおもいます。試合後救急車で病院に運ばれ4日入院しました。」

「ロッキー」「マッドブル」「ミリオンダラーベイビー」などボクシングにまつわる映画が多いですが、見世物だからリングの戦いが誇張されて描かれています。ファイトの演技をみても楽しくないし、三十路を超えて主人公が最後に勝利するのがいいんでしょうか?

バクティン
「そうですね、主人公は時に強烈にノックアウトされます。でもストーリーがいいから主人公を好きになってしまう。多くの場合、そういう映画は困難を克服する物語ですが、最後は主人公が勝利する。基本的にこれらはボクシングのプロパガンダです。映画の影響で多くの子供たちがジムにやってきます。」

ボクシング映画には興味がない?

バクティン
「どちらかといえばそうですね。でも「影の戦い」は好きです。主演のデニス・ニキフォロフという俳優を知っています。「青春バラシカアリーナ」で主演を務めた。彼はいい人だよ。」

演技をアドバイスしてください。

バクティン
「当時は彼を知らなかったけど、ボクシング技術の間違いを指摘してもよかったかもね。」

バラシカに戻ってきた理由は何ですか?

バクティン
「2008年にロシアボクシング連盟にバラシカに戻ってボクシングを続けて欲しいと言われました。バラシカの街はチャンピオンを必要としていました。その後はロシアを拠点に戦っていきました。しかし2013年に引退することになりました。2015年にアリーナ・バラシカアイスパレスのディレクターに就任し事務職をしました。大変でしたが仕事を理解できるようになりました。施設の業績も伸びています。スポーツばかりしているとそれが仕事になってしまいます。何かを引き受けたらそれが全てになってしまいます。」

どのような成果をあげてきましたか?

バクティン
「50人の少年をボクシングに導き、そのうち10人はかなりのマスターレベルになりました。2018年にはバラシカアリーナにボクシング部門が開設され、現在150名の選手がボクシングに取り組んでいます。ロシア選手権に勝ったチャンピオンもいます。この部門が発展していくことは間違いありません。東側のスタンドには美術館を作りました。ユーリー・リャプキンや私やアイスホッケーの選手などの功績が展示されています。」

大きなスケートリンク施設の責任者としての仕事の話(割愛)

あなたは2人の男の子の父親ですが、父親の後を継いだのですか?

バクティン
「長男は柔道をしていましたが、1年かけてボクシングの道を選びました。彼はそれが好きなようだ。進歩をみせています。良いことです。次男はヴァンガード・オリンピアンスクールでアイスホッケーをしています。」

Vol.2と書いてただの世間話のようなインタビューでしたが、貴重なので残しておきました。

熟山竜一戦は危なかったんだな。

現在はボクシングも含め、アイスホッケーやフィギアスケートの巨大施設の責任者をしているようで、業績も好調なようです。各所から「サーシャとだけはやるな」と言われ、世界挑戦すら叶わず無敗で引退した悲運のファイターだが、ここではっきり本音を言えば長谷川や山中より強かったとおもう。

彼自身に後悔や悲壮感がないのが救いだ。
1981年生まれ、まだ38歳、人生はこれからだ。

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無冠の帝王の孤独/(ナイトアレキサンダー)アレクサンデル(サーシャ)・バクティン Vol.1 https://forgotten-legend.com/legend/91884 https://forgotten-legend.com/legend/91884#respond Fri, 27 Mar 2020 06:07:51 +0000 https://forgotten-legend.com/?p=91884 強いということは、孤独であるということ。

無敗のIBOスーパー・バンタム級王者アレクサンダー・”サーシャ”・バクティン(31-0, 12 KO)が引退した。

バラシカ出身の31歳は、「プロとしてのキャリアに終止符が打たれた」と語った。

バクティン
「健康上の問題があるのでもう戦わない。そのかわりに、政治家としてのキャリアを追求するつもりだ。また、若いファイターを指導し、新たな高みに導くことで、ボクシングの世界で活躍し続けるつもりだ」

2012年9月、フィリピンのロリ・ガスカと空位のIBOスーパーバンタム級を争った。119-110、118-110、118-111と一方的なスコアであったにもかかわらず、「ナイト」(バクティンのニックネーム)にとっては全てが狂った消耗戦だった。

