微笑みの国の巨匠/(デスマスク)ウィラポン・サハプロム

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暗いテーマが続いたので明るいテーマを。けれど微笑みの国からきたこの男のニックネームはデスマスク。日本人の宿敵のはずが、結果的には日本人に愛され、尊敬される存在になった。それは彼の人格、ボクシングを超えた真摯な人間性によるものだ。

ウィラポン・サハプロムはリングの紳士といえた。表情を全く変えずに強打を放つ所から「デスマスク(死者の顔)」と言われた。試合に勝った後も「敗者への冒涜になる」として笑顔を見せることはほとんどなかった。彼はキャリアを通じ2度世界王者になったが、2度目の王座、14度の防衛に成功したWBC王者として歴史に名を刻んだ。


ベルトが小さいがイケメンである。

多くのタイのファイターと同じく、サハプロムは貧しく、ハングリーなムエタイ選手としてキャリアをはじめた。ジュニアフライ級・フライ級・ジュニアバンタム級の3階級でラジャダムナン・スタジアム認定タイトルを獲得。ムエタイでは180戦以上のキャリアがあったと言われている。

ムエタイ時代、ウィラポンにはサムソン・ダッチボーイジムというライバルがいた。サムソンはボクサーとして43勝36KOという完璧な記録を持ち(相手は雑魚ばかり)WBUスーパーフライ級王座という無意味なタイトルを38度も防衛した。彼らはムエタイで1勝1敗の記録を残している。初戦はサムソンがウィラポンを病院送りにし、2戦目はウィラポンが2回でサムソンをノックアウトした。エキサイティングな2人の激突は以下の映像で確認することができる。

ウィラポンのムエタイ時代の素晴らしいワンパンチノックアウトを紹介する。

29歳で新たなる挑戦を求め、国際式(ボクシング)に転向。デビュー戦でジョエル・フニオ(フィリピン)を3回TKOで下し、WBCインターナショナルスーパーフライ級王座を獲得した。

1995年9月17日、デビュー4戦目で世界初挑戦。ダオルン・チュワタナとの同国人対決を行い僅差の判定を制し、WBA世界バンタム級王座を獲得、この勝利によりセンサク・ムアンスリンに次ぐ4戦目での世界王座奪取記録を達成した。

しかしこの王座は短命に終わった。

1996年1月28日、カンチャナブリーにて初防衛戦で元WBC世界スーパーフライ級王者ナナ・コナドゥ(ガーナ)と対戦。初回に左フックでダウンを奪ったものの、続く2回に逆襲に遭い、最後はカウンターを貰いキャンバスに崩れ落ち必死の覚悟で立ち上がるも、足がふらついているのを見たレフリーが試合を止め2回TKO負けで4か月で王座から陥落。

WBA王座陥落後は再び世界を目指すためにおよそ3年間キャリアを積みタイトル戦などはなかったものの16連勝(11KO)を果たした。勝利の中にはローランド・パスクアやジェス・マーカ、フェザー級のカルトヒーロー、チョイ・ツベンプレフなどが含まれた。

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1998年12月29日、日本のリングに初登場。大阪市中央体育館でWBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎に挑戦。

https://www.youtube.com/watch?v=M_wAtEvrNuE

辰吉はキャリアを通じて目の損傷に悩まされていたが、とても有能なファイターだった。しかしウィラポンはムエタイ、ボクシングの経験を生かし、外科医のごとき効率的で冷静なファイトを披露、6回KO勝ちを収め、世界王座返り咲きを果たした。

両者は再戦するも、より残酷な差をつけてウィラポンが返り討ちを果たした。

https://www.youtube.com/watch?v=gpAjfnPNM0o

2000年、ウィラポンは後のWBCスーパーバンタム級王者、西岡利晃の挑戦を受ける。その後4度戦うライバル対決は全て西岡のホームである日本で行われたが、ウィラポンが2勝2分という結果を残した。背が高く素早いサウスポーの西岡に対し、ウィラポンの基本、右がどれほど一貫性があるかを示す内容といえた。

辰吉との再戦ならびに西岡との4度の対戦を含め、実に14度の王座防衛を果たしバンタム級最多防衛記録を誇るオルランド・カニザレスに次ぐ2位タイの記録をマークした。長期防衛、試合内容も素晴らしいウィラポンだが、世界ではナンバーワンのバンタム級と評価されることはなかった。

2005年4月16日、日本武道館で行われた15度目の防衛戦で長谷川穂積に12回判定負けを喫し、6年3か月以上保持してきた王座を失った。西岡が見いだしたウィラポンの攻略法を長谷川穂積が実行した形になった。歴戦の疲れや37歳という年齢が影響した可能性もある。

https://www.youtube.com/watch?v=mZ3sYwuK_KI

その後、ウィラポンは5連勝4KOと奮起し長谷川と再戦するも、キャリアピークを迎えていた長谷川に10年ぶりのストップ負けを喫す。

40歳近くになりウィラポンのプライムタイムは終わりを遂げたが、依然としてその熟練の技巧は多くのボクサーにとっては脅威であり引退するまで14勝11KOを記録した。唯一ウィラポンに土をつけたのは世界ランカーのブシ・マリンガだけである。

当時仮想長谷川と言われた男

華々しい成功を収めても自分に厳しく、日々の練習や節制を決して怠らなかったことから、彼の姿勢を模範とするボクサーも多い。世界チャンピオンとなった後もジムの隣に一間を借りて家族や多くの練習生と共に過ごした。

世界的には実績に見合う評価を得たとはいえないかもしれないが、ウィラポン・サハプロムはムエタイからボクシングに転向し成功した歴史的英雄であり、過去20年で最も偉大なバンタム級王者の一人といえる。

72戦66勝(47KO)4敗2分

日本人の宿敵にして、最後は日本人が仇をうつ形になったが、仮にウィラポンが全勝していたとしても、彼に対する尊敬の念は変わらないだろう。改めてムエタイ時代の映像をみても、華やかでスピードがあった辰吉や西岡のスタイルとは対称的に地味で堅実、手堅いスタイルの王者だった。

リングを支配する匠の技、呼吸、引き出しをたくさん持っていたのだろう。

ムエタイ時代はジュニアフライ級から。29歳でボクシングをはじめたウィラポンは160センチしかなかった。ロマン・ゴンザレスあたりと同じくらいのサイズだったのだ。それでバンタム級の名王者というのも改めてすごいことだ。

イケメンである。

本名はティーラポン・サーラーングラーン(Theeraphol Saranglang)。
タイで普通に使われるニックネームはポン(Phol)。なお、「ナコンルアンプロモーション」はスポンサーの映画会社の名前である。ウィラポン・サハプロム(Veeraphol Sahaprom)は彼がキャリアの初期において使っていたリングネームで、2009年3月より再び使用している。

ティラポンでええのにな。

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プクー

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「ボクシング動画配信局」https://box-p4p.comの管理人です。 ボクシングで人生を学びました。

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