儚き夢の爪痕/(Claws=爪)クリサント・エスパーニャ

儚き夢の爪痕/(Claws=爪)クリサント・エスパーニャ

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クリサント・エスパーニャはため息をつきながら最後にこう言った。

「私を覚えていてくれてありがとう。」

ベネズエラ人であるクリサント・エスパーニャはアイルランド、ベルファストのイーストウッドジムから世界王者になるという夢を実現した。しかし険しい登山を経て山頂に達した後は頂上からの眺めをゆっくりと楽しむことが出来なかった。

エスパーニャは人生最大の夜を覚えている。

時の王者、五輪金メダリストのメルドリック・テーラーはフリオ・セサール・チャベスとの激闘が記憶に新しい人気者だった。しかしチャベスに敗れてからはその才能に議論の余地はないものの、一階級上のテリー・ノリスに4回KOされ、深刻な衰退の予兆があった。

イーストウッドジムのトレーナー、ジョン・ブリーンはテーラーのWBAのベルトをベルファストに戻すチャンスを得た。

エスパーニャ
「ロンドンのホテルの人たちはあなたは痩せすぎです。勝てるわけがないと言いました。しかし私はテーラーをノックアウトすると言い返しました。なぜなら彼は私を怖がっていたからです。彼は私の目をみて握手することが出来ませんでした。この少年は私を怖がっていると確信しました。」

2-5のアンダードッグだったエスパーニャは正しかった。試合全般を支配し、左アッパーカットでテーラーを8回2分11秒ノックアウトした。

エスパーニャ
「私の人生で最も美しい夜でした。あの夜ほど気分がよかったことはありません。」

ブリーン
「当時のテーラーは人気者でしたが、その夜は力がありませんでした。クリサントは毎日ジムで強さを証明していたので、私にとっては驚きではありませんでした。世界中の誰もクリサントの素晴らしさをしらなかった。よい仕事をしました。」

2度の防衛に成功した後、1994年、フランスのパリで、アイク・クオーティーとの戦いが組まれた。

5年後にオスカー・デラホーヤと歴史的な名勝負を演じることになるクオーティーは無敗のミステリアスなファイターだったが、その時点では情報がなく実力は不透明だった。

クオーティーはエスパーニャに短い統治の終わりを知らせた。11回、雷のようなコンビネーションがエスパーニャのガードを破り、王者は倒された。

エスパーニャ
「つらい夜でした。私はそれまで全勝でしたが、その夜はパワーを感じることができなかった。過去に一度もダウンしたこともありませんでした。何が起こったかわかりませんでした。」

ブリーンは、元マラソン選手でもあったエスパーニャがなぜ衰弱したのかについて疑念を抱いている。

ブリーン
「クリサントは徐々にギアを上げてはいたが、何かがおかしい。全てのシリンダーで発砲していないと感じました。どんどん疲弊して呼吸ができず、パンチに力が入っていなかった。

翌日、フランスからランサローテ島に行く予定でしたが、クリサントに電話しても返事がありませんでした。イーストウッド(ジムオーナー)に連絡すると彼は病院にいると言います。クリサントの体内から何かの薬が検出されたというのです。」

イーストウッド(ジムオーナー)
「彼はその夜戦うべきではなかった。彼は体を壊していた。誰かが彼の食べ物に何かを入れたんだ。」

エスパーニャ陣営は戦いに先立ってフランスのパリを観光し郊外に滞在していた。イーストウッド(ジムオーナー)はビジネスのため、チームを離れる際、外食をしないよう注意した。

イーストウッド(ジムオーナー)
「戻ってくるまで食事はするなと言っていたんだが、私がホテルに戻ってきた時、彼らはこの小さなホテルで食事をしていた。おー、イエスよ、彼らを救いたまえ・・・アウェーで戦う時は食事にも最善の注意をしなければならないのです。」

試合当日、エスパーニャは規則的に何度もトイレに駆け込んだ。リングウォークの時でさえ嘔吐しそうだった。

イーストウッド(ジムオーナー)
「試合をキャンセルしたかった。しかしエスパーニャが拒否したんだ。前半でクオーティーを倒してみせると。そして試合後数日間、クリサントは病気にかかりました。彼は永遠に走ることができるマラソン選手です。あの試合の時に調子が悪いことはわかっていました。後になってフランス人野郎が、フランス語と英語を交えて、「私はすべき事をした」とエスパーニャの食事にクスリを混ぜたことを認めた。」

