アーロン・プライヤー
「キャリアを振り返ると彼が一番だったとおもう。セルバンテスにはプロで100戦のキャリアがあった。10年間、2団体で王者に君臨していた。初回に俺はダウンして立ち上がり逆転KOしたんだ。セルバンテスが俺のキャリアでは一番偉大な男だった。」
https://www.youtube.com/watch?v=9BiW2Ic7Ro0
コロンビアのボクサー・パンチャーであるアントニオ・セルバンテスは、1970年代に長年チャンピオンとして君臨していた選手であり、広く史上最高のジュニア・ウェルター級の一人と考えられている。
セルバンテスは1945年12月23日、コロンビア北部のサンバジリオ・デ・パレンケで生まれた。アメリカ大陸で最初の奴隷の反乱が起きた場所とされる地域で、幼少期は非常に困難な時代を過ごした。
セルバンテス
「私はシャンバスという貧しい地域に住んでいました。 "El Corral de Negros"(黒い庭)と呼ばれていました。荒れた土地だったが、働き者の町でもあった。両親と同様、私の兄弟は皆勤勉な労働者でした。みんな働かないと食べていけない。私は家族と一緒に、生きていくために必要なことをしました。靴磨きが私の収入源だった 当時は誰もが大事な靴の手入れをしなければならなかったので、私は最高の輝きを与えるためにそこにいました。タバコはもっとアングラな仕事だった。誰にでも売ってとにかく少しでも多くのお金を稼ぎました。」
叔父がセルバンテスにボクシングを紹介し "キッド・パンベレ "とあだ名をつけた。
セルバンテス
「この地域の子供たちはみんな戦うのが好きだったので、私も自然にそうしていました。」10代の頃、将来のチャンピオンとなるセルバンテスはトレーナーのカルメロ・プラダと出会い、一緒に仕事をするようになった。セルバンテスは、1964年1月に18歳でプロ転向を決意するまで、わずか3試合アマチュアに出場しただけだった。
セルバンテス
「プロになったばかりの頃は、良いファイターではなかったから、誰も興味を持ってくれませんでした。」プロとしての最初の20試合で無敗だったが、1966年後半に無名のチプリアーノ・ズールアガに2連続判定負けを喫した。さらに連敗したが、敗北から学び、そのたびにリベンジを果たした。
1968年、国内タイトルを獲得。プラダが住んでいたベネズエラでも戦い始めた。
1970年秋、アメリカデビューを果たし、ホルヘ・ロドリゲスを8ラウンドで下した。この勝利に続いて、未来のライト級ベルトホルダーであるロドルフォ・ゴンザレスを打ち破った。
1971年に4戦勝利し、WBA王者のニコリノ・ローチェに挑戦。
セルバンテスのボクシングは好調だったが、ブエノスアイレスで有名なルナパークでアルゼンチンの巨匠に15ラウンド全会一致の判定負けを喫した。2度目の王座挑戦の機会を求めていた頃、ローチェは1972年3月にパナマの新鋭のアルフォンソ・フレイザーに王座を奪われた。その年の後半、セルバンテスはフレイザーのWBAベルトに挑み、10ラウンドストップでコロンビア初の世界王者となった。
https://www.youtube.com/watch?v=-odUVrlNyKY
振り返ってみると、これが最も誇りに思う瞬間だったと言う。
セルバンテス
「国民的ヒーローになった。コロンビアのボクサーはほとんどトップになれないとおもわれてきた。それを変え、私たちでもチャンピオンになれることを示すことができました。あらゆる場所に招待されました。世界王者になった夜にお祝いをして、コロンビアに着いたときにはバランキージャでパレードをして、ボゴタで素晴らしいレセプションをしました。」それから3年半もの間、セルバンテスは10回もタイトルを防衛し、しばしばアウェーでタイトルを防衛するなど飛躍的な活躍をした。ローチェとの再戦(RTD9)、ライオン古山(UD15)、エステバン・デ・ヘスス(UD15)などの挑戦を跳ね返した。
1976年3月、セルバンテスは17歳の神童ウィルフレッド・ベニテスと対戦するために敵地プエルトリコに向かった。セルバンテスはオッズでは4-0といわれていた。両者は序盤は互角の戦いをしたが、中盤以降はベニテスが主導権を握った。ディフェンディング・チャンピオンのセルバンテスも食い下がったが、タイトルを守るには十分ではなかった。ベニテスは史上最年少で世界タイトルを獲得したボクサーとなり、その記録は現在も破られていない。
