アフリカンビューティフルジャバー/(パトリシオ・アリ)スンブ・カランベイ

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1980~1990年代の怖い時代のミドル級、これまた日の当たるビッグ4(デュラン、ハーンズ、ハグラー、レナード)の裏舞台を温めた日陰の存在だが、キャリアをみるとすさまじく、その映像をみても驚きだ。当時こんなアフリカンがいたのだと。特にジャブ、カランベイこそ、アイク・クオーティーに連なるアフリカンジャバーの神様ではないかと・・・

スンブ・カランベイは1980年代最も過小評価されたファイターの一人だ。80年代後半にミドル級タイトルを獲得し時代を共にした多くのミドル級の最高の才能と拳を交えた。

1956年4月10日にコンゴ第二の都市ルブンバシでカランベイは生まれた。

コンゴでは他の多くのアフリカ諸国同様、一夫多妻制が認められ、カランベイの父親は2人の妻を持ち、17人の子供がいた。カランベイは最初に生まれた息子だった。幼少期の生活は安定していた。

カランベイ
「父はドイツから車を輸入する会社の経理をしていて家は裕福だったのであまり苦労しませんでした。子供の頃は穏やかに楽しい時間を過ごしました。」

アマチュアボクサーだった兄弟の友人がジムにカランベイを誘い、ボクシングに興味を持った。

カランベイ
「その日からボクシングにはまりました。厳しいけどとてもやりがいがあった。熱中できるものをみつけた。トレーニング体制もとてもよかった。ボクシングをやる前はサッカーをしていました。アフリカではイタリアと同じように子供はボールを蹴って走り回るのが大好きです。陸上競技もしていて、5000メートルの選手だったこともあります。」

しかしボクシングがカランベイの心を掴んだ。90勝5敗という優秀なアマチュア記録を残したが、コンゴでプロになるのは難しく、イタリアに渡る決意をした。

カランベイ
「友人のボクサーの何人かはすでに他国、特にヨーロッパに移動していました。モスクワオリンピックでいくつかの国がボイコットしたので米国を中心に代わりに世界大会を開催していました。私はそのトーナメントに参加しましたがプエルトリコのファイターに負けました。スピードや技術では私が勝っていたとおもうのですが、プエルトリコのファイターはとても攻撃的でした。でも多くの人が私の勝ちだと言ってくれました。セルジオ・カパネラというイタリアのコーチと契約したのでイタリアに行きました。」

カランベイは1980年10月にプロになった。3試合目で敗北するもののその後5年間イタリアの地で勝ち続けスキルを磨いた。

1985年4月、ハリー・アローヨVSジミー・ポールのアンダーカードで、デュアン・トーマス相手にアメリカデビューを果たすも判定で敗北。その後3連勝してイタリア王座を獲得した。

カランベイ
「私にとって最も重要な勝利は1985年カゼルタでジョバンニ・デ・マルコに勝ってイタリアのタイトルを獲得した時です。プロで何者かになれると気づいたのはその時でした。それまでは自分の可能性について確信がありませんでした。」

その後ヨーロッパタイトルを賭けて元世界王者でアフリカの同胞、アユブ・カルレに挑むも僅差で敗北。再び常勝軌道にのったカランベイは1987年5月に2度目の挑戦でヨーロッパタイトルを獲得した。相手は当時評判の高かった38勝無敗のヘロール・グラハムだった。振返るとこの試合の勝利がカランベイにとって最も誇り高き瞬間だと言う

カランベイ
「グラハムは大きなパンチャーで相手をほとんどノックアウトしていましたので「Bomber=爆撃機」と呼ばれていました。イタリアの新聞でも不利と言われていました。しかし私はしっかりと勝っただけでなく彼をダウンさせました。イタリアに戻ると新聞で私の勝利が大きく祝福されていました。それは私にとっては二重の勝利といえました。」

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この勝利が、WBAミドル級王者のマービン・ハグラーがシュガー・レイ・レナードとの対戦を選択し空位にした王座への挑戦に繋がった。ニューヨークのパンチャー、アイラン・バークレーとの王座決定戦が行われ、カランベイはジャブを絶え間なく打って王座を獲得。この試合がWBAによる最後の15ラウンド制の試合となった。

その後、強化された指名試合を着々とクリア、伝説のマイク・マッカラムの無敗記録にはじめて土をつけたり、ハグラーの弟、ロビー・シムズを破ったりした。

https://www.youtube.com/watch?v=AbC1be8HwZk

1989年3月、マイケル・ナンと統一戦、必須の挑戦者であったヘロール・グラハムを回避しての統一戦に踏み切ったカランベイはWBAの王座を剥奪された。

5-1でナンが有利とされたオッズで行われた試合、この試合で40万ドルを稼いだナンは生涯唯一カランベイをノックアウトした男になった。しかも初回だった。この試合はノックアウトオブジイヤーに選出された。

https://www.youtube.com/watch?v=9QFlCvedmxQ

カランベイ
「初回がはじまった直後にパワフルで正確な左フックで倒されました。まだウォーミングアップの段階だったのでそのパンチは効きました。何を打たれたか覚えていない。パンチが見えなかった。」

敗れたカランベイはヨーロッパタイトルから出直し再度世界戦のチャンスを得たが、今度は一度勝っているマイク・マッカラムに僅差のSDでリベンジされた。カランベイは2003年の殿堂入り王者、マイク・マッカラムとリングで共有した24ラウンドを想い出す。

