ナザロフの眼は益々悪化し痛みは激しさを増した。試合後、網膜が3か所裂けていることがわかった。左目は全盲になっていた。
伝説のキルギスタンボクサー、オルズベック・ナザロフは旧ソビエト連邦で最初にプロの世界王者になった男の一人だ。優秀なアマチュアだった彼はソビエトのプロボクサーの先駆者として日本で戦う機会を得た。
6年間日本に住んだが上手く馴染めなかった。外見が似ているという理由で1970年代から80年代にかけて日本を代表する世界王者だった具志堅用髙にちなんだ「グッシー」というニックネームをつけられた。
南アフリカで世界王座を獲得した後、圧倒的に強い彼はその後約5年間、支配的な王者として君臨し続けたが、プロのリングでビッグネームと戦うことが出来なかった。目の怪我のため、彼の大きな可能性はボクシングの歴史にその名を刻むことがなかった。
志半ばで終わったキャリアの後、ナザロフは故郷に戻り、社会奉仕や政治活動に従事した。
1966年8月30日、オルズベックナザロフはキルギス北部のビシュケクから20キロ離れたチュイ州の小さな町カントで生まれた。前世紀に軍事基地があった町として知られている場所だ。
国籍でいうとナザロフはウズベク人でキルギスタンの人口の多くを占めている。父はバスの運転手で5人兄弟だった。スポーツクラブが3つしかない小さな町でナザロフはサッカーとバスケットボールをしていたが、最終的にボクシングを選んだ。
10歳の時に読んだ、オリンピックチャンピオン、ヴァレリー・ポペンチェンコの本に影響されたのだ。11年の歳月をかけてナザロフはボクシングに青春の情熱を注いだ。
アマチュア時代、ナザロフの唯一のコーチだったゲナディ・ナザロフ・アノプリエフは少年ナザロフに生まれ持った才能を見出した。ボディへの破壊的なパンチは幼いころから突出していた。左利きであることも強みとなった。地獄のレバーブローを武器にライバル達を次々に倒していった。
2度のソビエトジュニアチャンピオン、3度の成人チャンピオンとなり、1988年の決勝では若きコンスタンチン・ジューを破った。
1986年の世界選手権では銅メダルを獲得したが、準決勝で2-3で負けたキューバのアドルフォ・オルタ(キューバ史上最高峰の声もある選手)戦は物議を醸すものだった。
翌年、ナザロフは欧州選手権で優勝し、60キロカテゴリで世界一位となっただけでなく大会MVPに輝いた。ナザロフはソウルオリンピックを目指していたが、1988年は悲運の年となった。急性虫垂炎(盲腸)の手術を受けオリンピックを棒に振った。そして1989年、フルンゼ (サハ共和国) で行われた全国大会決勝でコンスタンチン・ジューとの再戦に敗れ、代表チームの称号を失った。ボクシングの政治に狂わされた時でもあった。
時を同じくしてペレストロイカの一環でソビエトのアスリートにプロ化の道が開け、当時23歳のナザロフは、他のロシアのトップアマチュアらと日本でプロとして腕を試すことに決めた。中央アジア人であるナザロフはアジアで暮らし働く方が合っていると考えた。
しかし、ソビエトからやってきた彼らにとって日本での生活は困難を極めた。受け入れ先である協栄ジムの金平正紀は、彼らを金を稼ぐための道具に過ぎないと考えていた。彼らは寮に住み、最低限の環境と賃金しか与えられなかった。
日本語がわからない彼らの困難はさらに増えた。日本人コーチと意思疎通がとれないのだ。その結果、ソビエトのレニングラードからアレクサンダー・ジミンコーチを招聘しプロスタイルに取り組んでいった。彼らは勝ち続けたが、重量級の選手は対戦相手探しの問題を抱え帰国せざるをえなかった。日本にまともなヘビー級選手を呼ぶにはお金がかかり過ぎた。
