砂の中の水/ユーリ・ヤコヴレヴィチ・アルバチャコフ
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ファイターはリングで相手を倒したいと言う欲求を強く持つ必要があります。ボクサーはパワーやテクニックではなく、欲望によって勝つと信じています。

ユーリ・ヤコヴレヴィチ・アルバチャコフ(Юрий Яковлевич Арбачаков, Yuri Yakovlevich Arbachakov)は、旧ソ連のロシア共和国ケメロヴォ州タシュタゴル出身のアジア系ロシア人(民族名、テュルク系ショル人)のプロボクサー経験者及びプロボクシング・トレーナー経験者。協栄ボクシングジム所属。元WBC世界フライ級王者で、9度の防衛に成功。これは日本のジムに所属する世界同級王者として過去最多の連続防衛記録である。

いつボクシングを始めたのですか?

ユーリ
「13歳の時にボクシングを始めました。ケメロヴォ州のタシュタゴル寄宿学校に通っていましたが、ある日ボクシングのコーチが学校に来たのです。学校のほとんどの生徒、約100人がボクシングのトレーニングに参加しました。」

ケメロヴォ州ではボクシングは国民的、あるいは民族的なスポーツなのですか?

ユーリ
「いいえ、国民的スポーツとは言えませんが、ボクシングはソ連で人気がありましたので大勢がトレーニングに参加しましたが、時間が経つにつれ、多くの人は去っていきました。」

ボクシングを辞めることはなかったのですか?

ユーリ
「なかったです。私は楽しんでジムに通いました。学校の宿題をやってからトレーニングしました。両親は遠い村に住んでいたので、私がボクシングをしていると聞いてもただの子供の遊びだとおもっていました。それがただの遊びなのか、人生の階段の一つであるのかなんて誰もわからないのです。自分にはボクシングが合っていました。とても機敏な子供だったので、サッカーやバスケットボールも得意でした。」

ボクシングに人生を捧げようとしたのはいつですか?

ユーリ
「いつのまにか、自覚はなかったです。大会があり、勝利し、レベルの高いトレーニングキャンプに招聘される、キッズ、ジュニア、シニア、この段階を経るとソ連の代表チームのメンバーになります。そこでボクシングが人生の一部になります。常にトーナメント、参加費用などお金がかかってきますから真剣です。そしてソビエト連邦のチャンピオンシップを獲得した時、ボクシングは人生そのものになりました。」

アマチュアでは186戦のキャリアがありますが、最も印象に残っているものは何ですか?

ユーリ
「1989年、はじめてソビエト連邦のチャンピオンシップを勝ち取った時です。レベルが高く、国内のレベルはヨーロッパ選手権で勝つよりもはるかに困難でした。」

その他の国はいかがでしたか?

ユーリ
「カザフスタン、アルメニア、ウクライナ、キルギスタン、東ドイツ、ブルガリア、ハンガリーなども強かったですが、キューバ人やアメリカ人がやはり強かったです。彼らは非常に優れたプロボクシングの基盤を持っています。

1989年にソビエト連邦のチャンピオンシップ決勝で18歳の若いカザフスタンのヌルマノフに勝ち、ヨーロッパ選手権ではハンガリーのララディに勝ちました。彼には過去に一度負けていたのでリベンジしました。」

世界選手権はどうでしたか?

ユーリ
「決勝でキューバのペドロ・レイジェスと戦いました。非常にタフな試合でした。2ラウンドを終えて互角の戦いでした。3回にレイジェスのパンチで私は鼻血を出しました。相手に有利になるかとおもいましたが、ルールでは出血がひどく試合が続行できない場合、試合が停止されそれまでのポイントの集計で勝敗が決まることになっていました。私は負傷判定で金メダリストになりました。」

世界選手権の決勝が一番困難な戦いでしたか?

ユーリ
「恐らくそうだとおもいますが、準決勝で戦った北朝鮮のボクサーとの試合も難しいものでした。なんとかポイント勝ちしました。」

1988年のソウルオリンピックについて伺ってもいいですか、あなたはその話をしたくないと聞きましたが。

ユーリ
「そんな事はありません。実績では私が代表候補だとおもいましたが、上層部の評価ではソ連王者であったアルバート・パケイエフという選手が上でした。彼が五輪に行くべきでしたが、別のボクサーが選ばれました。ティモフェイ・スクリアビンという選手です。彼は銅メダルを獲得しました。」

1989年の終わりにあなたは日本でプロになりました。

ユーリ
「ソウル五輪で金メダルをとったヴャチェスラフ・ヤノフスキーに日本でプロになる招待状が来ていました。ヘビー級のスラフ・ヤコブレフも招待されていました。2人が日本で詳細について話し合ったのです。私には当初日本からの招待状はありませんでした。世界選手権で試合をみた誰かが私に興味を持ったそうです。

日本の協栄ジムは多くのプロの世界チャンピオンを生み出した有名なボクシングジムでした。技術や言語の問題で上手く馴染めなかったので、半年後にソ連からアレクサンダー・ヴァシリエヴィッチ・ジミンが来ました。

日本の第一印象はどうでしたか?

ユーリ
「正直に言えば、私はボクシングで世界中、資本主義の国を旅してきたので特別な思いはなかったですが、日本には感銘を受けました。アジアの伝統、日本は全てが異次元でした。」

アマチュアからプロへの転向は難しいものでしたか?

