クレイジーアイリッシュマン/(ポケットロケット)ウェイン・マッカラー

最高の勝利、栄光の頂点のすぐ後に闇が待っているのがボクシング。辰吉との日本史上の究極決戦に勝った薬師寺保栄は長くその栄光を持続させることはできなかった。この指名挑戦者を迎えると聞いた時に多くの日本人識者も、薬師寺危うしとおもっていたに違いない。

ウェイン・マッカラーはアイルランドで最も成功したボクサーの一人であり、その驚くべき運動量から「ポケットロケット」と呼ばれた。また、彼は頑丈なアゴの持ち主としても知られ、キャリアで一度もダウンしなかった。

308勝11敗という驚異的なアマチュア記録を誇り、1992年、アイルランド代表としてバルセロナオリンピックボクシングバンタム級に出場。決勝でキューバのホエール・カサマヨールに敗戦し、銀メダルを獲得した。

オリンピックが終わって半年、マッカラーは頬骨を3か所骨折していたために半年間ボクシングができなかった。今ではマッカラーは鼻の左側の感覚がない。多くのプロへの誘いの中から、シュガー・レイ・レナードのコーチ、ジャンクス・モートンのところに行く予定だったが、マッカラーのオリンピックのパフォーマンスが巨匠トレーナーエディ・ファッチの目に留まった。

エディ・ファッチはリディック・ボウやマイク・マッカラムの指導をしていたが、もう新たなファイターと仕事をしなかった。既に82歳だったからだ。オリンピックのマッカラーのパフォーマンスを見たエディ・ファッチは「この子はいいね、世界チャンピオンになるだろう」と言った。

マッカラー
「エディ・ファッチが私のトレーナーのような存在になりました。彼がトレーナーであることを誇りに思いました。ファッチはボクシングの百科事典でした。何百時間も彼と話した。ジョー・ルイスとスパーリングした時の話なんかも楽しく聞きました。」

相乗効果を得てマッカラーはプロのランキングを急速に上げていった。

マッカラー
「エディに従ってキャリアを進めました。全ての試合が学びの連続でした。試合毎にエディが与えた課題をクリアしていきました。私は最初の12試合で1人を除いて全てノックアウトしました。試合毎にテーマを持って戦わせてくれたので色々な事を吸収しました。」

13戦目にビクトル・ラバナレスを選んだ時、この試合がマッカラーを決定づける試合になるとエディ・ファッチはわかっていた。

マッカラー
「試合後妻に言いました。世界王者になるよ、ラバナレスというのは世界王者と同じくらいタフな男だ。本当のプロボクシングというのはこんなにもタフなスポーツなんだ。」

それから4試合後、ベルファスト生まれのマッカラーは日本に行き、WBCバンタム級王者の薬師寺保栄をスプリットの判定で破り世界王者に輝いた。イギリス、またはアイルランドのファイターが日本で世界王座を奪ったのはこれがはじめての事だった。マッカラーはこの時の想い出が最も誇りに思う瞬間だと振り返る。

https://www.youtube.com/watch?v=wk89whwHJZE
めいん、えべんと~

マッカラー
「みんなはオリンピックの功績を称えるけれど、私はこの時の王座奪取を一番の誇りにおもう。日本に行って王者の薬師寺の地元でベルトを奪った。予想でも不利と言われる試合に勝ったんだ。」

2月2日の初防衛戦ではベルファストのキングスホールで元WBO世界スーパーフライ級王者ジョニー・ブレダル(デンマーク)と対戦し、8回1分55秒TKO勝ちを収め、続く1996年3月30日の2度目の防衛戦ではアイルランド・ダブリンのザ・ポイントで元WBC世界スーパーフライ級王者ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)と対戦し、2-1(118-114、116-112、113-116)の判定勝ちを収めた。

ブエノ戦は減量苦もあり、とても苦しい戦いを強いられた。

マッカラー
「餓死するほどの減量でした。歩くのがやっとで目を開けることもできない。計量後は一気に15ポンド増えました。2ラウンド後の事を何も覚えていません。どうか神様、この戦いを乗り越えさせてくださいと祈るだけだった。翌日まで記憶がありませんでした。病院で妻が話をしてくれました。試合後の控室でU2のボノが私にサングラスをくれたそうです。私の両目がアザだらけだったからです。彼は私の手をとり、いかに私がタフだったかを讃えてくれたそうです。私はほとんど記憶がなく病院に行ったので本当に覚えていないんです。翌日目が覚めてどっちが勝ったのかさえわかりませんでした。ブエノもダメージがひどくて空港に行けなかったそうです。私たちは12ラウンド殺し合いをしたようなものです。」

減量苦のため、マッカラーは王座を返上、スーパーバンタム級に階級をあげた。

1997年1月11日、マサチューセッツ州・ボストンのハインズ・コンベンションセンターでWBC世界スーパーバンタム級王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)と対戦し、プロ初黒星となる1-2(112-116、112-116、115-114)の判定負けを喫し、2階級制覇に失敗。マッカラーはこの試合に負けたとはおもっていない。

