30年無敗の贖罪/ハリー・サイモン
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オレンジの色も形も変わり、いつしかハリー・サイモンのボクシングのキャリア、そして人生の完璧なメタファーになった。

ハリー・サイモンが10歳でアマチュアの試合に初勝利したときのご褒美はオレンジだった。

オレンジのたすきでもオレンジの飾りでもなく、皮をむいて食べることができる本物のオレンジだった。実際、ハリーの次の挑戦は、このオレンジを食べたいという誘惑を我慢して家に持ち帰り、ボクサーが勝利で手にするトロフィーと同じように飾っておくことだった。

そのオレンジは7日間、暖炉の上ではなく冷蔵庫の上に置かれた。冷蔵庫の上なので、ハリーは台所に行けばいつでもオレンジを見つけることができた。オレンジの色も形も変わり、いつしかハリー・サイモンのボクシングのキャリア、そして人生の完璧なメタファーになった。

トロフィーとは違って、冷蔵庫のオレンジは変化し、劣化していく。成功の証であっても、その賞味期限は短く、不確定だった。ある日は新鮮で美味しく食べられたのに、次の日には腐ってダメになっていた。

サイモン
「2、3日すると色が変わっていた。緑色になっていた。あれは忘れられない。結局、それは予想通り枯れてしまったが、その記憶は持続している。オレンジが象徴する成功の記憶もまた。3ラウンドか4ラウンドで14歳の選手が相手だったことを覚えている。彼はアマチュアとして2、3年ボクサーをやっていた。僕はポイント勝ちしたんだ」

1971年、ナミビアのウォルビス・ベイに生まれたハリー・サイモンは、11人兄弟の末っ子だった。父親を持たずに育った彼は、年上の少年少女に囲まれていることが多かった。

サイモン
「僕はいたずらっ子だった。よく問題を起こした。いつもどこでもケンカしていた。学校でもケンカしたし、学校にいないときもケンカした。」

そして、彼は正直になる余裕を作るために立ち止まった。

「僕はいじめっ子だった。子供の頃、僕は他の子供たちをいじめていました。僕より年上の子もいたけど、それでもいじめた。恐怖心はなかった。まったく。なぜなのかはわからない。僕には10人兄弟がいて、僕は最後に生まれた11番目。父親がいない中で成長しなければならなかった。父親の不在を感じていた。男の子には父親が必要だ。僕はうまく教えられなかった。父親がいれば、他人をいじめてはいけないと教えてくれた。正しいことをするように教えてくれた。僕はまったくしつけられなかった。」

サイモンはウォルビスベイでボクシング・ジムに行ったところだった。そこで彼は、大人になってからも必要な慰めと、子供時代に欠けていた規律を見つけ続けている。現在52歳。11月2日にナミビアで開催されるエキシビションで再びボクシングをする予定だが、ボクシングからは幼少期と同じものを得ている。

彼にとって、ボクシングは今でも故郷であり、聖域なのだ。ボクシングは今でも彼に教訓を与え、子供の頃には得られなかったものを与えてくれる。

サイモン
「ボクシングは僕に規律を与えてくれた。それはナミビアの他の人々にとっても同じことだ。ナミビアではボクシングはとても人気がある。間違っているかもしれないけど、ナミビアではナンバーワンのスポーツだと思うよ。ジムでは、たくさんの子供たちと一緒にトレーニングをしている。ジムには60人くらいいるかな。」

若者にとって、ボクシングは学ぶための手段であり、規律を見つけ、強さを見つけるための手段である。一方、52歳のサイモンにとって、ジムはタイムマシンのようなもので、若さを取り戻すために利用するものという印象がある。それだけでなく、ボクシングは、彼がこれまで知っているすべてであり、リングはしばしば彼にとって最も安全な場所である。

サイモン
「アマチュアの試合は200回以上やったが、負けたのは2、3、4回だった」

このような成功を見れば、サイモンがリングを進歩、そしてほとんどの場合、幸福と結びつけて考えるのも無理はない。プロとしてお金と賞賛をもたらしたのはボクシングのリングであり、アマチュア時代もリングの中での活躍が1992年のバルセロナ・オリンピックにナミビア代表として出場するきっかけとなった。

サイモン
「嘘はつきたくないけど、あれはまったくいい経験じゃなかったよ。当時は1992年で、コンピューター採点があった。当時はコンピューターが採点していたんだ。多くの人が、この子が勝ったと思っても、コンピューターは『いや、この子は負けた』と言うんだ。僕は腹が立った。アマチュアボクシングではよくあることだ。イギリスやアメリカ出身の少年が、ジンバブエやアフリカのどこかの国の選手と戦っただけで、勝っていなくても勝ったことにしてしまう。オリンピックでは多くのスーパースターが採点のせいで負けている。ロイ・ジョーンズは(1988年のオリンピックで)韓国人(パク・シフン)に負けた。また、フロイド・メイウェザーも負けた(96年のセラフィム・トドロフ戦)」