結果、より軽いユーリ・アルバチャコフとオルズベック・ナザロフだけが世界王者になることができた。約4年の歳月をかけアジアで無敵を誇ったナザロフは1993年10月、時の王者ディンガン・トベラに挑むため遠く南アフリカまで遠征した。
同行したアレクサンダー・ジミンによると、南アフリカの試合では地元の観客が狂乱しネルソン・マンデラさえ観戦に来ていたという。3回までナザロフがトベラを痛めつけたが、4回にトベラの狂暴な反撃にあい、左でダウンを喫してしまう。その後ナザロフは慎重に試合を立て直し、徐々にトベラを解体していった。
アマチュア時代を想い出して「足で勝つ」ことに徹した。片目が腫れてほぼ見えなくなったが、10回にはトベラからダウンを奪い返し、アウェーでもどうすることも出来ない差をつけ勝利した。
キルギスタン初の(そして恐らく唯一の)世界王者が誕生した。
トベラは再戦を要求したが、南アフリカ人にとって再戦はさらなる悪夢となった。最後まで倒れないことだけが精いっぱいだった。ナザロフは7回にトベラを倒し、ほぼシャットアウトで返り討ちにした。
この時点で唯一ナザロフの不安材料といえば、左目の網膜を剥離していたことだった。レーザー手術の成功を受けてナザロフはファイトを続けることができた。
世界王者となったナザロフに遂にアメリカを征服する時が訪れた。メイン州ポートランドで、ジョーイ・ガマチェ相手に防衛戦。これに勝って知名度のあるアメリカの王者と統一戦を計画していた。わずか2回でガマチェを破壊。初回でガマチェは鼻を骨折し、2回3度倒してフィニッシュ。あまりの強さにアメリカ中が震撼した。
アメリカ人はそのような敵に対して静観を決め、決してナザロフの名前を口にしなくなった。対戦相手のいないナザロフは再び日本に戻り、3度防衛した。
もはやその程度のレベルにナザロフの敵はおらず、世界的なスターであるオスカー・デラホーヤ、シェーン・モズリー、スティーブ・ジョンストンのような相手と戦いたかったが、日本人は彼ら大物と交渉することが出来なかった。
海外出身の「輸入ボクサー」であるが故、同時期の国内の現役世界王者と比べて知名度は格段に低かった。そのため、試合でも観衆をあまり多く集められず、ファイトマネーも安い状態だった。こうした背景から、1996年4月15日の5度目の防衛成功後は試合すら出来ない状況に陥り、協栄ジムと交渉の末、同年12月、同ジムを離れフランスに拠点を移すことを正式に決定した。
1997年5月10日、フランス移籍初戦。1年1か月ぶりの試合であったが、長期間のブランクを感じさせず強豪のレバンダー・ジョンソンに7回TKO勝ち。6度目の王座防衛に成功。
1997年10月、アルゼンチンのオスカー・ナタリオ・ロペスをノックアウトしたが、1か月後に悲劇に見舞われた。
アルマトイで、アマチュア時代からの友人であったカザフスタン人のセリクコ・ナクバエバとヴィクトル・デミネンコと会っていた時に銃撃を受け、2人は死にナザロフだけ生き残った。銃弾で肩を打たれたが骨をすり抜け大事には至らなかった。この事件はナザロフの心に重い十字架を背負わせた。
ナザロフは彼らが巻き込まれた事件に全く関与していなかった。友人の犯罪、借金が発端のようだった。半年後ナザロフはリングに戻ってチューンナップを行った。(フレディ・クルスにTKO勝ち)
1998年5月16日、7度目の防衛戦。ジャン・バチスト・メンディ(フランス)と対戦。試合前はナザロフ圧倒的有利の声が多く、試合の焦点はメンディが早い回で捕まるか12回生き延びるかだけだった。
序盤から残忍なナザロフの攻勢が続いた。しかし3ラウンドに事故が起きた。メンディのジャブで親指が左目に刺さった。ナザロフはこの試合に向けたトレーニング中も既にトラウマとなっていた眼に異常を感じていた事を後に告白している。そしてメンディはこの傷を悪化させ網膜剥離が再発した。