バクティン
「4ラウンドから悪夢のようだった。何も覚えていないし、純粋に本能だけで戦った。最後のゴングまで耐えて、勝てたことを今でも不思議に思っています。試合後は救急車で一晩過ごしました。その後、4日間入院し健康を取り戻しました。」

バクティンの最後の戦いは 3月31日にコロンビアのヨグリ・ヘレラ (22-16、15 KOs) を4ラウンドでストップした。

バクティンはバンタム級とスーパー バンタム級で注目すべきプレーヤーだった。

アレクサンダー・バクティンは、チタ地域のクラスノカメンスク市で生まれた。
8歳のときに初めてリングに入った。子供の頃は柔道をしていた。しかしクラスノカメンスクにボクシングスクールが出来てボクシングに転向した。9年生を卒業した後、バクティンはウランウデに引っ越した。ここで真剣にボクシングに取り組み、同時に溶接工および配管工としてライセウムで勉強しその後VSTUに入った。

1997年、アレクサンドルはロシアのジュニアチームに所属。ジュニアのロシア選手権(1998年、1999年)、ロシアのカップ(1999年)、世界選手権銅メダリスト(1998年)、ジュニアヨーロッパ選手権(1999年)で優勝。ブリヤート共和国の高等スポーツエクセレンススクールで訓練を受けロシア連邦の軍のSCのためにプレーした。ロシアの国際スポーツマスターの称号を獲得。

プロではロシアの伝説的なコーチであるアレクサンダー・ジミン(かつてユーリ・アルバチャコフやオルズベク・ナザロフをロシア初のプロの世界王者に導き、ニコライ・ワルーエフやデニス・シャフィコフなど多くのボクサーを指導した人物)からボクシングを教わった。

バクティンはそのキャリアの大部分を日本で過ごした。現在でも日本のバンタム級王座防衛回数の最多記録(9回)を保持している。また、OPBFバンタム級とWBAインターナショナルスーパーバンタム級のベルトも獲得した。

日本滞在中に、刑事事件を起こした。東京のナイトクラブで喧嘩をし2人の狂暴な男をノックアウトした。バクティンは無罪であることが判明したが、ボクサーが一般人相手に事件を起こしたとして謹慎処分を受けた。

しかし、過去8年間、様々な団体で常にトップ10入りを果たしているにもかかわらず、メジャーのベルトを争うことはなかった。

バクティン
「そうだね、少し悲しい気持ちだよ。最近まで、周辺階級のどんな王者にも挑戦する準備ができていたんだ。チャンスがなかったのが残念だ。しかし、未来は今、自分のためにある。前に進む時が来たんだ。」

究極のレベルで自分のスキルを試す機会がなかったにもかかわらず、バクティンはアマチュアとしての完璧な成績(124勝4敗)に加えて、無冠の帝王としてのキャリアを締めくくった。

ロシア人スタイリストは、元WBA王者ネオマール・セルメニョをはじめ、本田秀伸、ゲルソン・ゲレーロ、川端賢樹、ルイス・メレンデスといった元世界タイトル挑戦者を一方的に破っている。

遂に究極の栄光に到達しなかったはいえ、彼は自分のキャリアに誇りを持つ権利がある。

もう映像もあまりない。

神経系の怪我で、生命に関わるものだったらしい。
ロリ・ガスカとの試合はニコライ・ワルーエフの試合のため、アレクサンダー・ジミンがおらず、代わりのコーチが筋トレばかりした、それが失敗しすぐにスタミナを消耗し最悪のコンディションに陥ったのだそうだ。筋トレには回復期間が必要なのだ。

ドミトリー・ピログは世界王者になったが、脊髄の怪我で無敗、王者のままこの世界を去った。

たらればはあるが、誰一人、アレクサンデル(サーシャ)・バクティンには勝てなかった。

ジャブ一本、片手であしらわれた。

31戦無敗の31歳、日本王座は9度防衛、マイナータイトル数知れず。
しかし誰にも相手にされず、一度もチャンスを掴めなかった。

強いということは、孤独であるということ。

アマチュアボクシング:134戦130勝(60KO・RSC)4敗
プロボクシング:31戦31勝(12KO)無敗

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