他のボクサーと同じように、アニバル・アセベドに1ラウンドでアウトポイントされたサイモンも、勝利は勝利と感じられるように、敗北は敗北と感じられるように望んでいた。サイモンは、政治や人気よりも、自分の身体能力で試合が決まることを望んでいた。1994年にプロに転向したのも、そうした理由からだった。

サイモン
「当時、僕はスポーツとレクリエーションの仕事をしていて、プロになるためにはそれを諦めなければならなかった。ナミビアにはプロボクシングがなかったから、仕事を辞めて南アフリカに行かなければならなかった。とても大変だった。住む場所を探さなければならなかった。南アフリカには知り合いもいなかった。ジムのみんなに自分の実力を見せなければならなかった。みんなに『あの子は誰?と聞かれた。時が経つにつれて、そこで暮らすのが楽しくなり第二の故郷になった」

サイモン
南アフリカで「ターミネーター 」の異名をとったサイモンは9戦9勝。その後、イギリスで何度かボクシングを経験し、1998年にWBOジュニア・ミドル級王座への挑戦権を得た。当時、このベルトの保持者はロナルド・「ウィンキー」・ライトで、歴史上で最もテクニックのあるファイターの一人であり、すでに多くのジュニア・ミドル級選手が敬遠していた選手だった。彼もまた、敵地で戦うジャーニーマンであり、英国でエンズリー・ビンガム、スティーブ・フォスター、エイドリアン・ドッドソンらを倒し、印象的な選手だった。それゆえ、南アフリカに行ってサイモンと戦うというアイデアは、ライトにとってテーマの継続以上のものではないと考えられていた。

サイモン
「あれは僕にとって危険な戦いだった。あの試合で目が覚めたんだ。あの夜、もしウィンキーに負けていたら、僕の人生は決して同じではなかっただろう。あと1試合で引退か、もう試合はないだろうと思っていた。でも、僕は彼と全力で戦った。全力で戦って勝てなかったら意味がない。あの試合ではすべてを出し切った。僕は経験も浅かった。あの試合から多くのことを学んだよ。」

終始、熱狂的なペースで戦ったサイモンは、あのハンマークラールの夜、ライトと同じように自分自身についても多くを学んだ。ライトは38勝1敗で、ワールドクラスの挑戦者をアウェーで倒すことに慣れていた。とはいえ、最終的にサイモンは判定でライトを下して頂点に立ち、今や 「ウィンキー 」自身がいるような希有な世界の仲間入りを果たした。突然、ナミビア初の世界チャンピオンとなったサイモンは、マークされると同時に、敏腕ファイターなら誰もが避けたい存在となった。

サイモン
「ウィンキーが大好きなんだ。息子にもウィンキーと名付けたんだ。ウィンキーはナミビアではポピュラーな名前ではない。ウィンキー・ライトを知っている人にしか知られていない。でも、僕の腕にはウィンキーのタトゥーがあるんだ。」

サイモンには永遠に縁のなかった名声と大金を手にしたのは、もちろんライトだった。しかし、ライトに勝ったからといって、サイモンは依然として恐れられる危険な男であり続け、その才能は誰の目にも明らかだった。

ライトに勝利した後、ケビン・ルーシングを3ラウンドでストップ、エンリケ・アレコを10ラウンドでストップ、そしてカナダでロドニー・ジョーンズと12ラウンドを戦い、ベルトを防衛した。次の試合ではイギリスに戻り、16戦無敗の強打者、ウェイン・アレクサンダーと対戦。

サイモン
「素晴らしい試合だった。試合前、僕はみんなに一番簡単な試合になると言っていた。でも、あんなに勇気のある選手だとは思わなかった。僕が直面した最大のパンチャーでもあった。それでも僕にとっては簡単な試合だったけどね」

この試合はサイモンにとって、154ポンド・ジュニアミドル級としての最後の試合でもあった。その後、WBOのベルトを返上してミドル級に転向する意思を示し、2001年にはハシン・シェリフィを下してWBO暫定王座を、翌年にはアルマン・クラジンクを下して正規王座を獲得した。この2試合はいずれもサイモンがユナニマスの判定勝ちを収めたが、2002年に彼に起こったことを考えれば、どちらも単なる余談に過ぎない。

実際のところ、現時点で本当に重要なのは次の名前だけだ: 31歳の父親、フレデリック・デ・ウィンター、29歳の母親、ミシェル・デ・クレルク、そして22カ月の赤ん坊、イベ・デ・ウィンター。彼らは2002年11月、サイモンの生まれ故郷であるウォルビスベイとスワコプムントのちょうど中間に位置するラングストランドで、サイモンのメルセデス・ベンツML500に正面衝突されて死亡した3人のベルギー人の名前である。

それ以来、1つの人生が変わり、3つの人生が終わった。しかし、事故から約3年後の2005年8月5日、サイモンに殺人罪が成立し、2年の実刑判決が言い渡された。彼はこの判決を不服として控訴したが効果はなく、2007年7月9日から刑に服した。そのときまでに、彼はすべてを失った。右腕と右足を骨折し、ボクシングをすることもできなくなり、自由も心の平穏も失った。

