ファイティング原田、リアルタイムでは知らないのだが、この偉人を振返り、次世代のバンタム級を継ぐ日本人を見届けなければなるまい。
原田政彦は同世代の有望なボクサー達に比べて才能では劣っていたかもしれない。彼は厳しいトレーニングという質素な仕事倫理でそれを補っていった。1960年代、10年間のプロキャリアで、当時わずか10階級しかなかったボクシング界においてフライ級とバンタム級の王者になった。
中学を卒業した原田は米屋で働きはじめたが、家族にもっとお金を渡すために何か別の事をする必要を感じていた。
原田
「私の家族は貧乏でした。ボクシングは学歴や教養がなくても世界王者になれば稼げるとおもっていました。」偶然、笹崎ジムが近所にあった。興味深いことに原田にアマチュアの経験はない。17歳の誕生日を過ぎた頃彼はプロボクサーになった。
原田
「自分にはボクサーとしての才能があったとはおもわない。プロになった頃2人のライバルがいました。青木勝利と海老原博幸です。僕たち3人はフライ級の三羽カラスと呼ばれていました。この中で自分が最も才能がなかったとおもいます。海老原には「カミソリパンチ」青木には「メガトンパンチ」がありました。自分には誰にも負けない強い意志と厳しいトレーニングがあったので彼らを倒すことができたんだとおもいます。」ジムの会長にファイティング原田というニックネームを与えられ、最初は戸惑ったがそのうち慣れた。
原田はライバルの海老原と戦う前に12試合した。2年余りのキャリアで連勝を25まで伸ばし1962年メキシコのエドムンド・エスパルザに初めて敗れた。
1962年10月10日、19歳で世界フライ級王座に初挑戦。当時の世界フライ級王者の「シャムの貴公子」ポーン・キングピッチ(タイ)へ挑戦し11回、80数発もの左右連打を浴びせKO勝利、フライ級のタイトルを獲得するも、3カ月後にはタイでリベンジされた。
減量苦の原田は階級をバンタムに上げ2年間で11勝1敗の記録を残す。(唯一の敗戦はジョー・メデルによる6回KO)この時期にライバルの青木にも勝利している。
そして1965年、50戦無敗(47勝3分)の黄金のバンタム、エデル・ジョフレと対戦。15回判定で奇跡の勝利を成し遂げた。
https://www.youtube.com/watch?v=edFkYMalV7M
原田
「これが私の最も誇り高き勝利です。ジョフレのような素晴らしいチャンピオンに勝てて光栄です。」その後、アラン・ラドキンやジョフレとの再戦、宿敵ジョー・メデルを破るも伏兵のライオネル・ローズに敗れてタイトルを失った。
原田は再び体重を増やし、フェザー級に進出、WBC王者のジョニー・ファメションと対戦した。小さな日本のファイターはエンジン全開のファイトでファメションを攻め立て3度のダウンを奪った。しかし唯一のスコアラーであり元フェザー級の世界王者ウィリー・ペップは、この試合でレフリーも兼ねていたが、ドローとジャッジした。その後ファメションの勝利に修正された。リングサイドで観戦していたライオネル・ローズも認める露骨な地元判定であった。
https://www.youtube.com/watch?v=NArYhx59smM
半年後に日本で再戦がセットされたが、原田は14回でファメションに敗れ、これがラストファイトとなった。
生涯戦績55勝22KO7敗 26歳での引退だった。引退後もボクシングに関わり、TVのコメンテーターも務めた。1989年に日本ボクシング協会会長、7任期を務め、1996年にはボクシングの殿堂入りを果たした。
ジョー小泉
「ファイティング原田は国民的英雄でした。彼はいつもノンストップのラッシュでファンを楽しませた。誰もが知っている存在でした。エデル・ジョフレ、ジョー・メデル、ポーン・キングピッチ、ジョニー・ファメションとの試合はとても古典的な名勝負で彼の偉大な功績を決して忘れません。ファイティング原田こそ我々のシンボルなんです。」原田に想い出のボクサーを語ってもらった。
目次
ベストジャブ/ジョー・メデル
とても速くて正確なジャブの持ち主でした。
ベストディフェンス/エデル・ジョフレ
ジョフレはタイトなのぞき見ガードでメデルはとらえどころのないフットワークだった。タイプは違うが2人とも優れたディフェンス技術を持っていた。
ベストチン/エデル・ジョフレ
バンタム級にはたくさんの選手がいて一人には絞れないけど、強いて言うならジョフレでしょう。30ラウンドも戦ったのに彼は倒れなかった。逆に言えば、そんな強力なジョフレに耐えることができた自分も強いアゴを持っていたといえるでしょう。
ベストハンドスピード/ジョー・メデル
彼の速いカウンターパンチは見えませんでした。ファメションやアラン・ラドキンもパンチが速かったです。
ベストフットワーク/ジョニー・ファメション
最初に戦った時私は彼を3度もダウンさせた。でも足が速くてしとめきれなかった。たった一人のジャッジ兼レフリーのウィリー・ペップは引き分けと言ったのに後に覆しました。今日にいたるまで私はあの試合に勝利したとおもっています。
ベストスマート/エデル・ジョフレ
