知ってる人はいるだろうか?
彼は決して誰に負けるわけでもなく、底知れぬ才能を宿したまま、この世界を去っていった、やばい奴だった。
レジリオ・ツール(Regilio Tuur、1967年8月12日 - )はオランダのプロボクサー。
スリナム パラマリボ出身。第6代WBO世界スーパーフェザー級王者。
ダウンやストップされた経験がなく(敗戦は全て僅差での判定負けだった)
カウンター一撃で序盤中盤に倒す速攻や終盤に倒すことも出来た万能型の選手。
1988年ソウルオリンピックに出場したが準々決勝で今大会で銀メダルを獲得するダニエル・ドミトレスク(ルーマニア)に0-5の判定負けを喫し敗退した。なおツールは1回戦でいきなりのKO勝利と3回戦では初回レフェリーストップ勝ちを収めるなど強打を発揮した。特に上記の1回戦で優勝候補と言われたケルシー・バンクスを破った時は今大会最大のサプライズと言われる大波乱を演出した。
「一体何が起きたんだ、あいつは何者だ?」
世界選手権覇者にして優勝候補のケルシー・バンクスは、オランダから来た無名のスリナム人を楽な相手とみていた。しかし1分50秒後に倒れていたのは自分だった。右ストレート一閃、その後数分間気絶していた。
1967年、スリナムのパラマリボで生まれたレジリオ・ツールの衝撃の映像は世界を一気に駆け巡った。彼はオリンピックの前年にヨーロッパのアマチュア選手権で銅メダルを獲得していたが、世界的には無名の選手だった。一部の専門家やハンガリー人のコーチ、ジュラ・ボディスだけが、この小さな黒人ファイターの素晴らしさを知っていた。
しかしツールのオリンピックの冒険は準々決勝で終わりを告げた。
その後、ツールはニューヨークでプロ契約を結び、ボクシングのメッカ、マジソン・スクエアガーデンでデビューし、若きヒーローとしての地位を獲得していく。ツールのプロとしてのキャリアは印象的で、51戦46勝30KO4敗1分という記録を残した。
人生のハイライトは、1994年9月24日、ロッテルダムのスポーツパレイス・ホールでオスカー・デ・ラ・ホーヤの返上で空位になったWBO世界スーパーフェザー級王座決定戦で、エウゲン・スピードと対戦し12回3-0(118-108、118-110、117-109)の判定勝ちを収め王座獲得に成功。
当時ツールの周りにはたくさんの人がいた。母親、兄弟たち、大勢の友人、ツールにとっては負けることの許されない戦いだった。そのため、ツールの陣営は「夢を見るな、夢になれ」と書かれたキャップを被って試合に臨んだ。
ソウルでジャイアントキラーとしてスタートし、1997年初頭に終止符を打った彼の騒しいキャリアにピッタリのスローガンだった。
それは、仕事でもプライベートでも常につきまとった。
ガールフレンドに対する虐待で有罪判決を受けたツールはニューヨークに戻り、脚本通りの人生を送った後、ロッテルダムでファッション会社を経営するも破綻した。現在ツールは再びアメリカにやってきて、様々なアドバイザーやコンサルタントをしているという。
1995年3月9日、後のIBO世界ライト級王者トニー・ペップと対戦し12回3-0(117-111、119-109、116-112)の判定勝ちを収め初防衛に成功。
1995年6月17日、ペテ・タリフェッロと対戦し5回2分43秒TKO勝ちを収め2度目の防衛に成功。
1995年9月16日、元WBA世界スーパーバンタム級王者ルイス・メンドーサと対戦し11回TKO勝ちを収め3度目の防衛に成功。
1995年12月23日、アムステルダムのRAIでギオルギオ・カムパネイラと対戦し12回3-0(118-110、119-109、119-111)の判定勝ちを収め4度目の防衛に成功。
1996年4月1日、ナルシソ・バレンズエラと対戦し12回3-0(2者が120-108、120-109)の判定勝ちを収め5度目の防衛に成功。
1996年9月6日、アトランティックシティのバリーズ・パークパレス・ホテル・カジノでホセ・ビダ・ラモス初回1分47秒KO勝ちを収め6度目の防衛に成功。
1997年初頭に王座に在位のまま現役引退を表明。WBO世界スーパーフェザー級王座を返上した。
2001年8月30日、フレディー・クルスと対戦し8回判定勝ちを収め5年振りの復帰戦を白星で飾った。
2001年11月23日、後の世界2階級制覇王者オルランド・サリドと対戦し8回1-2の判定負け。なおツールがスーパーフェザー級で試合をすることが5年振りだった。
2001年12月20日、ショーン・シモンズと対戦し2回KO勝ち。
2002年5月2日、ジミー・ゼイキレと対戦し2回KO勝ちを最後に正式に引退。
ニューヨーク州ライト級王座
EBUヨーロッパスーパーフェザー級王座
第6代WBO世界スーパーフェザー級王座(防衛6=剥奪)
知ってる人はいるだろうか
格闘技はさかんでも、オランダのボクサーは珍しく、スリナムというのもまたまたミステリアスだ。だから、名前だけはずっと前から知っていた。運よく王者になれたタイプの短命王者だったのかなくらいの印象で。
人生の主役/中垣龍汰朗と松本圭佑
この記事を書き、「人生の主役」つながりで
大人になることは人生の主役を降りること/ケビン・ケリー
この記事を紹介したら、ケリーのマネージャーだったと知り、調べてみて驚愕、今のスーパーフェザー級より強いのではないか。
オルランド・サリド
「フィジカルがとても強かった。何度か私の方が大きくて強いんだと忘れそうになった。」
サリドと戦ったのは、6度の防衛に成功後、無敗のまま王座を返上(はく奪)し5年後の復帰戦でのことである。1-2の惜敗。その後も2試合し共に2回KO勝ちでそのまま引退した。
実質、世界王者、ボクサーの終止符としては無敗のままの立派な記録だ。
スリナム出身のオランダ人、レジリオ・ツールがプロデビューに恵まれたのは、ソウルオリンピックでの衝撃があったからだろう。ケルシー・バンクスというアメリカ代表は、183センチもあるフェザー級で、アマチュアで500戦以上のキャリアがあり、世界選手権はじめ数々の大会で金メダルを獲得してきた大物だった。
バンタム級でケネディ・マッキニーが金
ライトヘビー級でアンドリュー・メイナードが金
ヘビー級でレイ・マーサーが金
スーパーヘビー級でリディック・ボウが銀
ライトミドル級でロイ・ジョーンズ・ジュニアが銀
だった時のメンバーだ。
調べてみると、オシャレなレジリオ・ツールの写真がいっぱいあるが、ボクシングに関してはほぼ見つけられず、あってもオランダ語なので、解読不可、現状精一杯の記録として残しておくことにした。
モテちゃって、プライベートで色々あったのだろう。
独自のオーラと色気があります。
是非、リアルタイムで観たかったファイターだな。
南北アメリカ唯一のオランダ語圏、スリナムのミステリアスにして底知れぬ天才、それが(Tuurrific=やばい)レジリオ・ツールだ。
記録をみる限り、もっと活躍できた、レジェンドクラスの天才だったかもしれない。
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