青い空の真下/坂本博之

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こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問い詰める
まぶしいほど青い空の真下で

ボクシングには多くの悲しい物語があるが、これは、過酷な環境の中で戦いながらも、ファンだけでなく、同じような環境に置かれた子供たちにも感動を与えてきたファイターの、真実の物語だ。

事実、彼はボクシングを引退した後も、今も人々に感動を与え続けている。

ボクシングには、これまでにも過酷な環境でキャリアを積んできたファイターがたくさんいる。

坂本博之もその一人だ。

坂本は1970年末に生まれたが、幼い頃に両親が離婚し弟と共に捨てられた。親戚の家に預けられたが、兄弟共にひどい虐待を受け、弟が栄養失調で倒れた後は福岡の児童養護施設に入ることになった。

そんな虐待を受けながらも、坂本はテレビで見ていたボクシングに夢中になった。それがきっかけで福岡から上京し、20歳でデビュー。

後に 「和製デュラン 」と呼ばれるようになった坂本は、プロとしての成功をいち早く手に入れた。最初の6戦で6勝0敗(6KO)を記録しただけでなく、その後も、1992年12月に東日本ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、翌年2月には全日本ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞するまでに成長した。

1993年にはリック吉村を相手に日本ライト級王座を獲得。
坂本は24歳、19勝0敗(14KO)、日本では急成長中のスターとしての評判を高めていた。しかし、残念ながら20勝0敗には届かず、元世界王者のフアン・マルティン・コッジに2度キャンバスに叩きつけられ、アルゼンチンのベテランに判定負けを喫して19勝1敗となった。

この敗戦は一時的な後退となったが、坂本は再び調子を取り戻し、年が明ける前にアメリカでジェフ・メイウェザー、ロジャー・ボレロスに勝利してOPBFライト級王座を獲得するなど、さらに2勝を挙げた。

坂本はメイウェザーに勝ったことでコッジに敗れた後の再建に成功し、WBCライト級王者スティーブ・ジョンストンと対戦。当時無敗だった “リル・バット・バッド “には明らかに負けていたが、この試合はスプリットデシジョンだった。スコアカードはレイ・ソリスが坂本有利を記録していたが、日本人ファイターの力不足は明らかだった。

坂本はジョンストンに敗れた後、3連勝して2度目の世界タイトル戦を獲得したが、またしても実力のある王者、セサール・バサンに判定負けを喫した。

坂本の世界王者への望みは薄れたが、炎はまだそこにあった。

バザンに敗れた後、坂本はバート・バドに勝利して立ち直り、限られた相手を相手に勝利を重ねていった。5連勝後、3度目の世界挑戦でベネズエラの強打者ヒルベルト・セラノと対戦。当時WBAライト級王者だったセラノは、数ヶ月前にステファノ・ゾフを倒して王座を獲得、初防衛のために来日した。

40秒ほどお互いを感じ合った後、坂本のパワーはセラノに伝わり、セラノは最初の深刻なショットでダウンした。その後すぐにセラノは再びダウンを喫し、ラウンド終了間際には坂本は悲願を掴みかけていた。しかし、残念ながら坂本はそのラウンドを無傷で終えることができず、目の下にひどい傷を負った。傷は深刻で、5ラウンドで試合は中止となり、無念のドクターストップとなった。

怪我の回復には時間が必要で、再び戦うのは7ヶ月近く先のことだった。セラノは日本に戻り、約1年ぶりにリングに戻ってきた日本人ファイター、畑山隆則にWBA王座を奪われた。セラノを止めた後、畑山は坂本と戦いたいと宣言し、王座への挑戦機会を与えた。

悲しいことに坂本は、畑山との残忍な戦いの果て、10ラウンドでストップされた。坂本の方がパンチが強そうに見えたが、スピードと防御力に欠けており、より軽快な畑山に対応できず敗退した。

