Welcome back/(イーストロンドンの鷲)ウェルカム・ニシタVol.2

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南アフリカのボクサーの歴史をきちんと知らないが、ブライアン・ミッチェルというジュニアライト級(スーパーフェザー級)の名王者がいたが彼は白人だった。黒人の世界王者としての先駆者がウェルカム・ニシタと言っていいだろう。厳密にはもっと古い王者も数人いるが、確固たる礎を築いたという意味では彼で間違いない。

1989年までに、ニシタはイタリア、パナマ、アメリカなど世界各国でキャリアを重ねた。IBFスーパーフライ級の指名挑戦者に駆け上がった。

ニシタ
「世界挑戦したかったので、今こそ私の時間ですとプロモーターにアピールしました。当時のIBFバンタム級王者、オルランド・カニザレス、彼は素晴らしい王者でしたが自分と似たスタイルで、彼をトラブルに陥れることができるとおもっていました。次にタイの双子の一人がいました。(カオサイ・ギャラクシー)しかし交渉は上手くいきませんでした。プロモーターはスーパーバンタム級ならば王者のファブリス・ベニシュとタイトルマッチができると言いました。プレッシャーはありませんでした。私はベニシュに勝てる自信がありました。」

ニシタはフットワーク、ジャブを効果的に生かしてベニシュを空転させた。ユナニマス判定で勝利し、歓喜と祝福でいっぱいのイーストロンドンに帰国した。

ラモン・クルス、ヘラルド・ロペス相手に2度の防衛に成功した後、3度目の防衛戦、アオスタのグランド・カジノで元スーパーフライ級王者、シュガー・ベイビー・ロハスと対戦。プロキャリア初の大苦戦を演じ12回2-1の僅差判定勝ちを収め3度目の防衛に成功。

ニシタ
「彼は頭を振ってどんどん前に出てきた。自分が何者なのかを証明する厳しい戦いでした。お前は王者なのか、熱いハートを魅せるのか、それとも臆病者か、あの試合は自分を目覚めさせるもので、私にはまだまだやるべき事がたくさんあると気づかされました。」

アメリカに3年振りに登場。テキサス州サンアントニオのヘミスファイアー・アリーナで、ハリー・スニードと対戦し12回3-0(118-109、117-110、117-111)の判定勝ちを収め4度目の防衛に成功。

ニシタ
「彼と戦うことになるのは驚きでした。クロンクジムでよくスパーリングしていた間柄でした。」

1991年9月28日、南アフリカに戻りシュガー・ベイビー・ロハスと再戦したが前回同様ニシタが大苦戦。またしてもロハスに追い詰められ12回2-1(2者が115-113、109-119)の判定勝ちを収め苦闘ながら5度目の防衛に成功。

ニシタ
「ここは地元であり私がここのボスなんだと示す必要がありました。」

6度目の防衛戦もニシタには厳しいものになったが、結果的にはこれがベストバウトといえるものになった。元WBA王者でハワイを拠点とするフィリピン人、ヘスス・サルードと対戦、サルードは直近で8連勝しておりとても危険な相手とみなされていた。試合中、ニシタは左目が腫れて塞がり見えなくなったが徐々にコントロール、多彩なスキルセットを披露しユナニマス判定で勝利した。

7度目の防衛戦、相手は無敗のアメリカ人、オリンピック金メダリストのケネディ・マッキニーだ。

私は1992年のその運命の夜についてニシタに尋ねなければならない。

ニシタ
「あの試合ですか、うーん・・・」

ニシタはしかめ面をしてうめき声を上げた。

マッキニーは無敗で将来のスター候補と宣伝されていた。身長、リーチに勝るマッキニーのスタイルは特に前半ニシタを大いに手こずらせた。パワーでもマッキニーが優勢な序盤を終え、ニシタは徐々に適応、調整していく。ボクサーからファイター寄りにシフトし、マッキニーにプレッシャーを与えアグレッシブに攻めていく。10回、ニシタはコンビネーションでマッキニーを痛めつけ、試合は若干ニシタ優勢で進んでいるようにおもわれた。

11回、ポイントでは3者共にニシタがリードしていた。(96-95、96-94、97-94)ニシタは決してパンチ力が売りのファイターではなかったが、とても速く鋭い左フックがマッキニーを捕らえると彼は背を向けた。レフリーはスタンディングカウント8を数えて試合を再開、ついにフィニッシュの時が訪れたとニシタは瀕死のマッキニーにパンチの嵐を降らせた。その後マッキニーに右ロングフックの打ち終わりを狙われ、右ショートフックがこめかみに当たり力を失ったかのようにダウンを奪われカウントアウトで試合終了。

プロ初黒星となる11回2分48秒大逆転KO負けを喫し7度目の防衛に失敗、王座から陥落した。

https://www.youtube.com/watch?v=mcSllyyUKPo

ニシタ
「リングの外では不満がたくさんありました。ロハスやサルードなどタフな相手と戦ってきました。それでも報酬は上がらず、すずめの涙でした。マッキニーは無敗のオリンピック金メダリストで1位の指名挑戦者です。明らかに厳しい相手でしたがハリー・スニードの時より少ない報酬でした。プロモーターに懇願しましたが「景気が悪いんだ、次の試合こそ大金が手に入る、スポンサーがいないんだ」と言うばかりでした。そのような状況で試合に集中するのは難しいです。」