この時点でセコンドのジミンに告白し棄権していればナザロフの眼はまだ救いの余地があったかもしれない。しかしナザロフは黙って最後まで戦うことに決めた。
ナザロフの眼は益々悪化し痛みは激しさを増した。試合後、網膜が3か所裂けていることがわかった。左目は全盲になっていた。
激しい痛みでショック状態になったナザロフは攻撃の手を緩め何も知らないメンディを捌くしかなかった。3回以降受け身で消極的なファイトに終始したナザロフは判定で王座を失った。
しかし今、ナザロフは試合を振り返り、あと1分あればメンディをノックアウトできたと主張している。戦いの舞台はフランスで、彼のプロモーター、アカリエ兄弟もフランス人、メンディもフランス人だった。判定ではどうしようもなかった。
キャリア唯一の悲運な敗北を受けてナザロフは引退を決め故郷に戻った。志半ばの失意にも関わらず、ナザロフは地元でビジネスを積極的に推し進めた。実業家、官僚となり、スポーツクラブの設立や財団、企業と関わって社会活動に献身的に奉仕した。2007年12月、キルギス共和国の副議長に選出された。
頻繁に起きる暴動、不安定な政治状況にも関わらず、ナザロフ(本名、オルズベック・クピュレトビッチ)は庶民に愛されている。彼の第二、アマチュアから数えて第三の人生は順調だ。妻アンナ、3人の娘に囲まれて幸せに暮らしている。
2008年8月30日には、ビシュケクの中心部にナザロフ個人のボクシングジムをオープンさせた。ジム開きの日には、ソウルオリンピック金メダリストで日本で共に暮らしたヴャチェスラフ・ヤノフスキー、アンドレイ・カーニャフカ、アレクサンダー・ジミンらが祝福に訪れた。
ナザロフによればこれはキルギスタンのボクシングの発展に向けた最初の一歩に過ぎないと言う。数年以内に彼のジムから世界選手権やオリンピックで活躍するファイターを育成することを目指している。
ここまで成し遂げて、ナザロフの失われた左目の視力も50%回復したという。
ナザロフ
「2人が世界王者になっているので我がチームは、成功をとげたと自認しています。これは私の哲学ですが、男にとって幸せとは、好きな仕事とそれに見合った給料があること。そして愛すべき家族がいること。社会主義的かもしれませんが、日本はこの理想をものにできる国でした。協栄ジムの皆さんを始め、日本の人にはお世話になりましたが、やはり忘れられないのはコーチであり、一緒にソ連から訪日したジミン・アレクサンドルですね。精神面からの恩師でした。私は日本を愛しています。どうか私のことを覚えていてください」アマ:175戦153勝(80RSC)12敗
プロ:27戦26勝(19KO)1敗
自分が忘れないために発掘しました。
当時の状況を考えたらユーリもナザロフもヤノフスキーも日本行きがベストであり、それしか選択肢がなかったのだろうが、色々と不十分でした。
コンスタンチン・ジューやビッグ・ダルチニアンは、シドニー・オリンピックをきっかけにそのままシドニーに住み着いたような感じですが彼らの方が時代が少し後だったから、全ての待遇、環境がよかった気がしてならない。
日本では楽勝続きで迎えた世界戦、遠く南アフリカで戦ったディンガン・トベラ、彼は後にミドル級で王者になるが、ナザロフの圧勝ではあっても目をかなり腫らしていた。いきなり相手レベルが上がり、世界のベルトの代償に網膜剥離になったのだろう。これがナザロフ唯一の敵となった。
ヴャチェスラフ・ヤノフスキー
アメリカやキューバが席巻していた時代のソウルオリンピック金メダリスト
彼がベラルーシ人だった事をご存知か。
オルズベック・ナザロフ
4年半も王者だった事を知らなかった。
銃撃事件を知らなかった。
オスカー・デラホーヤに負けないくらい、私の中ではそれ以上に強かった。