ジョフレとメデル、どちらも素晴らしいボクサーでした。一人に選ぶとすればジョフレにしなければならないでしょう。でもメデルは素晴らしかった。彼は恐れを知らぬ男だった。私はメデルと1勝1敗だけどジョフレには2勝している。メデルはジョフレに勝てなかった。とても奇妙なものです。
ストロング/エデル・ジョフレ
4回は私が倒されそうなピンチだったけど5回はジョフレが倒れそうだった。激しい競争相手でした。
ベストパンチャー/エデル・ジョフレ
ジョフレのパンチ力は説明のしようもなかった。青木勝利も素晴らしいパンチャーだった。ジョフレとメデルにはすごいパンチがあるとわかっていたので倒されないように必死でした。
私を最初に倒したのはメデルでしたが、パンチ力ではなくカウンターパンチのタイミングが抜群でした。メデルはディフェンスの達人でした。こっちが攻めていかなければ倒される恐れはありませんでしたが、それではファイトじゃない。だから私は攻めていきました。初戦は負けたけど、再戦では自分が王者だったので、状況が異なっていました。不必要にパンチを出す必要がなかったからメデルに雪辱できたのだとおもいます。
青木勝利もすごいパンチャーでした。1964年に戦って3回KOで私が勝ったのだけど、実は初回に左フックを受けて自分は倒れそうでした。彼は天才的なパンチャーでした。しかし青木は天才肌で練習しなくても勝てると吹いていました。だから私は必死にトレーニングをしました。ノンタイトルマッチでしたがその年の最優秀試合に選ばれました。
ベストスキル/エデル・ジョフレ
初挑戦の時、無敗の王者ジョフレに私が勝てるとは誰も予想していませんでした。実際苦しい試合でした。4回に彼を効かせたのに5回には効かされました。ジョフレに勝てたのは夢のようでした。ジョフレを筆頭に私の時代には多くの素晴らしいバンタム級のファイターがいました。そんな彼らがいたからこそもっと過酷なトレーニングをしなければならないと自分自身に言い聞かせることができました。彼らが私に動機を与えてくれたことを感謝しています。
総合/エデル・ジョフレ
間違いなく彼がベストでした。
ジュニアとかスーパーのない時代、10階級しかない時代の2階級王者(実質フェザーも勝っているので3階級だ)50戦無敗の黄金のバンタム、エデル・ジョフレを破った男、ジョフレはその後も試合を重ね、生涯戦績を72勝としているが、原田以外には一度も負けていない。その偉業、記録は抜き去ることは決してできない。
青木勝利という男も原田と対戦した時の戦績は41勝3敗2分とすさまじいのだが、その後悲惨なまでに落ちていった。
青木勝利
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ファイティング原田
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海老原博幸
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それぞれにすさまじいキャリアだ。
私がボクシングに夢中になりだしたのは平成3羽カラスの頃だったが、そんな時代も間もなく終わる。
原田の偉業に連なる大きな夢を見届けたい。
引退が26て…今の井上尚弥と同年齢ですね
いかに昔の環境が酷く、今の科学が発達したかがわかりますね
その中でこの成績にこの対戦相手ですからねレジェンド以外の何者でもないですね
もっとあとの時代、具志堅は25、竹原は24で引退してます。
原田がフライ級でポーンに挑戦した試合からずっとテレビで観ていました。
根性で打ちまくるスタイルの選手が当時の日本には多かったですが、それにしても原田のディフェンスは甘すぎてハラハラして観ていました。
打たれ強さに自信があるためか、まともにパンチを受けてしまうことがよくあり、グロッギーになったりダウンすることもしばしばでした。
ところが凌いで1分間休むと次のラウンドにはすっかり回復して、また連打攻撃を繰り出しました。
とにかく手数が多くて、相手が防御に専念する場面が多くて判定勝ちするといった試合が多かったです。
手打ちなので相手を倒す威力には欠けましたが、15ラウンドの長丁場を打ちまくって勝つ姿を見て満足でした。
原田の偉業は、超人的な連打力・回復力と、名王者ジョフレの衰えの時期が重なった幸運な結果だったと思います。
客観的にボクシング技能のレベルで見たら、井上、長谷川、内山、具志堅、渡辺二郎らの方が明らかに上だと思います。
原田はスピードがあって上体も柔軟で足も軽快なので、もし笹崎ジム以外のジムに入門していたら、日本を代表するスーパーテクニシャンになっていたかも知れません。
白黒テレビさん
貴重なコメントありがとうございます。
3人の中では一番非力で才能がなかったそうですが、大事な試合で結果を出す、結果だけでなくダウン等も奪ったり、なかなか見ごたえがありますね。青木の倒れっぷり、原田の獰猛さをみるとロベルト・デュランのようでもあります。色々書いて、やはり練習の賜物、鍛え方の違いなのでしょうか、青木という選手に才能を感じますが、倒れ方があっけないです。鍛えてないからでしょうか?
私の父親がボクシングに熱狂しだした頃のチャンピオンですね。父親は常々、原田と小林が最強の日本の世界チャンピオンだと言ってました。