その後2連勝し、1998年10月31日、更に階級を上げフェザー級での世界挑戦。アトランティックシティのコンベンションセンターでWBO世界フェザー級王者ナジーム・ハメド(イギリス)に挑んだが、0-3(112-116、110-118、111-117)の判定負けを喫し、またも2階級制覇に失敗。しかしマッカラーは試合を通じ、未来永劫語り継がれるタフネス、アゴの強さをみせつけた。

1999年10月22日、スーパーバンタム級に戻しての世界挑戦。ジョー・ルイス・アリーナでWBC世界スーパーバンタム級王者エリック・モラレス(メキシコ)に挑んだが、0-3(112-116、112-116、110-118)の判定負けでまたも2階級制覇に失敗。スーパーバンタム級でもエリック・モラレスはマッカラーに対して大きくて強靭すぎた。

ただちにカムバックを試みるも、マッカラーはキャリアの暗黒期に突き当たった。
2000年10月、故郷・ベルファストで試合を行なう予定であったが、試合の2日前に脳に嚢胞があると診断され、試合をキャンセル。UCLAで精密検査を受けた結果、嚢胞は脳と頭蓋骨(クモ膜)の間にあり、ボクシングの試合には影響なしとされた。それにもかかわらず、BBBofCはライセンスを許可しなかった。

マッカラー
「2年間試合ができませんでした。なぜBBBofCが許可しなかったか理解できません。世界中の医師はボクシングには問題ないと言ってくれた。私の担当医もそう言いました。最終的にはロバート・スミス(BBBofC)が手助けしてくれてライセンスが復活しました。人生には受け入れがたい事が突然起きることがあります。プロモーターにはこれ以上頭にパンチを食ったら一撃で死ぬぞと言われましたがなんの根拠もありませんでした。私にとっても家族にとっても大変な時期でした。

私は自分のキャリアを心配していませんでした。これ以上頭にパンチを打たれたら危ないぞと言われたことが気になっていましたが、それはとても感情的な時間でいかなる答えも導き出せませんでした。結局、脳の嚢胞は生まれつきのものだったことがわかりました。ボクシングとは関係がありませんでした。私は戦いを禁止されましたが、15か月間彼らは私の脳に関するレポートをみせてくれませんでした。しかし今では不満はありません。彼らは最高の委任機関です。」

2003年3月22日、フェザー級での世界再挑戦。グラスゴーのブラエヘッド・アリーナでWBO世界フェザー級王者スコット・ハリソン(スコットランド)に挑んだが、0-3(109-119、108-119、108-120)の判定負けで完敗し、またも2階級制覇に失敗。その後、1年半試合から遠ざかる。

2005年2月10日、またスーパーバンタム級に戻しての世界挑戦。カリフォルニア州・リムーアのパレス・インディアン・ゲーミング・センターでWBC世界スーパーバンタム級王者オスカー・ラリオス(メキシコ)に挑んだが、0-3(110-118、110-118、112-116)の判定負けを喫しまたも2階級制覇に失敗、同年7月16日にMGMグランドでラリオスに再度挑んだが、自身初のKO負けとなる10回終了時TKO負けを喫しまたも2階級制覇に失敗した。

2005年9月、アメリカ合衆国国籍を取得。

2008年6月20日、2年11か月ぶりの復帰戦でケイマン諸島・ジョージタウンのロイヤル・ワトラー・クルーズ・ターミナルで行われたNABF北米フェザー級王座決定戦でファン・ルイス(アメリカ合衆国)と対戦したが、6回終了時棄権で王座獲得に失敗これが最後となった。

バンタム級王座返上後、2階級制覇に6度挑戦するも、いずれも失敗した。

現在49歳になるマッカラーはロサンゼルスとラスベガスの境に住み、サンタモニカで元五輪選手のトニー・ジェフリーズのジムでトレーナーをしている。妻のシェリルと、歌手で舞台女優の娘、ウィノナと暮らしている。

2005年には「ポケットロケット:Don’t Quit」という自伝を出版した。

https://www.youtube.com/watch?v=7ah3ppTvMP8

ライバルについて

ベストスキル エリック・モラレス

彼は基本的にノックアウトパンチャーで、私と戦った時も9連続KO中でした。コーナーの指示を聞いて初回が終わるとアウトボックスしろと言われていた。彼はパンチがありファイトすることも相手に合わせてボックスすることも出来る。勝利のために戦い方を切り替えることができるんだ。他のファイターにはAプランしかないけどモラレスにはBプランもあるんだ。

ベストジャブ モラレス

いいジャブの持ち主だった。全ての起点にジャブを使うんだ。ジャブ、ジャブ、ボディ、ジャブ・・・そしてビッグライト。またジャブで距離をキープ。モラレスにしか出来ない芸当だった。

ベストディフェンス ナシーム・ハメド

ディフェンスに依存するタイプのファイターだった。彼は俺をノックアウトしてやると言っていたけど、できずに走り回っていた。あんなに走り回られてどうやって奴にパンチを当てるんだ。それが彼の本当の強みなのかわからないけど、最高のディフェンス技術が彼の特徴だ。

