中量級の黄金時代は私の時代ではないが、軽量級黄金時代、メキシコ3人衆、バレラ、モラレス、マルケスこそ私の時代だった。そこに異端のハメドが旋風を巻き起こし、ついに辰吉はその輪に加わることなく、最後にパッキャオが全てを飲み込んでいったのだが、その上質なリングのワインには強烈な毒が混じっていた。
ポイズン(毒)ジュニア・ジョーンズ50勝28KO6敗はニューヨークブルックリン出身のとても才能あふれるボクサーパンチャーだった。150勝9敗というアマチュアキャリアをひっさげて1989年にプロ入りした彼は32勝22KOという快進撃で世界に邁進した。
1993年10月、無敗のコロンビア人王者、ホルヘ・エリエセール・フリオからWBAバンタム級王座を奪う。
しかし2度目の防衛戦で伏兵ジョン・マイケル・ジョンソンに11ラウンドTKOで敗れて防衛失敗。かつて、プロ4戦目で判定勝利している相手に初黒星を喫し、タイトルを手放した。
再起2戦目で無名のダリル・ピンクニーを相手にまたもや打たれもろさを露呈し、3ラウンドTKO負けで世界戦線から脱落。
世界王者でいるには打たれ脆すぎるという課題を抱えていたが、1996年3月23日、6連勝を経て、16度防衛のバンタム級最多連続防衛記録を持つ元IBF世界バンタム級王者オルランド・カニザレスとの白熱のサバイバルマッチを12ラウンド判定勝利で制する。
1996年、当時43戦全勝で8連続防衛中の強打者マルコ・アントニオ・バレラのWBO世界スーパーバンタム級王座に挑戦。圧倒的不利の予想の中、第5ラウンドに強烈な右ストレートをヒットしダウンを奪うと、立ち上がったところを更にダウンを追加。これと同時にバレラ側のセコンドがリングに上がったため反則失格で勝利となったが、実質的なKOで大番狂わせを演じ、2階級制覇。
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王者と挑戦者との立場を入れ替えマルコ・アントニオ・バレラと再戦。前回の勝利はフロックと見られ、今回も下馬評はバレラ有利。しかし、12ラウンドを戦い抜き3-0の判定でバレラを返り討ちにし、初防衛に成功した。
この勝利でジョーンズはファンとメディアに多くの尊敬と賞賛をもたらされるファイターになった。バレラへの連勝でP4Pリストにものるファイターとして認識されたもののジョーンズのその後のキャリアは順調とはいかなかった。アマチュア時代のライバルで元IBF世界スーパーバンタム級チャンピオンのケネディ・マッキニーに4ラウンド逆転TKOで敗れ、2度目の防衛に失敗。ここで勝っていれば、ナシーム・ハメドやケビン・ケリーとの対戦も計画されていたが雲散霧消と化した。
1998年9月12日、WBC世界スーパーバンタム級チャンピオンのエリック・モラレスに挑戦。初回から思い切り右のパンチを振って好調さが伺えたが、4ラウンドにカウンターを浴びてTKO負け。後にバレラとともに軽量級に一時代を築くことになるモラレスの出世試合とされてしまった。
その後も数戦戦うも世界タイトルを取り戻すことなく2002年、31歳でグローブを吊るした。
ジョーンズ
「ケネディ・マッキニーは再戦してくれませんでした。交渉したが進展せずマッキニーは他の誰かに負けてしまった。ハメドも私とはやりたくなかったのでしょう。交渉は進んでいましたが実現できませんでした。ハメドは難しいサウスポーのパンチャーですが私には問題なかった。ケビン・ケリーと戦えれば素晴らしい試合になったでしょう。彼もサウスポーでしたが、好戦的過ぎるのが仇となる。両者と対戦しても自信がありましたが、ハメドは変則ですごいパンチャーだからより注意が必要だったでしょうね。」ジョーンズはジョーイ・ファリエロトレーナーと共に最高のボクシング人生を歩んできたが、1995年ファリエロは脳卒中でこの世を去った。その後はトミー・ブルックスの元、残りのキャリアを続けた。
ジョーンズ
「ファリエロは素晴らしいトレーナーで紳士でした。ファイターを限界まで追い込んでベストを引き出してくれました。初心者であろうと世界王者であろうと同様に扱ってくれました。彼と出会えて幸せでした。私は今もまだ戦い続けています。パーソナルトレーナーをしており、ボクシングに関わることが大好きなのです。」ライバルたちについて
ベストボクサー マルコ・アントニオ・バレラ
素晴らしい技術とパワーを持っていました。彼に勝って私は本物になれました。
ベストパンチャー マルコ・アントニオ・バレラ
2試合ともに私は倒れることはなかったが、顔面にもボディにも強烈なパンチを食いました。初戦で彼をノックアウトしたのが想い出です。
ベストディフェンス トム・ブンブン・ジョンソン
とてもクレバーで私の攻撃を遮断しました。判定で私が勝ったのですがとても難しい試合でした。オーランド・カニザレスも素晴らしい技術を持っていました。
ハンドスピード オーランド・カニザレス
私に匹敵するハンドスピードでした。
フットワーク
プロの試合やスパーリングではフットワークで最高だと感じた者はいません。
ベストチン オーランド・カニザレス
12回にわたってベストショットを当てたけど彼は倒れもせず立ち向かってきた。
ベストジャブ ケネディ・マッキニー
当時の彼はいいジャブを持っていた。自分は彼を倒すためにスタミナを使い果たしてしまったんだ。あの試合は自分に負けたのです。
屈強 マルコ・アントニオ・バレラ
ダントツでバレラでしょう。フィジカルが強くて再戦ではプレスがきつかった。
スマート エリック・モラレス
右のタイミングという点で彼はスマートでした。狙っていた右を見事に私に打ち込みました。
総合 オーランド・カニザレス
彼はその後殿堂入りしました。16回も防衛している偉大な王者でした。とてもクレバーでトリッキーでした。マジソンスクエアガーデンで彼に勝った試合が私のキャリアで最高のパフォーマンスです。
「軽量級のトーマス・ハーンズ」と言われたジョーンズは現役時はとても怖い存在でした。時代が今で、辰吉が順調であれば対戦の可能性もある位置にいました。しかし当時は本場アメリカのパンチャーと日本人が戦うなど何かの冗談、夢でしかなかった。
キレキレのジャブと誰をも倒すシャープなストレートと裏腹にハーンズと同じガラスのアゴを持っていた。数々の出世試合、名王者を下してきたが、自身は伏兵に敗れ、長期で活躍することはできなかった。
今のゾラニ・テテと少し似たスタイル、存在感であり、だとすればゾラニ・テテもビッグネームキラーとしてまだやり残した仕事があるはずだ。この男に鉄のアゴがあれば最強だったかもしれない。ポイズン(毒)というニックネームがとても似合う、デンジャラスなファイター、ジュニア・ジョーンズを忘れない。
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