プロボクシングはファイターを闘鶏や闘犬のように扱うダーティービジネスだ。
これが、フィデル・カストロ時代から続くキューバのプロボクシングに対する観念だ。
キューバ出身の世界的名トレーナーペドロ・ディアスをして最高傑作と言わしめたエクトール・ビネントは、キューバ史上、世界史上初のオリンピック4大会連続金メダルを狙える逸材であるといわれたが、表向きには網膜剥離手術のために2000年に引退とされている。しかし事実は異なるようだ。とても気になるボクサーなので真相を追った。
ペドロ・ディアス
[st-card id=74657 ]私にとってはありとあらゆる面で完成されたボクサーでした。
彼と仕事が出来た事は私の大きな誇りです。ピークの時はキューバ史上(オールタイムで)最も完成度の高いファイターと言われていました。テオフィロ・ステベンソンやアンヘル・エスピノサやアドルフォ・ホルタらを入れてもです。ユース世界選手権、2度のオリンピック、2度の世界選手権など数えきれないほど金メダルを獲得してきました。彼はありえないほどのボクシングの傑作でした。テクニック、スピード、パワー、全てを完璧にマスターしていた。勝ち方を熟知しており、どんな試合でも楽しみながら金メダルをとっていた。プロのリングで彼をみてみたかった。
オリンピック、ライトウェルター級で2大会連続金メダルを獲得したエクトール・ビネントは、シドニーで3度目、アテネで4度目の金メダルを狙う若さと才能を確実に持っていた。
6回のナショナルチャンピオン、2回のAIBAワールドチャンピオン、オリンピック2度の金メダリストはラファエル・トレホジムで子供達にボクシングを教えている。プロで有名なフェルナンド・バルガスやシェーン・モズリーに勝った時の話などを話すビネントは社交的でフレンドリーな人物だが最盛期は桁外れに優れたファイターだった。
キューバはとても美しく穏やかな場所だが、悲しい物語も多く抱えている。エクトールが3個目、4個目のオリンピック金メダルを獲得できなかった背後にある物語も最も悲劇的なもののひとつだ。
キューバには島の東と西で地域的な対立があり、首都のハバナが西の中心地であるのに対し、ビネントの故郷、サンチャゴは東のシンボルだ。東を代表するトップアマチュアの一人としてビネントはグアンタナモのホエル・カサマヨールらと世界中を旅してきた。
ビネントとカサマヨールはキューバのアマチュアシステムの元でランクを上昇しながら親友になり、1992年、バルセロナオリンピックで共に金メダルに輝いた。ビネントによると1996年のアトランタオリンピックに向けて数週間前のグアダラハラでのトレーニングキャンプ中の夜にカサマヨールが彼の部屋に来て脱走して米国に亡命しようと話を持ちかけてきた。ビネントは一緒に行くことも考えたが、恐怖のあまりその申し出を辞退した。彼にはキューバの自宅に妻と幼い娘、大家族がおり、決断を下す時間がなかった。断腸の思いでカサマヨールに行かないでくれと頼んだ。
カサマヨールはビネントに別れを告げ、その後プロで成功を収めた。ビネントは数週間後のアトランタオリンピックで2大会連続金メダルを獲得した。
悲しみのストラテジー/ホエル・カサマヨール金メダルを獲得しキューバに帰国したビネントは、再びトレーニングと試合の日々の生活に戻ると考えていたが、キューバボクシング連盟の上層部に呼び出された。カサマヨールとの親交により、亡命の危険分子とみなされたビネントに国際大会への出場停止、飛行機搭乗禁止命令が出された。
ビネントはゆっくりとキューバアマチュアシステムのプログラムから除外され、最終的には代表チームとのトレーニングも禁止された。多くの功績を残したファイターがナショナルチームの要職になっていく中、ビネントはナショナルチームに接触する機会も禁止された。
ビネントに残されたのは、ラファエル・トレホジムでティーンエイジャーにボクシングを教えることだけだった。
陽気にふるまっているビネントの心の奥には深い傷が残っている。もしカサマヨールの申し出を受けていたら彼の人生はどれほど変わっていただろうかとおもうと彼の心の傷は決して癒えることはない。
プロボクシングはファイターを闘鶏や闘犬のように扱うダーティービジネスだ。
ホエル・カサマヨールやユリオルキス・ガンボア(らの成功者だけでなく)プロには10人ものラモン・ガーベイ(プロで大成しなかったキューバのトップアマ)もいる。それでも、例えプロで失敗したとしても、ビネントがキューバで受けた過酷な仕打ちほど悲劇的なものにはならなかったはずだ。
ビネントを除外したキューバ代表は
シドニーオリンピックでディオゲネス・ルナが銅メダル
アテネオリンピックでユデル・ジョンソンが銀メダル
北京オリンピックでロニエル・イグレシアスが銅メダル
金メダルを逃し続けた。