ユーリ
「基本的には難しくありませんでした。私はボクシングの初心者ではありません。4回戦から6.8.10.12回戦とスムーズにキャリアを重ねました。アレクサンダー・ヴァシリエヴィッチ・ジミンは選手それぞれの個性に合わせ全て異なる方法で指導しました。」

相手はほとんど東南アジアのボクサーです。彼らはどうでしたか、タフで決して屈服しないと聞きます。

ユーリ
「そうですね。主にタイ人や韓国人と戦いました。日本人とはタイトルマッチで一度だけ戦いました。フィリピン人もいました。私は来日時から世界チャンピオンレベルだったとおもいます。彼らは「4回戦」のファイターです。ほぼ、初回か2回で倒しました。」

1992年6月23日あなたは歴史にその名前を永遠に刻みました。ロシア初の世界王者になりました。

ユーリ
「万全のトレーニングで臨みました。山で走り込み、ジムで最後の一か月の仕上げをしました。完璧なコンディションだったので初回から自信がありました。初回にムアンチャイからダウンを奪いましたが残り時間がわずかでカウントされませんでした。3回にダウンを奪われましたがすぐにダウンを奪い返しました。

ムアンチャイにはテクニックがあり、両手にパワーがありましたが、足に問題がありました。私のスピードについて来れない。しかし接近戦は強かった。接近戦では彼の方が激しくプロフェッショナルでした。私にはそのような接近戦に対する準備が出来ていませんでした。接近戦では彼の方が強い。だから私は前進してくる彼に右カウンターをアゴに打ちぬきました。彼はキャンバスに倒れ起き上がることが出来ませんでした。」

東京で試合をしましたか?

ユーリ
「はい、ムアンチャイとの試合の会場は大きかったです。相撲レスラーが戦う場所でした。同じプログラムにはハリウッド俳優のミッキー・ロークも出ました。試合はフィクションでした。彼は大画面のスーパースターでした。彼目当てのファンが多かったので会場は満員でした。そのおかげで私は目立つことができました。(笑)本当のボクシングファンは私を応援してくれました。」

その後も9度か10度タイトルを守りましたね。

ユーリ
「世界王座獲得を除いて9度防衛しました。最後の防衛は1996年、東京で渡久地隆人に勝ちましたが、この試合で骨折し、長いブランクを作りました。そして10度目の防衛戦で負けました。」

骨折やブランク、健康上の理由があったのでしょうか?それとも引退を心に決めていたのでしょうか?

ユーリ
「いいえ、私はしっかり準備していました。日本とフランスでトレーニングキャンプを行いました。しかし何かが十分ではなかったのでしょう。恐らく健康、キャンプを終えて私は疲れ果てた状態でリングに上がりました。休養を取らず、オーバーワークだったのでしょう。私の身体は疲れていてリングに何も残っていませんでした。」

日本での思い出を聞かせてください。

ユーリ
「東京は生活水準が非常に高い巨大都市です。あらゆるものが最先端技術で快適で全てが便利です。いい思い出ばかりです。」

ファイトマネーはいかがでしたか?

ユーリ
「ファイトマネーは階級によって変わります。私のような軽量級は重いクラスに比べて報酬は低いです。それでも普通の生活では稼げないような金額を稼ぐことができました。」

一戦あたりのファイトマネーの平均額を教えてくれますか?

ユーリ
「世界王者になってはじめて稼げるようになります。タイトルマッチだけで1万ドル払われました。タイトルを獲得した後の月給は3500ドルになりました。当時はこれが普通でした。自分は軽量級でしたから。」

キャリア終了後、日本に残るオファーはなかったのですか?

ユーリ
「妻が日本人なので、オファーがなくても日本で暮らせたかもしれません。引退後、私たちはアパートを借りて自分たちで暮らしましたが、ボクシングを失って新たな自分自身をみつけることは困難でした。引退後も5年間日本で暮らしましたが、心は日本にありませんでした。日本語が理解出来ないのが主な理由です。

ボクシングを辞めて、何かを一から始める必要があったので、色々悩み、相談し、ロシアに戻ることに決めました。砂の中の水のように、私はじっと時の流れが経過するのを待つことが出来ませんでした。」

ここから、友人である?イベンダー・ホリフィールドが偉大な理由やニコライ・ワルーエフ、アレクサンダー・ポペドキン、彼らがクリチコに勝つには何が必要かのような話になるので割愛。しかし非常に鋭い指摘をしている。判定になるだろう。クリチコがいかに強くても、相手の弱点を精査し自信を持って臨めば克服できると言っている。

ユーリ
「ファイターはリングで相手を倒したいと言う欲求を強く持つ必要があります。ボクサーはパワーやテクニックではなく、欲望によって勝つと信じています。もちろん、自分に欠けている部分に取り組む必要があります。それは速度、衝撃力、距離感です。」

ファンに別れを告げてください。

ユーリ
「アマチュア、プロを問わず、ボクシングを応援し続けてください。結局のところ、ボクシングは壮大な仕事であり、ファンのサポートがいつもボクサーを助けるのです。私は若い世代に全力で尽くし、研究し、彼らと共にリングで大きな成功を収めたいとおもっています。」

寡黙なユーリの貴重な言葉を見つけたので記録しておきました。
私のボクシングの歴史の中でも5本の指に入るファイターです。

https://www.youtube.com/watch?v=ohQ8buZVk4c

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