セルバンテスは復帰し、その後15ヶ月間で5連勝した。ベニテスがウェルター級の栄光を求めて王座を返上した時、セルバンテスは再び王座を手にした。
1977年6月、セルバンテスはカルロス・マリア・ヒメネスを5ラウンドで下し、再びWBAのストラップを手に入れた。その後、アドリアーノ・マレロ(UD15)ミゲル・モンティリャ(UD15、TKO7)を破り、合計6回の防衛に成功。タイ、南アフリカ、アメリカ、韓国で試合を行った。
アーロン・プライヤーの登場だ。
1980年8月2日、セルバンテスは初回に猛威を振るった挑戦者からダウンを奪うも、プライヤーの反撃を受けて4ラウンドにノックアウトされた。セルバンテスはその後数回しか戦わず、1983年12月に無名のダニー・サンチェスに敗れた。
通算戦績は91勝12敗3敗、45KO。
引退後、セルバンテスは水道橋、高速道路、エネルギー資源の開発に尽力した。また、長年薬物問題と闘っていたが、現在は麻薬とは無縁だ。
セルバンテス
「リングの外では良いことはあまり書かれない、悪いことの方が新聞が売れるから。自慢するのは好きではないが、私は地元の人々や町を助けてきたし、今でもできる限りのことをしている。若者には、酒やドラッグ、パーティーなどの悪徳行為には近づかないように言っておきたい。飲酒、ドラッグ、パーティーなどの悪徳は、すべてのものを奪ってしまうのです。家族や本当の友人の協力で、私はついにやめることが出来ました。」現在74歳のセルバンテスは、ボリバル州のトゥルバコの農場で妻と二人で暮らしている。11人の子供がいて、そのうち3人は現在の妻との間に出来た子だ。多くの孫やひ孫もいる。
セルバンテス
「私には多くの浮き沈みがあった。でも最近は元気にやっています。」
ライバルについて
ジャブ アドリアーノ・マレロ
ジャブで非常に鋭く、懸命に打ってきた。
ディフェンス ニコリノ・ローチェ
非常に巧みで、アンタッチャブルな男だった。
ハンドスピード ウィルフレッド・ベニテス
両手の速さは地獄のようだった。
フットワーク ベニテス
彼は横にも後ろにも滑らかに上手く動いた。
クレバー ニコリノ・ローチェ
パンチの行方がわかっているようだった。
屈強 ライオン古山
15ラウンドずっと前に出てきて強く殴り続けたのに傷つけられなかった。
ベストパンチャー アーロン・プライヤー
106戦して2回しかKO負けがないが、そのうち1回はプライヤーに止められた。恐るべきパワーを感じた。
ベスト・チン 古山
バットで殴っても倒せなかっただろう。
ベストボクシング ベニテス
若いのにボクシングのすべてを知っていた。
総合 ベニテス
シンプルに最高の相手だった。
セルバンテスの時代は私のリアルタイム観戦の時期ではないが、振り返るにつけ、最も崇高で偉大なジュニアウェルター(スーパーライト)級だったかもしれない。
コロンビア初の世界王者にして未だに最高峰だろう。
個人的にはバンタム級のミゲル・ロラも大好物だ。
コロンビアには短命に終わっても印象深い王者が多い。
治安はしこたま悪い。
今と違い、世界王者になったらアメリカで戦っていけばいいのではなく、セルバンテスは世界中を旅した。
日本でも
ライオン古山
門田恭明
バトルホーク風間
らを下している。
ライオン古山がタフネス部門の2冠を制しているのがうれしいが、技術的には遥かに敵わぬ名王者だったことだろう。ゆっくりと見直してみたい。
以下、セルバンテスのライバルたちの記事も紹介したい。この頃が、(ただの翻訳だが)個人的にも書きながら感動していたほどの良記事だとおもう。
プライヤー
総合 アントニオ・セルバンテス
キャリアを振り返ると彼が一番だったとおもう。セルバンテスにはプロで100戦のキャリアがあった。10年間、2団体で王者に君臨していた。初回に俺はダウンして立ち上がり逆転KOしたんだ。セルバンテスが俺のキャリアでは一番偉大な男だった。
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