ファイターが一夜にして老化するのを聞いたことがありますか?それが私でした。リングで自分は何をしているんだろうとおもいました。そして試合後に引退を決めました。
https://www.youtube.com/watch?v=mHsv2SCPt2s
ホセ(ギャビー)カニザレスをはじめてみたのは国内タイトルマッチの前座だった。バンタム級のソニー・リストンを見つけた衝撃を受けた。
ギャビー
「私はテキサス州ラレドで生まれ育ちました。4人兄弟のやんちゃ坊主でした。祖父がボクサーだったようですがよく知りません。プロではなかったようです。テレビでみたカルロス・モンソン、モハメド・アリ、ロベルト・デュラン、アレクシス・アルゲリョに夢中になりボクシングを始めました。2人の兄がすでにアマチュアボクサーをしていて、10歳くらいの時にラレドボーイズクラブでボクシングを始めました。しかし15歳までは真剣にボクシングをしていませんでした。」
ギャビーは決して優秀なアマチュアではなかった。エリートに勝つこともあれば、凡庸な選手に負けることもあり、いつもウォーミングアップ中に戦いは終わったという。
19歳でギャビーはメキシコでプロになった。
ギャビー
「アマチュア向きではなかった。プロこそ自分に合っていました。4ラウンドではなく6ラウンド制だったのでメキシコでプロになりました。私は長いラウンド戦いたかった。」10戦目でマリオ・ナバに負けるまでギャビーは9連続ノックアウトを記録した。
ギャビー
「ナバは経験豊富でとても厄介なスタイルでした。トリッキーで難しい選手でした。しかし10回戦えていい経験になりました。」初黒星を喫したギャビーだが、その後は高いKO率で連勝を重ねた。81年9月には未来の世界挑戦者であるフランシスコ(キコ)ベジンズをノックアウトした記録があるが、記録が今では変更されている。
ギャビー
「私がノックアウトしたのはキコ・ベジンズではなかったのです。よく似た名前の別人でした。」マリオ・ナバとの再戦をクリアし、USBAタイトルなどを獲得
1983年3月13日、25戦目でWBA世界バンタム級王者ジェフ・チャンドラーと対戦し15回0-3(140-148、140-147、141-145)の判定負けで王座獲得に失敗。
衝撃のJJ/(Joltin=驚異)ジェフ・チャンドラーギャビー
「突然のチャンスだったので断る理由はなかったけど、少し経験が足りなかった。チャンドラーは偉大な王者でした。」https://www.youtube.com/watch?v=nnCjeCZ_Zfw
その後、USBAタイトルに戻って防衛を続け、1984年8月25日、後のIBF世界バンタム級王者ケルビン・シーブルックスと対戦し12回判定勝ちで4度目の防衛に成功した。
ギャビー
「とてもタフな試合でした。シーブルックスは強かったです。私のキャリアで一番傷ついた時間でした。左フックで完全に平衡感覚を失いました。シーブルックスはナイスガイじゃなかった。(笑)」1986年3月10日、シーザース・パレスでWBA世界バンタム級王者リチャード・サンドバルと対戦し7回2分56秒TKO勝ちで王座獲得に成功。
https://www.youtube.com/watch?v=ixQvv2_VIxw
ギャビー
「その夜、私は人生で最高のコンディションでした。弟のオーランドとたくさんスパーリングしました。あまり深く考えず自然体で戦いました。何度も彼をダウンさせましたが、レフリーはもっと早く試合をストップすべきでした。」その試合で29戦全勝、将来を嘱望されたサンドバルは心肺停止状態となりただちに病院に搬送され、脳手術が行われた。数日間の危篤状態から目覚めたサンドバルは奇跡的に一命をとりとめるもボクシングのキャリアは突如終わりを遂げた。
禁じられた黄金/リッチー・サンドバルギャビー
「それは悲惨な光景でした。私はアドレナリンが出ていた状態でした。病院に行って彼を見舞いたかったけど、彼の家族がどんな反応を示すかわからずスタッフが止めました。後に両親が彼のもとを訪ねました。」1986年6月4日、ベルナルド・ビニャゴと対戦し15回0-3(142-146、144-148、138-147)の判定負けで初防衛に失敗し王座から陥落。
ギャビー
「彼の映像をみて簡単な相手だと油断してしまいました。彼は強かったが私に問題がありました。」その後、後の世界王者、ラウル(ヒバロ)ペレス、ケニー・ミッチェル、グレグ・リチャードソンらに僅差で敗れるも戦い続けた。
ギャビー
