運命の結末まで数マイル/ロバート(PIKIN)キロガ

ロバート・キロガVSアキーム・アニフォウォシェ
ファイトオブザイヤーをもたらした偉大な2人の運命の結末はすぐそこにあった。

https://www.youtube.com/watch?v=LrIuJYibyaQ

ロバート(PIKIN)キロガは2人の兄弟と姉とテキサス州サンアントニオで育った。

ボクシングに恋をしたキロガは、10歳の時に母親に頼んで、生涯のトレーナーとなるジョー・ロペスを紹介した。ロペスは自宅の庭でボクシングを教えているだけで、ボウリングの玉の会社で働いていた。ジムといっても、木にぶら下がっているサンドバッグがあるだけだった。

「PIKIN」には才能があることがすぐにわかったが、彼がこの町で最初の世界チャンピオンになることを期待した者はほとんどいなかった。勇気、情熱を備えた偉大な世界王者になれる者はごくわずかだが、ロバートはそのうちの一人になった。

プロデビューから14連勝を経て、1990年4月21日、世界初挑戦がキロガ初の海外試合。イギリスのクラウツリー・レジャー・センターでIBF世界スーパーフライ級王者ファン・ポロ・ペレスと行い、12回3-0の判定勝ちを収め王座獲得に成功。サンアントニオで初めての世界王者に輝いた。

https://www.youtube.com/watch?v=9saK258ADIM

1990年10月6日、イタリアシチリア州パリアーラのタウン・スクエアーでブヤニ・ネネと対戦し初回と3回にダウンを奪うなど優位に進め3回終了時棄権によるTKO勝ちを収め初防衛に成功。

1991年1月26日、シチリア州カーポ・ドルランドのプラゼット・デッロ・スポートでビンセンゾ・ベルカストロと対戦しキャリア初の苦戦を演じながらも12回2-1の判定勝ちを収め2度目の防衛に成功。

1991年6月15日、24戦無敗のキッド・アキーム(本名、アキーム・アニフォウォシェ)と対戦

接戦になりながらも12回3-0の判定勝ちを収め3度目の防衛に成功。壮絶な打ち合いの試合が評価され1991年度リングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。アキームは試合後意識を失って病院に搬送され急性硬膜下血腫と診断され、すぐに開頭手術を行うほどの激闘で、この試合を最後に23歳で現役を引退した。

https://www.youtube.com/watch?v=LrIuJYibyaQ

この試合はリングマガジンがファイトオブザイヤーに選出、史上最高のスーパーフライ級の戦いと伝えられている。

その後もキロガは2度の防衛を重ね5度の防衛に成功しIBFから特別表彰された。

1993年1月16日、サンアントニオのフリーマン・コロシアムでフリオ・セサール・バルボアと対戦し初黒星となる12回2分30秒TKO負けを喫し6度目の防衛に失敗し王座から陥落。

敗北による傷心でブランクをつくり、1995年1月7日、2年振りの復帰戦をフリーマン・コロシアムでアンシー・ゲデオンと対戦するが、3回にダウンを奪われるなど劣勢で8回0-2の判定負けを喫した試合を最後に現役を引退した。

2002年にサンアントニオスポーツ殿堂入り。

引退後、地元で愛されたキロガは自動車販売のセールスマンとして実績を出し、年間最優秀賞に輝くなど、第二の人生を謳歌していたが、モーターサイクルで活動の幅を広げようとした際、2004年8月16日、所属グループのメンバーとトラブルになり刺殺された。34歳没。

ジョー・ロペス
「彼は私にとって息子のようでした。ロバートは素晴らしい人でした。10月10日が彼の誕生日だが毎年祝うことはしない。なぜなら一刻も忘れることなく毎日彼のことを考えているから。」

後に人々に愛されたロバート・キロガを追悼する映画が作られた。

多くのレジェンドを発掘していきたいがそろそろ枯渇してきた。
私自身がロバート・キロガあたりからボクシングに夢中になりはじめたから、それ以前のレジェンドをあまりよく知らない、試合を観たことのない選手は書けない。

キロガを刺殺したのは、地元の同級生で、弟によると昔から最悪のいじめっ子だったという。他にも殺人を起こしている凶悪犯だったというが現在も服役しているらしい。

ロバート・キロガは当時IBFの王者で日本とは無縁だったが、これが鬼塚勝也やピューマ渡久地の目指す世界かとおもうと気が重くなる、小さく子供のような風貌だが、エネルギッシュでテクニカルで総合力が高い、無敵の王者だった。

しかし、そんなキロガも、全勝プロスペクト、アキーム・アニフォウォシェには敵わない、殺られるに違いないとおもっていた。高いKO率で全勝のキッド・アキームはどこか昔のキッド・チュコレートのような怪物的なムードがあったからだ。

ロバート・キロガVSキッド・アキーム・アニフォウォシェ

はボクシングの醍醐味が全て詰まった最高の試合だった。
これがあるから今でもこの2人の名前を憶えているのだ。

ナイジェリアの褐色の長身強打者、アキーム・アニフォウォシェはキロガへの敗北が致命傷となり、23勝18KO1敗という記録で引退した。一命をとりとめたアキームはその後麻薬密売に手を染め、ナイジェリアに強制送還された。

ナイジェリアでボクシングを再開したが、1994年、キロガより早く3年後、わずか26歳で亡くなっている。禁止されている試合に出てシャワー室で倒れたという説やトレーニング中に倒れたとも言われている。いずれにせよ、キロガ戦の敗北とダメージが彼の運命を決めたのだろう。

トレーナーのミゲル・ディアスは、アキームがこれまでに訓練した中で最も自然な才能を持っていたと語った。

ロバート・キロガ自身も、アキームとの試合で急激にピークを過ぎたようにおもう。それほどの死闘だった。

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