6オンスのオデッセイ/アキーム・アニフォウォシェ

アニフォウォシェにとって、彼が夢にまで見たタイトルを手にするきっかけとなったオデッセイは、ナイジェリアのラゴスから始まった。

https://www.youtube.com/watch?v=amvMztlthPQ

彼が涙を流したのは、筋肉が衰えて棒のようになった足と、かつては細く研ぎ澄まされた体が、エル・グレコの絵の中の人物のように衰えていたからだ。

アキーム
「私は何度も泣いています。鏡で自分の姿を見るたびに、『あぁ、ダメだ』と言ってしまいます。」

22歳のAnifowoshe(Anna-fee-OH-sheeと発音)は言った。

しかし、それ以上に彼の目には見えないものがあり、彼の心は現実を拒絶していた。

これらの怪我は、アキームがボクシングの世界タイトルマッチの人生最高のチャンスから、昏睡状態と車椅子、死の淵に彼を導いた悲惨な数週間の始まりだった。

キロガとの試合の残忍な結末は、ボクシングの新たな問題を提起した。

アキームを除く誰もが、若いナイジェリアの移民、自分自身の人生を作るチャンスを夢見、オリンピックを目指した有望な選手は事実上終わったと感じていた。しかし、アキームだけは、彼のキャリアが終わったとは思っていない。深刻すぎるダメージにもかかわらず、彼は信じられないほど、再び戦うんだと主張した。

彼をここまで導いた世界タイトルマッチは、1991年6月15日に王者キロガの故郷サンアントニオで行われた。キロガが全会一致の判定で勝者と宣言された直後、キッド・アキーム(Kid Akeem)は片膝をついて沈み込み、突然キャンバスに倒れ込む前に血を吐き始めた。

ジェラルド・ザバラ博士(リングドクター)
「私がリングに上がる頃には、アキームは痙攣を起こしていた。意識がなく、呼吸困難で、右目の瞳孔が拡張していました。瞳孔が拡張しているということは、脳が頭と首の背骨の間にある穴を押し通そうとしていることを意味します。脳の圧力が非常に高くなっていました。歯磨き粉がチューブを破って出てくるような状態です。」

一人の男の災難と不幸は、すぐにボクシングの議論のネタになった。

アキームの負傷により、小柄な男がタイトルマッチで6オンスのグローブを使うことに疑問が生じた。アニフォウォシェが23試合で着用した8オンスのグローブではなく、キロガやアキームは試合時6オンスのグローブを着用していた。

テキサス州のボクシング当局は、重いグローブの方が怪我を防ぐことができると主張し、IBFは軽量級のタイトルマッチで軽いグローブを使用していると非難した。

IBFのボブ・リー会長は、重いグローブは、試合が進むにつれて小さなファイターを危険にさらす可能性があると述べ、ルールを擁護した。6オンスのグローブは他のタイトル戦で使用されているが何の問題も発生していない。しかしルールを変更することを検討すると述べた。

その夜のダメージは一方的なものではなかった。115ポンドとはいえ、細身のアニフォウォシェは常にヘビーパンチャーであり、それをキロガにも見せつけた。試合終了時には、キロガの顔は血まみれで腫れ上がっていた。

後にリングサイドでは、この試合がキロガのホームグラウンドで行われていなければ、試合は中止され、アニフォウォシェが勝利を手にしていたかもしれないとの声も聞かれた。最後のゴングでは、キロガは敗者のアキームよりもダメージがあるようにみえたほどだ。

昏睡状態のアキームがサンアントニオのバプティスト医療センターの集中治療室で治療されている頃、キロガも緊急治療室で、顎、左の眉毛とまぶたの切り傷の手当てを受けていた。退院して間もなく、キロガはIBFは6オンスのグローブの使用を禁止すべきだと語った。勝利は容易ではなかったことを十分に認めた。

試合後のレポートによると、アキームは頭部に400以上のパンチを受けていた。対照的に、先月のマイク・タイソンとドノバン・ラドックの12ラウンドのヘビー級戦では、交換されたパンチはずっと少なかった。

