金より輝く青銅のメダル/ホルヘ・エリセール・フリオ

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コーチ心配しないでください。私は今日は裏口から出ますが帰り道(コロンビアの空港)では堂々と大きな扉を叩いてやります、そこには大勢の記者がいます。

ホルヘ・エリセール・フリオ・ロチャ(Jorge Eliécer Julio Rocha、1969年4月4日 – )は、コロンビアのプロボクサー。マグダレーナ県エル・レテン出身。元WBA世界バンタム級王者。元WBO世界バンタム級暫定王者。元WBO世界バンタム級王者。ソウルオリンピックバンタム級銅メダリスト。アマチュア時代は強打を武器にした技巧派選手だったが、プロに転向すると強打とKO負けが2つしかないタフ(2つはマニー・パッキャオとイスラエル・バスケス)さを武器にした。

アマチュア時代ソウルオリンピックのバンタム級に出場。1回戦を3回TKO勝ちで下すと、2回戦と3回戦と準々決勝をいずれも判定で退けメダルを確定させた。しかし準決勝で今大会銀メダリストのアレクサンダル・フリストフに判定で敗れはしたが銅メダルを獲得した。

フリオ
「私は既におじいちゃんです。」

ホルヘ・エリセール・フリオは容赦ない時の経過を嘆くように笑顔で答えた。

30年以上前、彼が19歳の時、コロンビアのマグダレーナ県エル・レテン出身のフリオはソウルオリンピックで銅メダルを獲得した。

フリオには7人の子供と2人の孫がいる。最後の妻と別れ、アメリカのミネソタ州スタンフォードで幸せに暮らしている。2000年にロサンゼルスに定住して以来ずっとアメリカで暮らしているがいつか故郷のコロンビアに戻りたいとおもっている。アクティブなボクサーだった頃のように。

フリオ
「オリンピックは判定を盗まれました。それは私の人生でも最も辛い瞬間のひとつでした。」

1988年9月28日、オリンピックバンタム級のセミファイナルでブルガリアのアレクサンダル・フリストフと戦った試合を振り返った。報道機関でさえ、その判定が間違ったものであると伝えた。

フリオ
「私は試合を支配し最高のパンチを当てた。でもジャッジはブルガリア人を支持した。」

彼らは抗議して会場を騒然とさせた。

記憶は消えない。フリオは今でも自分が勝者だと信じている。それが正しくジャッジされていたなら、そんな悪夢に捕らわれることなくプロとして活躍した日々の記憶を懐かしむことができるだろう。プロではジョニー・タピアやジュニア・ジョーンズなどと素晴らしい試合を演じ、輝かしいキャリアを築いた。

しかしフリオは今では満面の笑顔で元気に過ごしている。アメリカの電気設備会社で働いている。

フリオ
「面白い話があります。オリンピックの前に専任の心理学者がついたのですが、彼が私を大いに助けてくれました。メダルを獲得できたのは彼のおかげです。

フリオ、あなたはソウルで何を達成したいのかと聞くので、私は、まぁメダルを目指しますと言いました。どんな色のメダルですかと聞かれて私は3つの色のどれかと答えましたが、それでは何も目指していないのと同じだ、それは真実ではないと言ってくるので私は面倒くさくなって金色だと答えました。そうです、それを聞きたかったのです、毎日毎日、それは洗脳のようでした。そして心理学者は私に金メダルだけを考えさせました。私の能力、私が出来ることを教えてくれました。

全てのアスリートには心理学者やモチベーションコーチが必要だとおもいます。ソウルのコロンビア大使館に全ての代表が集められた時オリンピックの目標を聞かれました。ある者は個を確立するため、またある者はトップ10に入り表彰台に立つためだと答えました。私だけが金メダルを目指すと言ったのでみんなびっくりしていました。

