overachieved・予測を超える男/ガッツ石松(本名 鈴木有二)

OK牧場、「伝説の男〜ビバ・ガッツ〜」映像探せませんでしたが、歌詞だけ読んでも笑っちゃう。

好きな数字はなんですか?「ラッキーセブンの3」
「私はね、ボクシングに出会ってから人生観が360 度変わったんです」

しかし、そのボクシングキャリアは凄まじい。

1969年、全日本ライト級新人王。同期の新人王にウェルター級の輪島功一がいた。
生涯戦績は、51戦31勝(17KO)14敗6分

こんなに負け数の多い世界王者はいないと言われている。

日本のファイターガッツ石松は3度目の世界挑戦で王座を獲得し、1970年代半ばに5度の防衛をした。

石松(本名 鈴木有二)は1949年6月5日に栃木県上都賀郡清洲村→粟野町(現:鹿沼市)で生まれた。4人兄弟の田舎育ちの貧しい家庭だった。将来の夢はプロ野球選手だったが、ボクシングへの興味は彼が12歳の時に観たファイティング原田の試合だった。

ガッツ
「ファイティング原田は青春時代の俺のヒーローでした。彼は俺にとってはムハマド・アリだった。」

石松はアマチュアでボクシングをした事は一度もなく1966年秋に17歳でプロボクサーになった。

ガッツ
「アマチュアではお金を稼ぐことができない。当時は出来るだけ早くお金が稼ぎたかったんだ。そういう理由でアマチュアボクシングには興味がなかった。」

石松の初期のキャリアをみれば、彼がのちの世界王者になる片りんは何一つなかった。最初の3年間の戦績は12勝5敗4分9のノックアウトというものだった。

石松は打たれるのを嫌い、試合を途中で諦め、ガッツが足りないような姿をみせることがあった。彼の友人はそんな石松を観て後の石松のキャリアに多大な影響を与える提案をした。

ガッツ
「友人が試合でもっとガッツをみせろと俺を奮起させるためにガッツというリングネームを提案してくれたんだ。石松は、江戸時代の有名な賭博師「森の石松」からとったんだ。」

名前に恥じぬ男になりたい、石松はその後勇敢なファイターに変身し、4連勝、初の世界戦のチャンスを手に入れた。1970年、パナマを訪れ、時の王者、イスマエル・ラグナと対戦した。

石松は健闘はしたが、ラグナの滑らかなボクシングに屈し13回でストップ負けとなった。

その敗北の後、石松は再びムラっけのある試合を続け、元バンタム級世界王者のライオネル・ローズや3度世界挑戦をしたことのあるレネ・バリエントスらにも負けた。のちの世界挑戦者の門田新一やチャン・キルリーにも連敗した。しかし1972年の再戦で門田を破り再び上昇気流にのった。

殿堂入りのボクシングマッチメイカー、ジョー小泉はそんな石松のキャリアを「予想以上の事をしでかす男」と形容した。

ジョー小泉
「オリンピック代表の高山将孝や東洋太平洋王者の門田新一は石松よりはるかに才能があり期待されていたファイターでした。東洋太平洋王者の門田の挑戦者が試合に出れなくなったので、安パイとして石松が選ばれたのです。それなのに石松は才能で上回る門田に勝ってしまった。」

OBF(オリエントボクシング連盟OPBFの前身)新王者となった石松は2度の防衛を果たし、2度目の世界戦のチャンスを掴む。しかし相手は伝説の男、ロベルト・デュランだった。

石松はデュランの「石の拳」の洗礼を受け血まみれとなるが、10ラウンドにストップされるまで懸命に戦った。

その7か月後には当時のWBCライト級王者ロドルフォ・ゴンザレスを日本に招聘し、3度目の正直で石松は王者を8回でストップした。

ガッツ
「過去2度の世界戦で世界王者のレベルを肌に触れ、体力と身体能力の重要性を痛感した。だからトレーニングキャンプで必死に鍛えて、幸いにも世界王者になることができた。その時のファイトマネーで家を建てることができたから幸せだった。」

石松はWBCの王座を5度守った。その中でもゴンザレスとの再戦や元名王者のケン・ブキャナンへの勝利は勲章ものだ。1976年、石松はプエルトリコに赴き、エステバン・デヘススにユナニマス判定で敗れ王座を失った。

