デュランになれなかった男/エドウィン(チャポ)ロサリオ

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ロサリオは失われた5年間について語った。
サンファンの刑務所に入り、妻や子供、家、車を失った。しかし今再び世界王者になる自信があると・・・

エドウィン・ロサリオ(Edwin Rosario、1963年3月15日 – 1997年12月1日)は、プエルトリコのプロボクサー。元世界2階級王者(ライト級、ジュニアウェルター級)。

エドウィン(チャポ)ロサリオはリングの中では輝かしいキャリア、パフォーマンスをみせた元世界2階級王者だったが、リングの外では薬物乱用により、34歳で短い命を落とした。

検死の結果、死因は肺水腫であり麻薬とアルコール中毒が原因とされているが、確信は持てない。

1997年12月1日、別れた妻と子供の住む家を訪れたが、気分が悪いとして1時間ほどで滞在を切り上げ、両親と暮らす自宅に帰宅した。翌日父親のアントニオはベッドの上で死んでいるロサリオを見つけた。

ロサリオは1月の試合のためにトレーニングしており、今年から復帰し毎月戦い5連勝中だった。

フェリックス・ザバラ(プロモーター兼マネージャー)
「ロサリオは薬物問題のために5年間ボクシングを休止し、治療とリハビリに専念していたんだ。9か月間リハビリセンターに入院し、昨年12月に退院した。そして再びボクシングを始めたところだった。」

8月にマジソンスクエアガーデンでノックアウト勝利を飾ったロサリオは失われた5年間について語った。サンファンの刑務所に入り、妻や子供、家、車を失った。しかし今再び世界王者になる自信があると・・・

1997年、9月25日、プエルトリコのバヤモンでハロルド・ベネットをノックアウトした試合がロサリオの最後となった。

47勝41KO6敗という記録を残した。

エドウィン・ロサリオは1963年3月19日、プエルトリコ自治連邦区トアバハのバリオ(行政村)インジェニオで生まれた。母親のイザベルは准看護師、父のアントニオは闘鶏好きの(プエルトリコでは合法)漁師だった。

ロサリオは闘鶏好きの父親と一緒にのちに闘鶏場を開いたりもした。

ボクサーとしてロサリオは「小さな男」を意味する「チャパリト」という言葉を短くした「チャポ」というニックネームで親しまれた。9歳の時に近所のレシトタウンジムに行き、トレーナーだったマニー・シアカの最高の生徒になった。シアカはロサリオをプエルトリコで最も熟練した偉大なファイターの一人に変えた。

1983年5月1日、22戦目で世界王座初挑戦。WBC世界ライト級王座決定戦でホセ・ルイス・ラミレスと対戦し、12回判定勝ちで無敗のまま世界王座を獲得。同王座は2度の防衛に成功した。

1984年11月3日、3度目の防衛戦でラミレスと再戦し、4回TKO負けで王座から陥落。

1986年6月13日、WBC世界ライト級王者ヘクター・カマチョに挑戦し、12回疑惑の判定負けで王座返り咲きならず。

1986年9月26日、WBA世界ライト級王者リビングストン・ブランブルに挑戦し、2回KO勝ちで王座を獲得。同王座はファン・ナサリオ相手に1度の防衛に成功。

1987年11月21日、2度目の防衛戦でフリオ・セサール・チャベスと対戦し、11回TKO負けで王座から陥落。

1989年7月9日、WBA世界ライト級王座決定戦でアンソニー・ジョーンズと対戦し、6回TKO勝ちで王座に返り咲いた。

1990年4月4日、初防衛戦でファン・ナサリオと2年8か月ぶりに再戦し、8回終了時TKO負けで王座から陥落。

1991年6月14日、1階級上のWBA世界ジュニアウェルター級王者ロレト・ガルサに挑戦し、3回TKO勝ちで2階級制覇に成功。

1992年4月10日、メキシコシティで行われた初防衛戦で平仲明信と対戦し、初回1分32秒TKO負けで王座から陥落。

1993年1月30日、フランキー・ランドールと7年7か月ぶりに再戦し、7回TKO負け。この試合を最後にブランクを作った。

1997年5月22日に4年4か月ぶりの復帰戦を行い、復帰戦を含め5か月連続で試合を行った。

獲得タイトル
WBC世界ライト級王座(防衛2度)
WBA世界ライト級王座(防衛1度)
WBA世界ライト級王座(防衛0度)
WBA世界ジュニアウェルター級王座(防衛0度)