もし準決勝で判定が盗まれなければ、私は金メダルを獲得していたでしょう。当時の私には強い信念と純粋な心、身体的なコンディション、全てが整っていました。」

それでも、ホルヘ・エリセール・フリオはコロンビア最高のアマチュアボクシングコーチのホルヘ・ガルシア・ベルトランと共に銅メダルという輝かしい栄光を掴んだ。

フリオ
「私はとても楽観的で、試合が終わるたびに、コーチ、勝ちましたと叫びました。コーチは冷静に「審判のジャッジを待つ」と言いました。いつもそうでした。コーチはいつも「審判のジャッジを待つ」と同じ言葉を言いましたが、あの準決勝でははじめて「フリオ、お前は既にチャンピオンだ」と叫びました。しかし勝利はブルガリア人になってしまったのです。」

オリンピック村に向かうバスの中で悔しさが抑えきれずフリオは叫んだ。

フリオ
「コーチが、記者は挨拶も写真を撮ることさえしなかったと嘆いていたので、私はコーチ心配しないでください。私は今日は裏口から出ますが帰り道(コロンビアの空港)では堂々と大きな扉を叩いてやります、そこには大勢の記者がいますと答えました。」

たとえメダルの色は銅であっても、多くの人々が空港で彼らを歓迎した。

フリオ
「私が成し遂げたことは金メダル以上のものでした。悔しさはプロに飛び込むドアを開き、5年後に世界王者になりました。」

今日、フリオはコロンビアに帰国することを夢見ながらミネソタで暮らしている。ボクシングコーチになる勉強は特にしていないが、彼が経験した知識が何か役にたつのではないかと感じている。

フリオ
「ここスタンフォードで夏休みに子供の指導をしました。コロンビアでボクシングを教え、今の祖国のボクシングの状況を変えたいと思います。」

フリオはこの地で仕事を続けながら、家族、子供、孫、友人、想い出とともに暮らしている。オリンピックのメダルはコロンビアのメデリンで大切に保管されている。

補足

オリンピックで銅メダルに輝いたホルヘ・エリセール・フリオのソウルでの活躍がアマチュアとしての最後の戦いだった。半年後、彼はプロの世界に飛び込み、2度バンタム級の世界王者になった。2003年5月22日、テキサスでイスラエル・バスケスに敗北し49戦のキャリアを残して引退した。

通算戦績44勝32KO5敗

WBA世界バンタム級王座(防衛2度)
NABO北米バンタム級王座
WBO世界バンタム級暫定王座(防衛0度=正規王座に認定)
WBO世界バンタム級王座(防衛1)

とても個人的な記録になります。
負けた試合映像ばかりなのが気の毒です。

1988年ソウルオリンピック、結局金メダルをとるのは、フリオに勝ったアレクサンダル・フリストフを下したケネディ・マッキニーだった。ケネディ・マッキニーVSホルヘ・エリセール・フリオだったらよかった・・・

その頃にはボクシング小僧であった私は密かに日本代表の松島勝之を見守っていた。かなりいいセンをいっており、トーナメントを勝ち抜きあと一つか二つ勝てばメダルというところまでいったのだが、そこで立ちはだかったのがホルヘ・エリセール・フリオ・ロチャだった。5-0という完封劇だった。

長い名前だな、何が姓で何が名前なんだ、それにしても強いな、プロより凄いぞと感嘆した想い出がある。

だからその後プロでのフリオの活躍がうれしかったし、日本人では歯が立たない超強豪という認識があった。そんな彼も27戦目で当時30戦無敗のジュニア・ジョーンズに初黒星、ほとんど負けない強豪のまま

ジョニー・タピア
マニー・パッキャオ
イスラエル・バスケス

に敗れて引退した。

イスラエル・バスケス
「彼がバンタム級の世界王者だった時、私はスパーリングパートナーでした。私のパンチが当たれば大抵のファイターは効くか倒れるが、彼は平気で立っていました。」

WBOだからなかなか試合がみれなかったけれど、ホルヘ・エリセール・フリオ・ロチャは私にとって青春のヒーローだった。

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プクー

Author: プクー

「ボクシング動画配信局」https://box-p4p.comの管理人です。 ボクシングで人生を学びました。

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