「私のベストは116ポンドくらいで、120ポンドくらいの試合、相手になると長い夜を想定せねばなりませんでした。コンディションが悪かった時以外は本当に負けたとはおもわなかったけど、長身のボクサーは苦手だったかもしれません。」1991年3月12日、イスラエル・コントレラスの王座返上に伴うWBO世界バンタム級王座決定戦でミゲル・ロラと対戦し2回1分57秒KO勝ちでWBAに続く王座獲得に成功。
https://www.youtube.com/watch?v=TQIGfewBf5Y
ギャビー
「ロラは素晴らしいファイターでした。私は2回にダウンしました。しかし深刻に傷ついたシーブルックスの時のような状態ではありませんでした。ロラは私が効いている、ノックアウトのチャンスと勘違いしたんでしょう。一気に仕留めにきました。私はロープにもたれてカモに餌を撒き、ショートフックを狙い撃ちしました。ロラを倒し返したけど私はロラと違って冷静でした。自分のショットを選んで試合を終わらせました。」この偉業により、弟のオーランドと兄弟同時世界王者に輝いた。兄弟対決が期待されたが、彼らは頑なに拒否した。
1991年6月30日、ロンドンのエレファント・アンド・カステル・センターでデューク・マッケンジーと対戦し12回0-3(109-120、2者が108-120)の判定負けで初防衛に失敗し王座から陥落。この試合を最後に現役を引退した。
https://www.youtube.com/watch?v=OiXL3f1iG_c
ギャビー
「父親に戻る時間だったようです。ファイターが一夜にして老化するのを聞いたことがありますか?それが私でした。リングで自分は何をしているんだろうとおもいました。そして試合後に引退を決めました。」ギャビーは引退後、家族に囲まれながら、病院や公共機関でカウンセラーとして働いている。世界王者に2度輝いたが決してお金には恵まれなかった。
ギャビー
「タイトルを獲得するより防衛を続けることで稼ぐことができるのでしょう。ベルナルド・ビニャゴ戦の10万ドルというギャラが最高でした。けれど私にとってお金は二次的なものでした。世界チャンピオンになることが究極の目標でした。母と約束したのです。そして私はその約束を守りました。」ホセ(ギャビー)カニザレスは意外性のあるファイターだった。ホワイトカラーで優しい口調の父親、PTAの役員みたいな外見をしているが、1980年代にバンタム級で大暴れした破壊的なファイターだった。外見は人を欺くことができる。母親との約束を果たし、9人以上の世界チャンピオン、何人ものコンテンダーと真っ向から勝負してきた男は、もっと評価されるべき偉大なチャンピオンだった。
48勝36KO8敗1分
獲得タイトル
USBA全米バンタム級王座
WBA世界バンタム級王座(防衛0度)
アリゾナ州バンタム級王座
WBO世界バンタム級王座(防衛0度)
もうひとりの黄金・ミスターバンタム/オルランド・カニザレス
バンタム級の防衛記録を持つ弟のオルランド・カニザレスの歴史的評価が高いが、過去の映像をみて強いなと感じたのが兄のギャビー、ギャビーはニックネームでホセだった。
世間が井上尚弥フィーバーになると冷めてしまうのが悲しいマニアの性である。誰にも読まれないレジェンドシリーズを書きながら学ぶ中で、マイベストなバンタム級はもちろん井上尚弥であり、ノニト・ドネアなのだが、私にとってはジェフ・チャンドラーや短命に終わったミゲル(ハッピー)ロラが最高である。
ここにしか咲かない花/(ハッピー)ミゲル・ロラ
彼が私にとっての黄金のバンタムだ。
そんなロラの一瞬の隙をついて逆転ノックアウトで戴冠したのがギャビー・カニザレスだった。
レジェンドのオルランドより破壊的パンチャーだ。8敗のうち、KO負けはラウル(ヒバロ)ペレスに一度だけ。それもカットによるストップだからタフネスも折り紙付きだった。それでも弟のように安定して防衛できないのが運のなさというか不足しているところでもあり、キュートなところでもある。
てんかんの発作で突然引退となったカオコー・ギャラクシーも案外カオサイに負けない実力者だったのではないか。戦った相手がカオサイより明らかに強かっただけかもしれない・・・
なんて、遠いバンタムの日々を夢想して過ごす日々・・・
ギャビーはたぶん、キュートな愛称だとおもうが、古い意味では(ばか、間抜け)というニュアンスもあるそうです。ギャビーはやればできる兄、もっと活躍できるKOアーティストだったとおもう。
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