カランベイ
「マッカラムと初めて戦った時、彼は無敗で。スーパーウェルター級から上げてきたにも関わらずとても危険なファイターでした。イタリアの新聞でも不利と言われました。とても慎重に戦い、ジャブを絶やさず彼のバランスを崩しました。再戦では5回にマッカラムのボディで肋骨を折ってしまい、ダンスしたりアウトボックスできなくなってしまいました。」

再びヨーロッパタイトルレベルに戻ったカランベイはその後も4度防衛した。ヘロール・グラハムを再び返り討ちしたり後の世界王者、スティーブ・コリンズを下した。

1993年、空位のWBOミドル級王座をクリス・ピアットと争い判定負けをしたのを最後に引退を決意。

現在は20年以上連れ添うパートナーと共にイタリアに住み、3人の子供と2人の孫に囲まれている。息子の一人はサッカーのACミランの選手だったが膝の怪我でキャリアを終えた。カランベイは息子たちと数軒のバーやピザ屋を経営、最近ではスペインのマルベーニャに新しい店をオープンさせた。

57-6-1(33 KO)

ライバルについて

ベストジャブ マイク・マッカラム

バークレー、ダグ・デビットも素晴らしかった。それらの中でもマッカラムのジャブが最も訓練されたものだった。私のスキルを引き出す多くのアグレッシブなパンチャーと戦ってきたけど、普段は私こそジャブの使い手だった。

ベストディフェンス スティーブ・コリンズ

このアイリッシュはタフで確かなる技術を持っていた。いい試合だったとおもう。常に前進しフィジカルが強かった。クリス・ピアットは時にバックステップしたりチキンだった。だから彼にクリーンヒットできなかった。でもコリンズはタフで勇敢だった。

ハンドスピード フランシスコ・デル・アキラ

デル・アキラだったとおもう。とても速くてタイミングがよかった。序盤にタイミングのいい右クロスでダウンを奪われた。2回にレフリーは私から2度目のダウンを宣告したんだけど、倒れてないしリングにタッチもしてないからびっくりした。だから私は逆襲しなければならなくなった。彼が降参するまで。

フットワーク ロビー・シムズ

私はたくさんのパンチャー、スラッガー、有望なファイターと戦ってきた。みんな強くて簡単には答えられない。たぶんこのカテゴリはロビー・シムズだろう。彼はリングの使い手で逃げ道を塞ぐのが巧かった。ハイペースでファンタスティックな試合だった。

ベストチン ジミー・サイクス

ローマで8回戦で戦った。彼は信じられない奴だった。初回にダウンを奪った。その後も何十発もコテンパンにフックやアッパーで痛めつけ。私の手はボロボロに傷つくほどだったけど彼をノックアウトできなかった。

スマート アイラン・バークレー

対戦相手はみんな優秀な世界王者でした。でももっともクレバーなのはバークレーだったとおもう。

屈強 スティーブ・コリンズ

真の戦士だ。頑丈で屈強だった。ヘロール・グラハムと戦った時に彼は大きく強くてパンチも重いと感じましたが、彼は動き回っていたので、私は速いジャブでバランスを崩すことに成功したのです。だからグラハムの場合はパワーを感じただけで済ますことができた。

ベストパンチャー アイラン・バークレー

アイランには一番打たれました。ありとあらゆる方法で傷つけることができる男でした。変則スイッチヒッターで左右両方とも強かった。それは彼を研究しても無駄な変則スタイルでした。だから彼を特定のカテゴリで選出しにくいのです。リラックスして冷静に戦いにくい、荒々しい変則サウスポー。彼の事はいいボクサーだとはおもっていたけどそれほど強打者だとはおもっていなかった。けれど結局それがボクシングというスポーツの美点であり、予測不可能なところです。

ベストスキル マイク・マッカラム

最も完成度の高い総合パッケージでした。

総合 アイラン・バークレー

選ぶのがとても難しいです。あらゆる戦いが異なる複雑さをもっているからです。強いて言えばマッカラムとバークレーになります。バークレーを選んだ理由は彼との試合が最もハードだったからです。あの試合は15ラウンド制の最後の試合でもありました。

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ワトソンはもちろん、マッカラムを書いても、ましてカランベイなど書いても全然アクセスがないですが、自分が憧れ、畏怖していた頃の貴重な選手なので自己満足で記録しておく。

マイク・マッカラムがほぼ無敗の匠ならこのカランベイも数々の有望株の壁となって立ちはだかった無名の巨人だ。マッカラムやグラハムにはじめて黒星をつけた男、雑草だったがデュランに肉薄しハーンズを破ったバークレーに勝利している点など、ビッグ4と絡んでも実力的には互角以上に渡り合えただろう。

とても速く好戦的でテクニカルだが特にジャブに酔いしれる。古い映像だが今観ても強い、今の王者とそん色ないか上にもみえてしまうアフリカンクラシックだ。

スティーブ・コリンズというのはクリス・ピアットを破りミドル級世界王者、クリス・ユーバンクやナイジェル・ベンの長い統治を終わらせ2階級制覇し7度の防衛に成功したまま引退した、ジョー・カルザケやカール・フロッチの先駆けといえる名王者です。

アイラン・バークレーに対する評価、分析が秀逸です。

but all in all that’s the beauty and the unpredictability of our sport.

アフリカンの割に過酷なバックボーンがないのと、マイケル・ナンに痛恨のKO食らったのがチャーミング。初回KOというのはどんなに強い選手にもよくある事といえなくもない。

Patrizio – Aliというニックネームはたぶんイタリアのモハメド・アリというような意味かな。

すごい選手がいたものです。

https://www.youtube.com/watch?v=eJf6U2VzlgM

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プクー

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「ボクシング動画配信局」https://box-p4p.comの管理人です。 ボクシングで人生を学びました。

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