最後の世界戦として、一階級上のジュニアウェルター級で、時の王者センサク・ムアンスリンに挑むも6回でストップされた。そこで15年間のボクシングキャリアの幕を閉じグローブを吊るすはずが、14か月後にカムバックして、後の日本スーパーウェルター級王者・新井容日(大星)に判定負けし、引退した。

現在69歳になる石松は3人の子供と2人の孫がいる。東京に住み「プロボクシング・世界チャンピオン会」初代会長を務めている。引退後、俳優として「太陽の帝国」「黒い雨」など映画にも出演した。

石松にライバルたちの思い出を聞いた。

ベストジャブ/ケン・ブキャナン

彼はジャブの名手で距離と角度が見事だった。

ベストディフェンス/センサク・ムアンスリン

リーチが長くて、俺のパンチは届かなかった。

ハンドスピード/ケン・ブキャナン

彼のジャブ、右ストレートは俺が経験した中では最速だった。イスマエル・ラグナも足が速かったけどパンチは見えた。ロベルト・デュランのパンチも速かった。でもパンチは見えて反応できていたよ。

フットワーク/エステバン・デヘスス

攻守ともに均整がとれてて距離をキープするのが上手かったな。

あごの強さ/センサク・ムアンスリン

彼はジュニアウェルター級のファイターで俺より肉体が強かった。何発か強いパンチを入れても身体の強さで通じないんだ。ロベルト・デュランも頑丈だったよ。でも少しはいいパンチを入れて効かせることができたよ。

スマート/イスマエル・ラグナ

彼は足が多彩でポイントメイクに長けていたよ。

ベストパンチャー/ロベルト・デュラン

デュラン、ムアンスリン、ゴンザレス、彼らは皆ハードパンチャーだった。でもみんなパンチの質が違うんだ。デュランはハードパンチのラッシュ、ムアンスリンはピンポイント、ゴンザレスはソリッドパンチャーだったな。彼に2度勝てたのは幸運だよ。

ベストスキル/イスマエル・ラグナ

彼はポイントメイクと距離の管理をよくわかっていた。打たれないで打つ距離を徹底していた。打っても打っても捉えどころがなくて、自分だけ打ってはもう俺の届かないところにいるんだ。ブキャナンはジャブを絶やさず自分の距離を作る名手だった。デヘススはヒットアンドランが巧みでスキルフルだった。ムアンスリンはリーチの長いサウスポーでやりにくかったよ。

総合ベスト/ロベルト・デュラン

彼はスーパーチャンピオンであり、ありとあらゆる面で優れていた。デュランの強さの源っていうのは途方もないスタミナなんだ。並外れたフィジカルパワーがあって、パンチのボリュームと回転速度で相手を圧倒してしまう。いつも相手の2倍、3倍のパンチを打っていただろう。デュランの総合力っていうのは人間離れした猛烈なスタミナだね。

石松は、江戸時代の有名な賭博師「森の石松」からとったんだ。と書いてありますが、森の石松は「死んでも直らないほどのおっちょこちょい」でもあるそうだ。

記事を書くにあたり、記録を振り返ると、対戦当時

イスマエル・ラグナ
62勝6敗

ロベルト・デュラン
37勝1敗

ロドルフォ・ゴンザレス
79勝6敗

ケン・ブキャナン
56勝2敗

エステバン・デヘスス
46勝3敗

などである。恐らく日本人で一番世界的なファイターと拳を交えてきた男かもしれない。デュランとはパナマで、デヘススとはプエルトリコだ。

デュランの強さを肌で知る男の言葉は重く、得てして怪物的なスーパーボクサーの特徴でもあるといえる。

人間離れした猛烈なスタミナ

日本の多くの若きボクサーはガッツの敗戦多き凸凹なキャリアに勇気をもらいつつ、こんな負けの多いガッツのないボクサーでもやがて世界の超一流を倒して世界王者になり、堂々5度も防衛し、のちのレジェンドといえる数々のボクサーと国内外問わず戦ってきたという事実に大いなる夢を抱いて欲しい。

こんなに愉快で勇気をもらえるファイターはそういない。

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