アイク・クオーティーとの試合で初の敗北だけでなく網膜剥離を患ったエスパーニャはその後もう一度だけ戦い判定勝ちを収めた。

わずか一度の敗北でグローブを吊るし、そのまま故郷に戻り、ベルファストから永遠に去っていった。

故郷のベネズエラ、シウダードボリバルの家族農場でエスパーニャは25人の少年にボクシングを教えている。残念ながら彼の短いキャリアで得たファイトマネーでは生活は成り立たず、人生をリセットする必要があった。14人兄弟を含む大家族で生まれ育ったエスパーニャはボクシングで得たお金の全てを家族に注いだ。

ベネズエラの経済的な不況(世界で最もインフレ率が高い)も重なり、状況は厳しい。

エスパーニャ
「故郷に戻ってきた理由がわかりません。それは大きな間違いでした。私は今幸せではありません。年老いた祖父が私にとってかけがえのない存在だったので会いたかったのかもしれません。しかし、ここの生活は非常に困難です。とても危険で多くの人が殺されました。食料も薬もありません。全てが高すぎます。

私はいつもアイルランド(ベルファスト)に戻りたいと思っていましたが、状況が悪すぎて戻れません。悪い奴らがたくさんいて私は車を盗まれました。

しかしいつかベルファストに戻るだろうとおもいます。お金が高すぎていつになるかはわかりませんが、いつの日かあの時代の友人に会いたいです。みんなの笑顔が忘れられません。それは家族のようでした。

私は多くを失いました。私の人生で最も美しい瞬間、私はアイルランドに住んでいました。」

クリサント・エスパーニャはため息をつきながら最後にこう言った。

「私を覚えていてくれてありがとう。」

WBAウェルター級王者 防衛2
31勝25KO1敗

クリサント・エスパーニャ、誰も知らない世界王者かもしれないが、当時30戦全勝、高いKO率を誇る本格王者の到来を予感させる怪物候補だった。それが25戦無敗とはいえ当時無名のアイク・クオーティーに衝撃的なKOで敗れた試合は、その後のクオーティーの活躍も相まっていつまでも忘れがたき試合、忘れがたき幻の王者と化した。

さながら、今でいえば、エマニュエル・ナバレッテが無名の誰かにKO負けを食らってそのまま引退してしまうくらいのインパクトだろうか。ウェルター級という本格派が集う階級だっただけにその衝撃は今でも鮮烈だ。

その背景にはこんなストーリーがあったようだが、100%信じていいのかどうかはわからない。この記事はアイルランドのニュースである。

当時、ただ強いなぁ、ヤバいなぁと観ていた彼ら、エスパーニャがアイルランドでクオーティーがフランスにいたのには複雑な事情があった。しかし祖国を離れていたからこそ世界挑戦できたと言えるのかもしれない。

かつて、ロレンソ・パーラの記事でも、スペインで戦い続ける(負け続ける)理由を書いたが、ベネズエラは相当深刻な状況のようだ。

そこに住めばエドウィン・バレロのようになってしまいそう。
住まねばホルヘ・リナレスか・・・

「私を覚えていてくれてありがとう。」

一生忘れません。

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プクー

「ボクシング動画配信局」https://box-p4p.comの管理人です。 ボクシングで人生を学びました。

3件のコメントがあります

  1. アバター
    なお

    テーラー戦はテーラーがノリス戦で増量して挑戦した結果、ダメージと出来上がった身体を落とした弊害からか、全盛期を完全に過ぎた状態が勝因だと私は思っていました。

    クウォーティ戦は、エスパーニャが妙に慌てて手数を出していた印象です。

    昔は食事に気をつけないと危険というのは、日本人でさえ普通に言っております。
    かつてカオサイは、アウェイがいろんな危険があるのは、ボクシングのルールだと言い、ムアンチャイは、ボクシングは国家間の戦争と表現しましたが、こういう背景でしょうね。

  2. アバター
    マンダム

    クリサント・エスパーニャ。当時大好きなボクサーでした。自分の中で、もし自分がボクサーだったらの理想像でした。アイク・クオーティに負けた時は、ショックでした。

    1. アバター
      GodChild

      ただの一敗ではなく網膜剥離で引退とは切ない話ですね。全ては運と縁です。

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