ベストチン ビクトル・ラバナレス

難しい質問だな。メキシカンにはタフな奴が多い。打っても打っても平気でとても頑丈だけどボディが弱点なんだ。

モラレスもサラゴサをボディでストップしたよね。サラゴサ戦は自分の勝ちだとおもっている。私が2ラウンドに打ったボディでサラゴサは「オーマミー!」って泣いていたよ。ウーウー唸っていて私はもう勝ったとおもったけどゴングが鳴ってしまった。あと30秒あれば倒せていたのにな。メキシカンはみんなタフだ。サラゴサもモラレスもブエノもみんなタフだった。誰かひとりに絞ることは出来ない。

ラバナレスはコンクリートのようなアゴを持っていた。俺が13試合目で、奴は50試合もしている元王者で1位のランカーだった。互いにあらゆるパンチを打ち合ったけどポイントを失ったと感じたのはあの時がはじめてだ。アゴに強烈なパンチを当てても全く動じずに攻めてくる。奴の顔をみたら金属の歯を入れていた。どんなに打っても全く気にせず、ずっと前進し続けてきた。

ベストパンチャー モラレス

最大のハードパンチャーはモラレスだ。P4Pだ。初回からラストまですさまじいパンチ力だった。最後までその威力は全く落ちなかった。試合を通してずっと同じ強度を維持できるんだ。本当にすごいパンチャーだったよ。

ハメドもパンチが強かったけど、彼はフィジカルが強かった。試合が終わると彼は「お前はスーパーストロングだった」と言った。フィジカルの強さとパンチ力は異なるんだ。俺を傷つけたのはビクトル・ラバナレスだけだ。ハメドもモラレスも足が揺れるほどには私を傷つけなかった。ハメドは肉体が強くてモラレスはピンポイントパンチが強かった。私の左半身に衝撃を与えたよ。

ハンドスピード モラレス

私にはハメドのパンチはみえた。速いとは思わなかった。モラレスはジャブを使って強烈な右を隠すんだ。パンチが速い奴というのはそれを目立たせないんだ。速そうにみえないのに速いパンチを隠し持っている。ジャブでそれを隠したモラレスだね。

フットワーク ハメド

ハメドと言わねばならないね。なぜならずっと走り回っていたからね。記者会見ではお前が俺のアゴにパンチを当てても倒れない時に何が起きるかなと挑発したんだけど、奴は12ラウンドずっと走り回りやがった。実はあの時両足に水疱があって痛くてハメドを追いかけることができなかったんだ。4、5回はハメドに言った「ファイトしようぜ」って。でも彼の速い足は止まらなかった。

スマート ダニエル・サラゴサ

サラゴサで間違いないだろう。彼の適応力はすごい。40歳になっても世界王者として戦ったんだ。

屈強 スコット・ハリソン

ハリソンだね。私は本当のフェザー級ではなかった。ハメドとやってスーパーバンタムに下げてモラレスと戦ったりしていた。ハリソンとやったのはハメド戦から5年後だ。ハリソンはただただデカかった。体重は同じはずなのに、私が2,3ポンド増えたのに対しハリソンは20ポンドくらい試合で増量していたんじゃないかな。ハメドもフィジカルが強かった。奴のフィジカルは信じられないほどだった。でも、このインタビューでとっさに思い出したのはハリソンだね。

総合 モラレス

間違いなくモラレスだ。試合後我々は友人になりました。彼はいいパンチで私を殴りました。会うたびにモラレスは私のことを「お前は狂人だ、クレイジーアイリッシュマンだ」と言います。モラレスはアウトボクシングもファイトもできる。スーパーバンタムからフェザー級では最強だろう。しかし、どんどん階級を上げていった。スーパーライト級やウェルター級の選手では決してない。俺にとっては断トツでモラレスが最強だった。

薬師寺の名前が出ていなかったので以前スルーしていたが、辰吉との決戦で稼ぎ、燃え尽きたような事を薬師寺は言っていたがSDまで粘ったんだな。

薬師寺からタイトルを奪ったマッカラーはその後、辰吉や薬師寺が対戦して欲しかったビッグネーム全部と戦った。そしてほぼ負けた。しかし打たれても打たれても決して倒れない、鉄のアゴを持っていた。だから余計に人気者で重宝された。

振返れば308勝11敗という驚異的なアマチュアキャリアと五輪銀メダルという大変なエリートだったのだが、プロで大成したとは言えないのは、頑丈なアゴに比較してパンチ力、フィジカルパワーが秀でていなかったからと言えそうだ。

マッカラーのキャリアを振り返ると色々な事がわかる。

過酷な減量に苦しんだのは間違いないが、選手には最適な階級があり、階級を上げて減量から解放されても通じなくなっていく事。超エリートアマチュアにも明らかにプロ向き、不向きなスタイルがある事など・・・

マッカラーがプロ向きじゃなかったという意味ではないが、打たれ強さ以外に突出したものがなかった。けれどこれだけビッグネームと戦って、ダウンを拒否し、大きな怪我なく現役を終えたのは素晴らしいし日本人として羨ましい堂々たるキャリアといえる。

それにしてもアイリッシュはタフな男が多いが、打たれ強いというより精神力、負けん気が強いのだと感じる。

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