サイモン
「11月のあの日、ナミビアのビーチリゾートを訪れた3人のベルギー人が経験した喪失感とは比べものにならない。浮き沈みが激しかった。手術のためにアメリカに行き、手術のためにロンドンに行き、手術のために南アフリカに戻らなければならなかった。その全体が僕にとってとても大変だった。ただ、1日1日を大切にし、それを乗り越えようとした。またボクシングができるのだろうか......そんな不安もあった。あの頃は人生の全盛期で、すべてを失った。フェリックス・トリニダードやバーナード・ホプキンスのような選手と大金で戦うはずだったのに、それは叶わなかった。僕が望んでいたことはすべて、もう叶わなかった。僕はそれを受け入れた。たくさん祈って、それが助けになった。教会にも通わなければならなかった。励ましてくれる人もいた。これが人生なんだから、受け入れるしかないんだ」

サイモンは計5年間、リングから遠ざかっていた。この5年間は、彼の人生の中で最も充実した、そして最も生産的な5年間であったはずだった。

サイモン
「刑務所に入るのは、これまでで最もつらいことのひとつだった。すべてを失い、その上刑務所に入れられる。生き埋めにされたようだった。

刑務所にいる間はトレーニングをしていたから、またボクシングがしたいといつも思っていた。出所したときには、ほぼ100%の状態でボクシングをする準備ができていた。また世界チャンピオンになりたかったんだ」

サイモンはそれには届かなかったかもしれないが、その後もボクシングを続け、このスポーツで何らかの生計を立てていた。事故から約16年後の2018年11月、息子のハリー・サイモン・ジュニア(現在22勝0敗のボクサー)とナミビアで手形を分け合った。

サイモン
「そんなことは毎日あることではないので、とても誇らしい瞬間でした。僕には10人の子供たちがいて、彼らの人生に僕がいる。それが一番大事なことなんだ。」

サイモンは、失われた時間、あるいは自分自身であれ父親であれ、不在であった時間を永遠に取り戻しているように感じられる。サイモンが52歳になってもボクシングを続けているのはそのためだろうし、自分の功績に満足しながらも、もっとやりたいという気持ちが残っているのもそのためだろう。

サイモン
「リングで成し遂げたことを誇りに思う。やってきたことは、自分にとって特別なことなんだ。僕の記録を見ると、31勝0敗で30年間無敗なんだ。なぜそんなことを言っているかわかる?まだ現役だからだよ。この地球上でこれほど長く無敗を続けている人はいない。僕が初めてだし、僕しかいない。なぜみんなそれを言わないのかわからない。僕がアフリカ出身だからかもしれない。すべての人を見渡しても、僕と同じようなことをした人は他に誰もいないんだ。

ナミビアと南アフリカで多くのエキシビションをやっているし、(フロイド・)メイウェザーとエキシビションをやりたい。メイウェザーも無敗だ。彼がジェイク・ポールの弟(ローガン・ポール)とエキシビションをやったのを覚えているけど、ジェイク・ポールの弟はクルーザー級だった。もし僕が体重を落とせれば、エキシビションができる。81戦無敗のファイター同士のエキシビションになる。彼は優秀な世界チャンピオンに勝っているし、僕も優秀な世界チャンピオンに勝っている。だから8回戦でも6回戦でもいい。負けたときの気持ちを思い出せない2人のスーパー世界チャンピオンという、素晴らしいショーをファンに見せよう。」

もちろん、それは厳密には真実ではない。ハリー・サイモンは誰よりも、勝つということがどういうことなのか、そして負けることがどういうことなのかをよく知っている。実際、彼は勝つことと負けることの両極端を知り尽くしている。朽ち果てたオレンジが勝利の適切な表現でないように、ボクシングの試合で他のボクサーに負けたからといって、その敗北感を正当に表現できるものではないことを、今の彼は知っている。

サイモン
「まだ体調が万全とは言えないけど、リングに戻る準備はできている。準備はできているよ。日曜日以外は毎日トレーニングしているよ。午前中はロードワーク、午後はボクシングだ。この年齢でボクシングをやるなんて思ってもみなかった。」

このサイトの存在を運営者である自分が忘れていた。

そしてハリー・サイモンも忘れかけていた。ごめんなさい。生涯無敗でリングから突如消えたナミビア初の世界王者が彼だ。

でも、ウィンキーにはちょっと負けていたとおもったよ。リングジェネラルシップで勝ったのかな。

まだ粗削りで、それでいて無限の可能性を秘めたすごい世界王者でした。

しかし、こういう環境、条件で、成功者になると奈落に落ちる。

金や女や薬物ではなかったが、過失で3人の人生を奪った。

最近、袴田巌の無罪が判決された。

50年にも及ぶ死刑囚扱いで彼の心は壊れたが、訴えたいものはあるだろう。

31戦全勝23KO、無敗のまま駆け抜けたナミビア初の世界王者の人生は続くし、彼の未来に幸あれだが、贖罪の時間でしかないともいえる。

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