アニフォウォシェのマネージャー、ビリー・バクスターは、負傷の原因となったのはグローブのせいではなく、試合の激しさだったと述べた。

ビリー・バクスタ
「グローブよりも試合内容によるダメージが大きかった。どちらのファイターもクリンチをしなかった。毎ラウンド3分の壮絶な打撃戦だった。」

医師が脳への圧力を和らげるために頭蓋骨に穴を開けた後、アニフォウォシェは7月4日まで病院に入院していた。 その日は医師の助言に反して、妻シャロンが夫をラスベガスに連れて帰った日で、彼は3歳のアキーム・ジュニアと1歳半のカゼーム、2人の息子と再会した。

家族はスティールヘッド・レーンにある2ベッドルームの質素なアパートに住んでいた。

アニフォウォシェが退院する前日、磁気共鳴画像検査の結果、脳の両側に小さな損傷があることが判明した。ファイターの怪我の全容は2、3カ月は分からないだろうとおもわれた。

アニフォウォシェが退院した日、彼は入院後初めて左足を動かすことができた。医師は、アニフォウォシェが3~6ヶ月で歩けるようになることを示していると予想しているが、全体的な見通しについては悲観的な見方をしているわけではない。

ザバラ博士
「正直に言えば、アキームが完全に回復する可能性は30%しかないだろう。肉体的な力を完全に回復したとしても、彼は重度の再負傷のリスクが高いため、再び戦うことを考えるのは愚かなことだ。」

しかし、アニフォウォシェは彼の怪我を、目標である世界タイトルに到達するための一時的な後退に過ぎないと考えている。

アニフォウォシェ
「信じてくれ、私はまた戦う。すべては私にかかっている。キロガが与えたダメージは ボクシングの将来を示唆するものではない。言っておくよ。私は毎日祈っているし、人々にも祈ってもらっている。キロガは私に何のダメージも与えていない。判定がショックで倒れてしまったんだ。」

しかし、昏睡状態は脳の損傷を示す明確な兆候だ。
アニフォウォシェは少し考えてからこう言った。

アニフォウォシェ
「信じてください、私が昏睡状態にあるとき、私は自分に何が起こっているかわかっていました。わかっていたんです。聞いてください。私に起こったことは、私の心を混乱させました。毎日頭にきているんだ。病院でキロガに会っても言うんだ。ロバート、俺は勝ったんだ、もう1度やろうと。キロガは私を見て言った。お前はクレイジーだ。

私はまだ世界チャンピオンになることを考えている。できるだけ早く復帰したい。信じてくれ、また戦うためなら何でもするよ。スロー・バイ・スロー、時間をかけて。夢はまだ終わっていない。」

アニフォウォシェにとって、彼が夢にまで見たタイトルを手にするきっかけとなったオデッセイは、ナイジェリアのラゴスから始まった。

彼はそこで9人の子供たちの家族の中で育った。

父親のアシュルはトラック運転手、母親のニモタはバーを経営していた。

アニフォウォシェがボクシングを始めたきっかけは、コミカルなものだった。

姉に殴られた後、兄のダダが彼をジムに連れて行ってくれたのは、自分の身を守るためだった。しかし、当時9歳だったアニフォウォシェはストリートライフに興味を持ち、ジムに通うのをやめるまでに時間はかからなかった。12歳になると、彼は「ハッパ」を吸ったり、バス停でうろついたりしていたという。

14歳の時、財布を奪った女性に反撃され、ひどく殴られたので、彼はジムに戻り、再びボクシングを始めた。その後もボクシングを続け、地元や全国の大会で優勝するようになった。

1984年には、ナイジェリアのオリンピックチームの一員となる。大会会場となったロサンゼルスで、彼は年齢の記入を求められたところ、正直に「15歳」と書いてしまった。彼は不適格と宣言された。

しかし、彼はナイジェリアに戻るのではなく、アメリカに残り、1988年の大会を目指すことにした。

1960年代半ば、ジョブ・コープでジョージ・フォアマンを発見したブロード・ウスは、ラスベガスに住んでいた。アニフォウォシェがここに到着した時は夜で、街はネオンに照らされていた。

昼間になると、砂漠での生活はそれほど華やかではないことがわかった。車を持っておらず、常にお金が不足していた。それでも彼は日常的に他人、特に同胞のアフリカ人にお金を貸し、ブロード・ウスと暮らしていた時も、後に自分の家で暮らしていた時も、避難所のない人たちを家賃なしで泊めていた。

1986年5月、リノで行われた世界アマチュア選手権に出場したアニフォウォシェは、準々決勝でソ連のボクサー、ユーリ・アレキサンドロフを相手にした試合で審判の判定に被害を受け、抑えきれないほどの涙を流したという。

