最強の無名という運命/オルズベック・ナザロフ

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男にとって幸せとは、好きな仕事とそれに見合った給料があること。そして愛すべき家族がいること。私は日本を愛しています。どうか私のことを覚えていてください。

オルズベック・ナザロフは、傑出したアマチュアで、後に1990年代前半から半ばにかけてWBAライト級王者として成功を収めたボクサー・パンチャーだ。

1966年8月30日、カザフスタンとの国境に近いキルギスのカントで生まれた。

ナザロフ
「労働者階級の大家族の中で生まれ育ちました。父はバスの運転手、母はパン屋で働いた後、父と一緒にバスの車掌としても働いていました。兄が2人、妹が2人、父、母、祖母、祖父の大家族で暮らしていました。みんな仲良く一つの家に住んでいました。
子供時代は、他のソ連の子供たちと同様、決して豊かではありませんでしたが、友人たちと陽気に過ごしていました。家事や薪の準備もやった。よく薪割りをしたことが役に立ったのかもしれない。薪を伐るのはボクシングの練習になるからね。

私は典型的な田舎者です。村ではいつも大地で働いていました。ジャガイモを植えたり、果物を採ったり、野菜を集めたり、冬に備えて薪を用意したり。」

ナザロフはレスリングや陸上競技には興味がなく、10歳の時にボクシングを始めた。1982年にソ連邦ユース選手権に出場し、ソ連邦スポーツマスターの称号を授与された。

ナザロフ
「これは今日に至るまで非常に名誉な肩書きです。そして、すべての勝利と敗北を仕事として受け止めるようになりました。最初の大きな勝利が一番輝くのです。」

これをバネに、アマチュア時代には1984年のヨーロッパジュニア選手権で金メダルを獲得するなど、活躍の場を広げていった。

シニアでは、1985年、1987年、1988年にソビエト連邦のナショナルチャンピオンになり、1988年の大会では、決勝でコスチャ・ジューを破ったが翌年はよもや敗れてしまった。

1986年世界選手権の準決勝で、才能あふれるキューバのアドルフォ・オルタに敗れたが、モスクワで開催された親善試合では金メダルを獲得。その後、1987年のヨーロッパ選手権で金メダル、ワールドカップで銅メダルを獲得した。

1988年のオリンピックにソ連代表として出場することを希望していたが、大会直前に虫垂炎で入院し、断念。153勝12敗という素晴らしい成績を残し、アマチュア界を去った。

その後、ナザロフは東京の協栄ボクシングジムの金平のもとでボクシングを始めることにした。

ナザロフ
「日本に飛んだのは、ブヤチェスラフ・ヤコブレフ、ブヤチェスラフ・ヤノフスキー、ラムザン・シビレフ、ルスラン・タラモフ、ユーリ・アルバチャコフと私の6人チームだった。

言葉、文化の違いなど、大変でした。最も重要なことは、日本人は言葉を大切にする人たちだということです。多くの試合が言葉で話し合われ、日本の会社側でも条件はおおむね満たされていました。

チャンピオンになりたい という気持ちと、友好的なチームのおかげで、目標を達成することができました。トレーナーのアレクサンダー・ジミンは、私がプロボクサーとして成長する上で重要な役割を果たしました。」

1990年2月、日本で西澤誠をオープニングラウンドでストップ。

「グッシー」はすぐにプロの世界に適応し、6戦目で日本の135ポンド級ナショナルタイトルを獲得。ハードパンチのサウスポーは、2度の防衛戦を経て、12戦目でOPBFのタイトルを獲得。OPBF王座は5回防衛し、ランキングを上げた。

1993年10月、南アフリカのヨハネスブルグで、WBAライト級王者になったばかりのディンガン・トベラとの対戦が実現。

ナザロフ
「南アフリカでは、誰も私が相手のホームで勝てるとは思っていなかった。私は「殴られに来た人」として迎えられました。彼らは私のことを知っていると思ったが、私が旧ソ連出身であることさえ知らなかった。キルギスという国は、彼らにとっては何の意味もない。私が日本のどこかの県から来たと思っていたようで、私たちにはロシア語ではなく日本語の通訳がつきました。戦いの準備は、すべてトベラが勝つようにできていて、誰も私が勝つとは思っていなかった。心理的には困難だったが、肉体的には何の疑いもなかった。私の勝利を信じたのは、ジミンと私、そして日本のスタッフだけだった。試合はタフで、12ラウンド続きました。4ラウンドでダウンされたが、6ラウンド以降は完全にコントロールし、10ラウンドでディンガンをノックダウンさせた。ディンガンの課題は12ラウンドを耐え抜くことでしたが、私は彼に勝機を一度も与えず、世界チャンピオンになりました。」

5カ月後、ナザロフは再び南アフリカに向かい、トベラと再戦。

ナザロフ
「再戦は、また相手の母国だったけど、全てが簡単だった。」

1994年12月、メイン州ポートランドで、元世界王者、ジョーイ・ガマチェを撃破しタイトルを保持。日本で3度の防衛を果たした後、アメリカに戻り、後にライト級王者となるリバンダー・ジョンソンに勝利した(TKO 7)

