ここで残さねば誰が残すという人を取り上げます。とても短いですが・・・日本最強のパンチャーは、浜田剛か平仲明信か内山高志か。今は断然井上尚弥だが、この男で決まりまもしれない。
日系ライトウェルター級ポール・フジは技術的には貧弱で無名のファイターだったが、特筆すべきことは、議論の余地なき140ポンドの王者として、一部では史上最高のパンチャーだったと評価されていることだ。
キャリア初期にフィリピンのジャーニーマンに負けた藤は、重いパンチを生かすため、上半身を動かすことを学んだ。藤の破壊的なパンチを体験した最初の世界王者は当時ジュニアウェルター級統一王者だったイタリアのトリッキーなサンドロ・ロポポロ(オリンピック銀メダリスト)だ。藤はワイルドで残忍なパンチでわずか2回でロポポロを破壊した。
ロポポロは生涯77試合してKOされたのは藤がはじめて、その後引退前に1試合だけだ。
ドイツのウイリー・クアルトーア(西ドイツ)との試合で藤が技術的な欠陥をどのように補っていったかがよくわかる。確かに上半身の動きは、藤が野生のスイングに頼るのを止めないだけでなく、サウスポーとオーソドックスを切り替えて巨大な爆弾を打ち込む空間を引き出そうとしている。
そして、藤猛で最も人々の記憶に残る試合が、アルゼンチンの「マスター」ニコリノ・ローチェとの試合だ。107戦目にして初の世界挑戦となったローチェは日本の誇る「ハンマーパンチ」藤の豪打をダッキングで空回りさせ、左パンチを的確にヒットして終始翻弄、10Rで藤を試合放棄に追い込んだ。豪打のファイターを攻略する見事な展示会だった。
その後、藤は二度と大舞台に戻ることなく、数人の旅人に勝ち続けたまま引退した。
生涯戦績
34勝29KO3敗1分
名前と古い映像しか知らない。内藤がポンサク3で勝ったMXTVのゲスト解説はよかったな。泣きそうになった。日本語を話せない生粋の日系アメリカ人との事でそのキャリアも日本人相手は少なかったようだ。あまりの豪打に相手探しに苦労したのだろうか、日本人には一度も負けていない。
改めてキャリアを振り返ると、28歳での世界陥落、勝ったまま30歳で引退と、そのハンマーパンチを当てるスキルを磨けばもっと強い怪物王者になれたのかもしれない。あっさりした引退には金銭問題の確執があったようだ。
なにせ負けたニコリノ・ローチェは当時
89勝2敗14分け(すごい引き分けの数)生涯117勝4敗14分だ。
そりゃ、簡単にパンチは当たらんだろう。
豪打の血というのは確実に日本人、アジア人の肉体に宿っている。
藤猛物語・補足
ハワイ準州ホノルル出身の日系3世。国籍はアメリカ合衆国。典型的なファイタースタイル。右利き。日系3世としてハワイで出生。幼稚園時代にエディ・タウンゼントのジムで毎日のように遊ぶ。ハワイ州のハイスクール卒業。卒業後、米軍人となった。アメリカ合衆国海兵隊員として米軍横須賀基地や大和市の米軍基地などに配属されていた。海兵隊時代もアマチュアでボクシングをしており、以下の戦績であった。
米国ネバダ州大会優勝
カリフォルニア州のゴールデン・グローブ大会優勝
132戦116勝16敗
プロレスラーの力道山は、現役時より「プロボクシングへの進出」を計画していた。当初は、力道山自身が弟子にボクシングを仕込みプロデビューさせるつもりだったが、力道山のボクシング進出に合わせて日本ボクシングコミッションが規定を変えたため、彼自身は会長にもトレーナーにもなれず排除された(他のプロスポーツの興行に関わることを禁ずる規則。これは現在でも存続する)。
しかし自らの名を冠した「リキボクシングジム」を設立し、自ら所有する都心一等地のビルにおいた。そしてジムの会長は力道山の子飼いの者とした。しかしその会長自身は格闘技経験がなく、教えることができない。そのため昭和37年に当時ハワイでボクシングトレーナーとして実績のあったエディをほぼ強引に連れてきてトレーナーとした。エディは生涯に6人の世界王者を育てたが、その最初の“作品”が藤である。藤が海兵隊を現地除隊後、旧知のエディの引きでボクシング入りさせ、同ジムに所属させたのである。