坂本と畑山の戦いは、両者にとって最高の終わりを告げるようなものだった。

畑山はその後すぐにタイトルを失い、坂本はその後の4試合で2度ストップされ、2007年にデビュー戦のタイ人とのテクニカルドローを最後に引退。この引き分けは坂本のキャリアの中で唯一のものであり、39勝7敗1分(29KO)でグローブを置くことになった。

ヒーローとしての坂本博之はこれで終わりでもおかしくなかったが、正反対の結果を生んだ。ファイターがもっと多くのことをするための出発点となったのだ。

2010年、坂本は格闘家から経営に転向し、SRSボクシングジムを設立。「坂本ジム」であったはずのものが「スカイハイ・リングス」となり、人の可能性を引き出すことを目的としたジムとなった。自分のことよりも生徒のことを優先した創業者の坂本が考えていたことは他の誰も決してわからなかっただろう。

坂本は畑山と対戦する前の2000年7月にも「青空SRS」(実質的には青空基金)を立ち上げており、これはまだ現役時に立ち上げたものだ。青空基金の目的は、児童養護施設の子どもたちを支援することであり、坂本自身も同じような立場にあった子どもたちに、ボクシングのセッションや講演会などを提供することだった。坂本は、自分と同じような思いをしている子供たちを支援したいと考えていたのだ。

2017年には、坂本の素晴らしい活動と支援が認められ、HERO’S賞「HEROs SPORTSMANSHIP for THE FUTURE」を受賞。孤児院の子どもたちに関わる負の連鎖を断ち切るために、年間40~50か所の孤児院を訪問することを表明している。

基金の基本理念はシンプルで、「すべての子どもは平等である」ということ。

世界チャンピオンになるという坂本の夢は遂に実現しなかったが、子どもたちを支援するという自らが築いた遺産は、たとえ個人的な悲願の世界タイトルを獲得したとしても、それより遥かに長く生き続けることだろう。

個人的にはもっと古く、辰吉世代だったので

坂本の新人時代の躍進の頃はややボクシングから距離を置いていた。

観ても辰吉のような異能の天才ではない、努力型のアジアンボクシングだと感じた。つまり、世界王者になる選手ではないと。

骨太で全KOスタイルの迫力、試合毎にスキルも向上していく坂本は、自身の生い立ち、ストーリーと相まって当時の日本ボクシングファンの心を鷲掴みにした。

しかし坂本の階級は日本のお家芸「最軽量級」ではなく歴史と伝統のライト級だった。

東洋無敵、和製デュラン、和製タイソンのような強打者坂本でも、コッジのパワーに屈し、ジョンストンの柔軟さ、バサンの屈強、難解さには通じなかった。

3度目の世界戦、ヒルベルト・セラノ戦こそ、最も世界に近づいた、記録ではなく記憶では世界王者になっていた試合だった。初回で9割が世界王者を確信しただろう。

しかし不気味で異様に深い傷を負ってしまった。
あの傷ではストップは仕方ないが、続けていたらノックアウトで世界ライト級王者、坂本博之が誕生していたかもしれない。

畑山との歴史に残る死闘を経て、満身創痍の壊れたファイターとなり引退したが、その人気、魂はそのままに、タイガーマスクの伊達直人を地で行く第二の人生の活躍をみせている。

坂本博之だから、彼でしか出来ない事だ。

タイトルはいつもそうだが、書きながら、「青空基金」でこの歌を思い出し、歌詞を読み返してみるとまるで坂本博之そのままの歌のように感じたので拝借した。

コッジ戦でダウンはしたが、畑山戦ではじめて、不屈、不倒の男が堕ちた瞬間をみた気がする。畑山隆則は2階級で世界王者になった。坂本博之は遂に一度も世界に届かなかった。

これがボクシングなのだ。どんなに逆境でハングリーで才能があっても、映画のようなサクセスストーリーが待っているわけではない。「あしたのジョー」は感傷的なフィクションに過ぎない。

ボクシングファンにとって世界王者ではなくとも永遠に忘れられない魂を揺さぶる最高のファイターだった。

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