ウィルフレド・ベニテス(Wilfred Benitez、男性、1958年9月12日 - )は、プエルトリコの元プロボクサー。アメリカ合衆国ニューヨーク州生まれ。史上最年少(17歳6か月)で世界王座を獲得した、早熟の天才として知られる。スーパーライト級、ウェルター級、スーパーウェルター級で3階級制覇を成し遂げた。
幼少期に父から厳しい練習を課された反動からプロ入りの時点ではすっかり練習嫌いとなったことでも知られ、1979年のレナード戦は試合前1週間の練習だけで調整したという。それが祟り被弾しKO負けすることが多くなり、キャリア晩年に差し掛かってから重度のパンチドランカーの症状に悩まされた。引退した今でも時折メディアに姿を現すものの廃人同然の彼は一人でまともに生活できないどころか自分を認識できない心神喪失状態にあり、姉の介護を受けながら静かに暮らす姿が伝えられている。
1986年 ホームレス
アルゼンチンのサルタ通りを、一人の精神病のホームレスがお金を求めて人々に手を振りながら彷徨っていた。地元の人々は(高速道路工事で疲れ切って倒れた労働者のような)この汚い栄養失調の男がボクシングの王族であることなど知る由もなかった。
ウィルフレド・ベニテス、17歳にして世界王者となり、シュガー・レイ・レナードやロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ、カルロス・パロミノなどと死闘を繰り広げてきた3階級制覇の早熟の天才は、プエルトリコで医学的な出場停止処分を受けていたが、わずかなファイトマネーを求めてアルゼンチンまでやってきた。
頭部への打撃による後遺症によってCTE(慢性外傷性脳症)に苦しむ未来の殿堂入り王者は、試合前のメディカル検査で失格していたが、どういうわけか試合は組まれた。予想通りにノックアウト負けしたベニテスのプロモーターはパスポートを盗み、ファイトマネーも払わず逃げた。試合で受けた傷に加えて屈辱も味わったベニテスはこうしてサリタの街を彷徨うことになった。
出国するための身分証明書を失ったベニテスは、プエルトリコ政府が国民的英雄の行方を捜して彼を救い出すまで、貧しく、霧がかったサリタの路上で何年も過ごした。
アルゼンチンでの経験は、ボクシングがベニテスを見捨てた最初の出来事だったが、それで終わりではなかった。
衝撃的なことに、アルゼンチンでの不幸から4年の歳月を経て、明らかに脳に障害を抱えたベニテスは安いファイトマネーを求めてリングに戻り無意味な試合を4度行った。もう被害は決定的なものになった。過去50年で最も偉大で鋭く魅力的なファイターは完全に壊れた。
2017年 ファイティングポーズ
58歳になったウィルフレド・ベニテスは、永遠の霧に住んでいる。ほぼ盲目で、立つことも出来ず、心も消えた。数年前に糖尿病と脳卒中の合併症が起き、事態はさらに深刻になった。戦術的な天才ファイターとして世界を旅した男はいなくなった。
彼が全盛期に稼いだ800万ドルの全てが失われた。
ウィルフレドがこんな悲惨な状態に陥った原因の一つに、亡き父でありビジネスマネージャーのグレゴリオ(生来の夢想家にしてギャンブル狂)を挙げる人もいる。ベニテス自身に責任があると言う人もいる。彼は練習をサボり贅沢に散財した。いずれにせよ、お金はずっと以前に、ウィルフレッドが最もそれを必要とした時には消えていた。
現在、プエルトリコ政府が提供する公的援助とWBCから毎月送られる奨学金で生活しているベニテスは24時間体制の介護を必要としており、姉のイボンヌが世話をしている。
最愛の母クララは職業看護師として、母親として、献身的にベニテスを支え見守ったが、2008年に亡くなった。ボクシングの打撃によるCTE(慢性外傷性脳症)は進行しており、彼はセーフティーネットのギリギリの淵で悲劇を彷徨っている。家族は食料を買うために、金属屋根の一部をスクラップに売った。
しかし、彼はまだそこにいる。自分自身を遮断している心の奥深くに埋もれて、ベニテスはボクシングが彼の一部であることを明確に伝えている。車椅子に座り、揺れたりしながら、ディフェンスポーズをすることもある。2012年、ヘクター・カマチョの葬儀で、ベニテスは車椅子から立ち上がって仲間の殿堂の前でファイティングポーズをして出席者全員に衝撃を与えた。
ウィルフレド・ベニテスからファイターの炎を消し去ることは出来ない。彼はロベルト・デュランを手なずけた男だ。数々のドラマチックなファイトによって定義された男は、負ける運命にある戦いでさえも食い止めることはできない。
ボクシングはウィルフレド・ベニテスの一部であり、彼はボクシングから去っていない。しかし悲しいことにボクシングはウィルフレド・ベニテスのほとんど全てを捨てた。スポーツの至るところに、サポートと認識(現実を知ってもらうこと)のポケットは散らばっているが、ボクシング界は遅れている。ベニテスから遠く離れている。殿堂入りの週末の撮影でファイティングポーズをとれないチャンピオンや、リングサイドでサインも書けないチャンピオンはすぐに忘れ去られてしまう。多くのファンはファイターが払う犠牲の世界の暗い側面を観ないことを好む。
ファンはヒロイズムに支払う代価があることを望んでいない。
WBA世界スーパーライト級王座(防衛2度)
WBC世界ウェルター級王座(防衛1度)
WBC世界スーパーウェルター級王座(防衛2度)
リアルタイムのウィルフレド・ベニテスを観てきた世代ではないが、映像をみて、この男が一番だなと感じていた。レナードやハーンズを含めても一番才能があった。特に天性のディフェンス。しかし早熟の天才はお金、栄光を掴むと練習をサボり始めた。
キャリアをなぞると、もう晩年負けが込んだ1986年に確かに突如アルゼンチンで試合を行いTKOで敗れている。そこからこの記事がはじまる事になるが、ずっとアルゼンチンでホームレスをしていた。遂に救出された4年後、お金に困り4試合。これが決定的な致命傷となったのだろう。どうしてこんな事がまかり通ったのだろうか。悔やまれる。
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