1965年日本王者。1966年東洋王者。翌1967年世界王者。斬新な「デンプシー・ロール」もさながら、荒々しいファイトスタイル、「ハンマー・パンチ」の異名を持つ強打で7割を超える生涯KO率を誇る(歴代日本選手の中でも最上クラスである)。
藤がボクシング入りした時は、リキジム会長は力道山の個人秘書(吉村義雄)に代わっていた(藤のボクシング入り前後にジムオーナーの力道山は刺殺され、オーナーは当時大学生の百田義浩となっていた)。藤は日本語を話せないれっきとしたアメリカ人である。しかも米軍属であった。
しかし吉村秘書らは藤を日本で人気者にするためむしろ日本人としての一面を強調すべきと考え、片言の日本語で『オカヤマのおバアちゃん、(僕が勝った瞬間を)見てる?』『ヤマトダマシイ』とコメントするよう指示。世界王座獲得後に藤はこれをマイクの前で絶叫し、(何も知らない)日本人の心を打った。
なお、この「おばあちゃん」はハワイ在住であるが、この試合の日は、日本の岡山を訪れていたのだった(墓参りか?)。
しかし視聴者は「藤の祖母はずっと日本に住んでいるのだ」と勝手に取り違えて親近感を深めていったのだ。
「大和魂」は当時日本国内で流行語にもなった。ただし吉村らは「勝っても兜の緒を締めよ」と教えたが、藤はあろうことか「勝ってもかぶってもオシメよ」と間違えて言ってしまう。これもかえって好感をもたれ日本で流行語となった。
藤が世界王座を取るとともに伝記や映画が極めてタイミング良くリリースされており、関係者によって総合的なメディア戦略がなされていた可能性がある。1967年11月16日の世界王座防衛戦のテレビ視聴率は47.9%。
実際にはビジネス感覚が鋭い男で、ジムと金銭面での対立が絶えなかった。
リキジムがいくら抜いていたかは不明だが、通常、ボクサーのギャラはそれが芸能の仕事等であっても所属ボクシングジムが33%を搾取するとされる。百田家遺族の収入はジムの上がりしかない状況であり、両者とも引くに引けなかった。その対立がこじれ1968年に試合を拒み続けたあげくに引退届をいったん出している(しかし届は受理されなかった)。
世界王座陥落後の1970年、恐らくこれも金銭面で我慢ならなかったからであろう、試合直前でありながら突然の出場拒否。事態を重く見たコミッションにより無期限試合出場禁止の処分を受けた。そのまま藤は永久に復帰しなかった。
その後かなり時間を置きキックボクシングに転向し試合を行った。第一戦対戦相手は東拳司。藤は「パンチのみで勝てる」と豪語し、対戦相手もその言葉を意識しキックを封印しパンチのみで戦い、藤は敗北する。
第二戦は黒崎健時門下で彼の目白ジム所属のキックボクサー大手稔との対戦したが、この試合でもパンチのみで敗北し、それを最後に再びリングを去った。これらの模様は1978年11月公開の映画「四角いジャングル 格闘技世界一」にも収録された。
その後ハワイに帰国。作家安部譲二のルポ『殴り殴られ』では、名ボクサーが引退後いずれも悲惨な境遇になっていることが指摘されているが、藤猛はその中でも例外的な成功例として紹介されている。「息子を立派に育て上げ一流大学を卒業し良い企業に入った。悠々自適の人生である」と。(息子は企業人としても成功)
1996年に日本に再度転居。1年間、福島県の「いわき協栄ボクシングクラブ」会長を務めた(のちグローバル協栄ボクシングジムと改称。藤の後任はマック金平・金沢和良)。2002年7月、茨城県水戸市に「水戸ボクシングスクール」を開業(経営者は別人物)。同ジムは日本ボクシングコミッションやボクシング協会に加入せず、アマチュア、特に子供たちに指導を行った。2015年に廃業。2015年、東京馬込のエルコンドルベロスジム(旧ロッキージム)の特別トレーナーに就任する。
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