悪魔を憐れむ歌/(El Torito=小さな牛)トニー・アヤラ・ジュニア

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時にこういう無軌道で破天荒なファイターが生まれるのがボクシング、特にアメリカという土壌だが、彼はボクサーである前に犯罪者、アルコール、ヘロイン中毒者ではなかったか。その力を借りて超人たりえたのではないか、浮かれてもてはやすよりも更生が何より必要だった。こんな倫理は通用しないだろうが・・・

1980年代のボクシングには、ハグラー、レナード、ハーンズ、デュランという輝かしい黄金時代があった。4人のファイターはそれぞれ全員と戦い伝説的なファイトを残した。

この黄金時代に彼らに匹敵する全てのツールを備えた男がいた。彼の名はトニー・アヤラ・ジュニア。スキル、スピード、パワー、全てを持っていた。

しかし彼の無謀なパーティーライフは全ての栄光を拒絶した。

アラヤはテキサス州サンアントニオで生まれた。父親のトニー・アヤラ・シニア、兄弟のサミー、マイクも全てボクサーだったので、トニーにもボクシングの血が流れていた。アマチュアで140勝8敗という記録を残して1980年、18歳でプロに転向、13勝12KOという快進撃を続けた。アヤラの最初の全国的なデビューは14戦目、レナードVSハーンズの前座でホセ・バケダノを初回ノックアウトして鮮烈なインパクトを与えた。

レナードVSハーンズの前座を務める前からアヤラは注目を集め、10代にしてスポーツ・イラストレイテッドで特集記事が組まれ、有名ボクシング記者が今まで見た中で最高の若手選手だと絶賛、伝説的トレーナーのアンジェロ・ダンディーも将来的に最も優れたボクサーの一人になる可能性があると発言するなど、若くして非常に将来を期待されたボクサーだった。

しかしリングを離れるとアヤラはアルコールやヘロインを常用する荒れた生活を送っていた。彼は3つの「B」(Booz=大酒飲み)、(Broads=女)、(Boxing=殴り合い)を生きた。22勝19KOとし、世界挑戦を目前にしても、その無軌道なライフスタイルは人生を滅ぼした。

WBA世界スーパーウェルター級王者デビー・ムーアに挑戦が決まっていた矢先の1983年1月1日、近隣の女性教師宅へ強盗目的で押し入り、被害女性を縛って強姦する事件を起こし、懲役35年を宣告される。アヤラはまだ19歳だったが、この事件以前にも女性を2人襲って執行猶予判決を受けており、その内の1人は背骨を骨折させられた上にトイレに放置される残忍なものだった。

16年に及ぶ刑期を経て、1999年に仮釈放で刑務所から出所したアヤラに多くのプロモーターやマネージャーが契約を求め、17年ぶりにボクシングに復帰、重犯罪者に対しても地元ファンのサポートは厚く、チケットはいつも完売だった。

5連勝した後、アヤラに世界タイトルエリミネーターのチャンスがやって来る。2000年7月28日、元IBF世界スーパーウェルター級王者ヨリボーイ・カンパスと対戦。テキサス州サンアントニオのフリーマンコロシアムは満員でアヤラに大声援、試合は一進一退の熱戦となるも、カンパスがエンジンをあげ、8回終了後にアヤラが手の負傷により棄権、KO負けを喫した。

それがアヤラにとって初黒星にして世界王者になるための最後のチャンスだった。

リング外の悪魔が再び現れ、2000年12月12日に18歳の女性宅に押し入り、女性に肩を撃たれる。短い刑期と保護観察を受け出所、2003年までボクシングで勝ち続けるもアンソニー・ボンサンテと対戦し11回TKO負け。この試合が最後となった。

2004年、スピード違反で停車を命じられ、無免許運転並びにヘロインとポルノ所持で逮捕。執行猶予中の身であったため懲役10年が宣告され、軽犯罪者用の施設に収容される。

2014年4月10日、サンアントニオでジムを運営していた父親のトニー・アヤラ・シニアが死去。アヤラは軽犯罪者用施設から特別許可を得て葬儀に参列後、再び施設へ戻る。

2014年4月25日、刑期満了で釈放される。

兄弟のパウリー・アヤラ、マイク・アヤラ、サミー・アヤラと共にサンアントニオの父親のジムを継いだ。

2015年5月12日、ジム内の床で死んでいるのを発見される。死体のそばのテーブルの上に使用済みのヘロインと注射器が置いてあった。検死の結果ヘロインの過剰摂取が死因と判明。52歳だった。

生涯戦績31勝27KO2敗

トニー・アヤラ・ジュニアには素晴らしい才能とスキルがあった。リングの外の生活を正すことはできなかったのか、ボクシングの黄金時代に5人目の男になれただろうか、我々に残されているのは果たされることのない約束の記憶だけだ。

その他にも数々の犯罪歴があり、殺人を犯さなかったのが幸いといえるほどの犯罪のオンパレード。アメリカの犯罪史によくある、青年期の性的虐待(父親の友人から)がトラウマとなったとあるが定かではない。

その才能はボクシング一家のDNAを継いで最高峰のものだったが、薬物、アルコール依存が生み出した産物ともいえ、数々のレイプ事件もラリッた状態で欲望の赴くまま、理性のかけらもなかった。

遠い昔、犯罪者の汚名を晴らせず、人々に忌み嫌われて死んでいったソニー・リストンと違って、重犯罪から17年も経って復帰したアヤラに多くの支援が集まったのはなぜだろう?黒人じゃなく、金になるスター性ゆえだろうか。

将来を嘱望された10代の頃よりアルコール、ヘロイン中毒者であり、そんな者でもリングに上がれた事実が存在する。脳の障害でアメリカでライセンスを発行されなかったエドウィン・バレロも日本では試合が出来た。恐らくずっと薬物中毒者だったろう。

そういう疑問を問うても封殺されてしまうだろうが、今も昔も狂気のファイターの中に薬物中毒者は紛れ込んでいるだろう。なぜかサスペンドされることもなく。

なお、兄弟のパウリー・アヤラ、マイク・アヤラ、サミー・アヤラとあったので、辰吉と戦った名王者、ポーリー・アヤラが弟なのかなと調べてみたが、テキサス州フォートワース出身となるのでたぶん違う。違って欲しい。

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プクー

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「ボクシング動画配信局」https://box-p4p.comの管理人です。 ボクシングで人生を学びました。

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