47勝41KO6敗

昨日、エドガー・ベルランガを書いて思い出したレジェンド。ロサリオは国際殿堂入りを果たしている2階級王者だが、意外なほど防衛は少なく、人々の記憶からも消えそうなまさにForgottenLegend(忘れられた伝説)だ。

彼自身の言葉も、たいそうな物語もないから、自分の感覚で「デュランになれなかった男」と書いたが、改めて振り返れば凄まじい才能だ。デュランと言わずとも、同国のウィルフレド・ゴメスばりの強打者にして彼よりナチュラルなテクニシャンではなかったか。

同時代、同級生に対照的なアイドルのヘクター・カマチョがおり、見た目の派手さで人気が及ばなかった。(実力は上だったとおもう)ホセ・ラミレス、フリオ・セサール・チャベスなど怪物的なメキシカンと時代を共有した。

そしてなんといっても、恐らく、薬物や私生活、節制、などの部分で心身のコンディションに波があったことが原因で足踏みをしたのが響き、忘れられた伝説の立場に自らを追いやってしまった。

平仲明信がメキシコシティでロサリオを初回でノックアウトした試合こそ、日本史上最大のアップセットであり事件だったとおもうが、恐らく初回KOの強襲でなければ成しえなかった偉業であり、平仲の相手はロサリオではなくロサリオのコンディションだったのだと想像する。

今既にそうなのか、近い将来そうなるのかは忘れたが、プエルトリコはアメリカの州のひとつに属するという。当時に比べると、今のプエルトリカンはかなりアメリカナイズされており、麻薬やアルコール、ギャンブルで身を滅ぼす事が少なくなってきた気がするが、大局的に見ればアメリカのボクシングはほとんどがメキシコ系かプエルトリコ系か黒人系であり、プエルトリカンには早熟の天才が多い。

溢れる才能で世界を席巻するが、若くして落日をみる者、命を落とす者も多く、リングの中より外に本当の敵が多い。今もプエルトリカンは多く出てきているが、その中でも何年かに一人、とびきりの逸材といえるのはロサリオのような重厚で柔軟で破格の強打者である。

エドウィン・ロサリオはプエルトリコでもトップクラスの才能だった。

一番だったといえるかもしれないほど・・・

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プクー

Author: プクー

「ボクシング動画配信局」https://box-p4p.comの管理人です。 ボクシングで人生を学びました。

3 thoughts on “デュランになれなかった男/エドウィン(チャポ)ロサリオ

  1. こちらでもコメントします。
    平仲さんの勝利の位置付け、同意します。
    正直この試合の予想は、日本人ですら絶望的で勝てるわけないでした。

    チャベス戦以後は、どれも不出来で全盛期が信じられないレベル低下でした。
    それでもランドール第2戦のランドールがダウンするシーンを見ても、よくも平仲さんが攻め落としたと感嘆します。

    ロサリオが負ける選手が何人かいたことが当時の高いレベルを物語っています。

    1. 負け方をみると非常にナイーブで心が弱そうです。だから薬物に手を出すのか文化なのかはわかりませんが早熟のラテン系、特にプエルトリカンは身体能力や才能は凄まじいけど人間が幼稚なのかもしれません。長持ちしないケースが多すぎです。驚くべき才能であっても。

  2. 答えになってないかもしれないけど…
    今はわからないですが、この世代は選手のスカウトがストリートキッドの喧嘩の強いキッズを中心にしていたらしいです。
    だから、裏社会の人間を更正させる行為なのに、本人の自覚が足りなかったのでは?と思う。

    ドラッグ事件を起こさなかったバスケスも同じ管理下だったので、やはり覚悟と自覚の問題です。

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