アニフォウォシェ
「私の人生、私の人生。毎日トレーニングしてきた。毎日トレーニングしてきた。私の人生、私の人生」

失望がオリンピックの野望を放棄させ、代わりに1987年1月にプロに転向した。

アニフォウォシェはほぼ隔月で戦い、350ドルから600ドルの賞金を得て、ランチョ高校の3年生のカリキュラムに合わせて試合をアレンジした。

アニフォウォシェ
「私はストレートAの生徒だった。学校が好きな人はいないだろうが、何をするにしても一番を目指すべきだ。」

その献身はボクシングにも及んだ。

ミゲル・ディアス(トレーナー)
「彼はいつもスパーリングを要求していた。もう1ラウンドやらせてくれと言っていた。彼は仕事を恐れていませんでした。誰にも口答えしない。いつもありがとうと言う。彼は 他の世代から来た子供だった。」

1988年5月 シャロンとアキームは結婚した。彼の賞金が1試合1000ドルを超えることはめったになく、家族を養うのに十分な額ではなかったが、バクスターはアニフォウォシェに世界王者の夢を託し、彼の家賃を支払い、小遣いを渡して、ファイターをサポートしていた。

バクスターの目標は、アキームと同じだった。キロガと戦うことで、アニフォウォシェは15,000ドルというささやかな世界戦の賞金を得ることになるが、これは前戦の最高額である7,000ドルの2倍以上だ。

ナイジェリアの大統領は、試合前の楽屋で、アニフォウォシェが母国で初のタイトル防衛戦を5万から6万人の同胞で埋め尽くされた屋外スタジアムで行うことを想像していた。

友人であり、マネージャーでもあるナムディ・モウェタは、アニフォウォシェと同じくラゴス出身で、部族語で「お前はライオンだ」と言って彼を鼓舞した。

それから3週間余り後、彼はベッドに横たわり、傷ついた男が夢を手放さないようにしていた。プロモーターの保険では 1万ドルしか補償されなかったが、彼の医療費はそれをはるかに超えるだろう。

日曜日、バクスターはラスベガスに飛んだ。バクスターはアニフォウォシェのための無料の物理療法を手配し、彼をサポートするための財団と共に、アニフォウォシェの治療に全力で奔走した。漠然とした人生の中で、心配することがたくさんあった。

2日後、バクスターは彼のアパートを訪れた。

「今日は散歩してたんだ」

アニフォフォシェはベッドの上から言った。

「外に出て15分だけ。」

バクスターは懐疑的な顔をしていた。

「助けがいたのか?」

「妻のシャロンが私の後ろを歩いていた、念のために。」

2時間後 彼がリビングルームに移動できるように足を助けられた時、アニフォフォシェは左足を前に動かそうとしたがその場で固まってしまった。何度も試してみたが足は動かなかった。結局、義父のウィリー・スコットが彼を腕に抱きかかえ、リビングルームの車椅子まで彼を歩かせた。」

それから間もなく、シャロンが、夫の薬を持って家に戻り、その朝、本当に外を歩いたのかと聞かれた。

シャロンはそんな事実はないと言った。

1991年6月15日
IBF世界ジュニアバンタム級タイトルマッチ

王者ロバート・キロガ(17勝11KO)VS挑戦者アキーム・アニフォウォシェ(キッド・アキーム)(23勝18KO)

この試合こそ、階級屈指の歴史的名勝負だった。
これを超える試合は未だかつてない。
世界王者になれなかった最強の男をみた。

しかし、敗者だけでなく勝者の栄光、運命も一瞬の花火と消えた。

ナイジェリアの褐色の長身強打者、アキーム・アニフォウォシェはキロガへの敗北が致命傷となり、23勝18KO1敗という記録で引退した。一命をとりとめたアキームはその後麻薬密売に手を染め、ナイジェリアに強制送還された。

ナイジェリアでボクシングを再開したが、1994年、わずか26歳で亡くなっている。

禁止されている試合に出てシャワー室で倒れたという説やトレーニング中に倒れたとも言われている。いずれにせよ、キロガ戦の敗北とダメージが彼の運命を決めたのだろう。

トレーナーのミゲル・ディアスは、アキームがこれまでに訓練した中で最も自然な才能を持っていたと語った。

https://www.youtube.com/watch?v=NXwYm_4MOsA

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