記者
「それでも、あなたはマッキニーをあと一歩まで追い詰めました。」

ニシタ
「でも、精神的に私はもうキレていました。10ラウンドが終わって私はコーナーに棄権を申し出ました。トレーナーのルーサー・バージェスは「そんなのダメだ」と怒りを爆発させました。私はこの老トレーナーが興奮で心臓発作を起こすのではないかとおもい、「OK.OK.OK試合を続けます。落ち着いてください。」と言いました。私はただ11ラウンドも出て行ってパンチを投げ続けました。」

1994年4月16日、テキサス州コンベンションセンターにてケネディ・マッキニーと再戦。5回にダウンを奪ったが6回にニシタが有効打で左目の上をカットしペースを握りかけたが落としてしまい、2-0(110-117、111-117、114-114)の判定負けを喫し1年4か月振りの王座返り咲きに失敗。

ニシタ
「初戦のノックアウト負けが頭に残っていました。5回にダウンを奪った時でさえ、私は彼を仕留めるのにためらいがありました。」

1997年12月13日、ナジーム・ハメドの返上で空位になったIBF世界フェザー級王座決定戦をフロリダ州ポンバノビーチのアムピット・シアターにてヘクター・リサラガと対戦したが、10回終了時棄権により2階級制覇に失敗。

ニシタ
「当時の私は他の事に集中していてトレーニング不足でした。ビジネスを始めて忙しかったのです。(ファーストフードのフランチャイズ)試合の話は突然でしたが仕事の穴を埋めるために少しお金が必要だったので引き受けました。ファンを失望させてしまいました。自分のコンディションに失望しました。」

1998年10月3日、元WBO世界フェザー級王者でWBOインターコンチネンタルフェザー級王者スティーブ・ロビンソンと対戦したが、12回1-1(115-114、114-114、111-119)の3者三様の引き分けに終わりこの試合を最後に現役を引退した。

通算戦績:40勝21KO3敗1分

現在、ニシタは再婚した妻との間に3人の子供、以前の妻との間に2人の子供がいる。新進気鋭のアスリートのトレーニングをしているが、独自の考えを持っている。

ニシタ
「まず第一に私は決して彼らにボクシングを強要しません。アメリカにいた時にジョニー・デュ・プロイ(ヘビー級選手)と一緒だった事があります。彼はいつも父親にトレーニングされて一緒に戦っていました。この関係性が問題を起こすものであることを学びました。

それからある日、私の生徒が学校でケンカ騒ぎを起こしました。私は彼を座らせ説教しました。

「人生には色んな事が起きる。ボクシングじゃなくサッカーでもテニスでもラグビーでもクリケットでも同じだ。君が私のようである必要はないんだ。

ボクシングを志願する若者に言いたいこと、それは犠牲です。

人生は素晴らしい可能性でいっぱいですが、もしボクシングを選ぶならそれは悪魔との取引です。全てのものを遠ざけねばなりません。私はドラッグやアルコールの話をしているわけではありません。ほんのひと切れ、間違ったものを食べるだけでもダメなのです。ボクシングをするには多くの規律と献身が必要なのです。」

ウェルカム・ニシタが築いた功績が実を結び、意志を引き継ぐ者がこの地から生まれた。ニシタのキャリアを狂わせたケネディ・マッキニーの仇は同胞のブヤニ・ブングが討ち、後に13度防衛という金字塔をたたき出した。今現在最新の王者にゾラニ・テテがいる。

無敗の新星、アジンカ・フジールは今週日曜日のエリミネーターで強敵のシャブカット・ラヒモフをクリアすれば、恐らく最高の世界王者になるだろう。

未来がもたらすものの全てにウェルカム・ニシタがいる。彼こそがこの地域の最初の世界王者であり、新しい世代のファイターに道を開いた真の先駆者だ。

ウェルカム・ニシタ、彼は確かにスペシャルだ。

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元々スーパーフライ級、バンタム級の選手だったが、チャンスを求めてスーパーバンタム級を一発で戴冠、無敗のまま6度防衛、この困難なストーリーを南アフリカからやってきた無名のボクサーがさらりと成し遂げてしまうあたり凄まじい才能だ。ケネディ・マッキニーの仇は、同胞のブヤニ・ブングが討った。これまた漫画のような展開だ。

1990年やそれ以前より、アフリカの貧しくとも有望な選手が、アメリカまで行ってトレーニングや契約をする環境が敷かれていたり、世界各国を旅して戦い続けたり、ジョージ・ベントン、ルー・デュバ、クロンクジムなどは当時の最高峰であり、世界最高峰のファイターと肩を並べて、そんな彼らと仕事ができるチャンスがあったというのは、孤立した島国で経済発展し独自のボクシング文化、マスコミ文化を築いた日本より羨ましい部分も感じる。

そのくらい、海の向こうのボクシングは崇高で輝いてみえた。

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