しかし、より重要な試合に近づいていた時、キルギスで銃に襲われた。

ナザロフ
「車の中で2人の友人を失い、自分も腕を撃たれた。悪い時に悪い場所にいたのだから、そういうこともあるさ。」

幸い傷は回復し、フランスでノンタイトル戦を2試合行い、戦える状態に戻した。1998年5月、パリでジャン・バティスト・メンディと対戦。12ラウンドユナニマス判定で初の敗北。

ナザロフ
「相手の指が目に入り4ラウンドで片目が見えなくなった。しかし棄権を拒否し、12ラウンドを戦い抜いた。多くの新聞はこれを英雄的行為と書いたが、非常に愚かな行為だと思う。それ以来、私は左目が見えない。けれどこれが人生だ。何度も手術をした今も左目が見えませんが、仕事、運動、移動、子供たちとの勉強に支障はないです。少し違和感がありますが、もう慣れました。」

敗戦はもちろんだが、それ以上に怪我が彼のキャリアに残酷な結末をもたらした。

ナザロフ
「オスカー・デ・ラ・ホーヤに何度も試合を打診したが、オスカーのプロモーターはこの試合の開催を望まなかった。」

26勝19KO1敗の記録でボクシングから足を洗った。

ナザロフ
「議論の余地なき、文句なしの世界チャンピオンになりたかったが、メンディ戦はその希望を打ち砕いた。しかし、人生において起こることはすべて運命であり、今日、起こらなかったことについて話す価値はないでしょう。自分のキャリアと、今やっていることに満足している。」

現在55歳のナザロフは、結婚してキルギスのビシュケクに住んでいる。最初の結婚で2人、2度目の結婚で1人の子供がおり、合計4人の孫がいる。

2007年にキルギスの国会議員に選出されたが、現在は政治活動には携わっておらず、キルギスのボクシング連盟の副会長を務めている。ビシュケクには、彼の名を冠したボクシング学校がある。多くの人が相談し、助言を求める著名人である。

ベスト・ジャブディンガーン・トベラ

トベラのジャブは1戦目ではとてもよく、長く、そしてうまく偽装していた。2戦目ではあまり使わなかった。

ベスト・ディフェンス トベラ

彼は巧みで、クリーンショットを打つのは難しかった。

ハンドスピ-ド ジョーイ・ガマチェ

彼は素早いコンビネーションを投げてきたが、私は強すぎた。

フットワーク ガマチェ

彼は足でよく動いたが、彼が怪我をしたときにすぐに襲い掛かり、彼に試合をさせなかった。

クレバー リバンダー・ジョンソン

ジョンソンはとてもいいファイターだった。彼は考える人だった。

屈強 ジョンソン

彼は考えるから強かったんだ。

ベストチン トベラ

2回対戦し、24ラウンドを戦いました。ダウンさせましたが、彼は生き残りました。彼は持ちこたえ、クリンチした。それが私が彼をノックアウトできなかった理由です。

ベストパンチャー ジャン・バティスト・メンディ

最もハードなパンチャーはメンディだった。なぜなら、私はまだ左目が見えないからだ。

スキル トベラ

トベラはとても巧みで、パンチをうまく組み立てていました。

オールラウンド トベラ

トベラのボクシングはレベルが高かった。トベラが一番と感じたのは、最初の世界タイトルマッチだったからかもしれません。対戦相手をすべて倒したので私こそベストです(笑)

キルギスの狼/オルズベック・ナザロフ

ナザロフについては個人的に思い入れがあり
デラホーヤやモズリーやパッキャオより強かったのではないかとおもう。
冷静でいて、エドウィン・バレロ並の破壊力と上質なスキルを持っていた。
アマチュアエリートだが、明らかにプロ適正があった。

鬼人の如く・・・

そんな男がいた。

グッシーなんてニックネームは失礼だ。
ライト級、歴史を振り返っても、どんな日本人ボクサーよりも異次元だった。

日本という国のボクシング界が、ナザロフやユーリの能力を持て余した。
手に負えない強さだった。

東京三太(ミゲル・アンヘル・ゴンザレス)しかまともなスパーリングパートナーはいなかった。

アマチュア至上最強、キューバの伝説、エクトール・ビネントやアドルフォ・オルタレベルの実力者だった。

彼にベスト10を聞くのはナンセンスであり、ライバルといえぬ者たちばかりでキャリアを終えた。

しかし、実に潔い態度で第2の人生を謳歌しているようだ。

ナザロフ
「男にとって幸せとは、好きな仕事とそれに見合った給料があること。そして愛すべき家族がいること。社会主義的かもしれませんが、日本はこの理想をものにできる国でした。協栄ジムの皆さんを始め、日本の人にはお世話になりましたが、やはり忘れられないのはコーチであり、一緒にソ連から訪日したジミン・アレクサンドルですね。精神面からの恩師でした。私は日本を愛しています。どうか私のことを覚えていてください。」

アマ:175戦153勝(80RSC)12敗
プロ:27戦26勝(19KO)1敗

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プクー

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「ボクシング動画配信局」https://box-p4p.comの管理人です。 ボクシングで人生を学びました。

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