釜山港へ帰れない/(コリアンホーク)張正九

インタビューを追記しました。残念ながら日本人は入っていませんでしたが・・・

TVでは少女漫画に出てくるような化粧をした韓国人が歌ったり踊ったりしているが、私の知る韓国人はあんな顔ではない。岩のようにゴツく、弁当箱のように四角く、根性があった。どうして韓国のボクシングは衰退してしまったのだろう?

リカルド・ロペスこそ歴史上最も偉大な「リトルガイ」(フライ級以下)と評価されることが多いが、「コリアンホーク」張正九もスタイルにおいて恐ろしく(完全なる対称)、初期に駆け抜けた軽量級の時代に抜き出た記録を残した1980年代を代表するファイターの一人といえる。

張正九は1963年2月4日に韓国の釜山で生まれた。貧しい家庭の五人兄弟の末っ子だった。


「子供の頃はケンカばかりしていました。サッカーもしていました。1975年のベン・ビラフロアVS金賢治の試合をみてボクシングに興味を持ちました。1975年8月11日に釜山極東総合体育というボクシングジムに入会しました。」

韓国のチンピラ、ストリートファイターだった張正九はアマチュアのキャリアもないままに、17歳でプロデビュー。それまでまともにボクシングを学んだことはなかった張のスタイルはいわゆるフリースタイルで荒っぽく、気性の激しさと野性で勝ち抜いてきた。元世界王者アマド・ウルスア、アルフォンソ・ロペスなどの強豪をことごとく退け、世界タイトル挑戦権を獲得。

1982年9月19日、19戦目で世界初挑戦。WBC世界ライトフライ級王者イラリオ・サパタ(パナマ)に挑むも、15回判定負け。プロ初黒星を喫した。試合の数日前にガラス片を踏んで足の裏を負傷していたが、王者相手に予想以上の健闘を見せた。

1983年3月26日、サパタに再挑戦。3回KO勝ちでWBC世界ライトフライ級王座獲得。

サパタは後にフライ級で世界王者に輝いた。


「20歳でWBCジュニアフライ級王者になった時が最高の想い出です。故郷の釜山で凱旋パレードをしました。」

その後もソット・チタラダ、ヘルマン・トーレス、大橋秀行、渡嘉敷勝男などを打ち破り王座を15度防衛。限界を知らぬファイトを続けていった。優れたラッシングパワー、ヘッドムーブ、生粋の巧妙なダーティーテクニックなど、ボクシングだけをやってきたエリートに対する潰し屋、倒し屋の才を存分に発揮した。元来の気性の激しさと底なしの体力がスポーツであるボクシングと出会い融合していった稀有な才能といえた。

しかし1988年、大橋秀行との再戦で勝利した張は意外にも25歳の若さでボクシングから離れることに決めた。


「ボクシングだけに集中していたので、リング外で様々な問題が生じました。妻とケンカして離婚してしまいました。ボクシングができる精神状態ではなく、引退を決意しました。」

1988年11月、WBC世界ライトフライ級王座を返上しブランク明けでの2度目のボクシング人生は順調にはいかなかった。


「詐欺に騙され、金に困ってボクシングに復帰しました。しかし心身ともに以前のようにはいきませんでした。」

それでも誰に対しても手ごわい戦いを強いており、ライトフライ級の歴史では比類のない名王者といえた。

1989年12月9日、通算3度目の世界挑戦。張が返上したWBC世界ライトフライ級王座を6月に獲得したウンベルト・ゴンザレス(メキシコ)に挑むが、12回判定負けで王座返り咲きならず。

1990年11月24日、2階級制覇を目指し、WBC世界フライ級王者ソット・チタラダ(タイ)に挑む。ライトフライ級時代以来、6年ぶりの再戦となったが、両者ともに初戦とは比べるべくもない低調な内容の末、僅差の12回判定負け。王者に6年前の雪辱を許す形となり、2階級制覇を阻まれる。

張の勝利を推す歴史家も多く実質2階級制覇同然の内容と言えた。

1991年5月18日、フライ級での世界再挑戦。2月15日にチタラダを破ってWBC世界フライ級王座を獲得したムアンチャイ・キティカセム(タイ)に挑む。5回に2度、11回に1度のダウンを奪い、王座奪取目前にまで迫るが、最終12回、残り1分を切ったところで王者の逆襲に遭い、2度のダウン。2分38秒レフェリーストップによるTKO負けとなり、またしても2階級制覇を果たすことはできず、結局この試合を最後に引退した。

アーロン「ザホーク」プライヤーを連想させる容赦ないファイトスタイルで「コリアンホーク」と呼ばれた張は、パンチ、フットワークのスピード、防御、スタミナが旺盛なエネルギッシュなファイターだった。韓国釜山のストリートファイターから生まれた野性の才能だった。

2010年、張は国際ボクシング殿堂入りした最初の韓国人となった。

ライバルについて

ベストジャブ ソット・チタラダ

とてもキレイなフォームから教科書的なジャブを突いてきたので、穴を探すのが難しかったです。

ベストディフェンス イラリオ・サパタ

背が高く柔軟でパンチを当てるのがとても難しかったです。

ハンドスピード ウンベルト・ゴンザレス

パンチがとても速いのに体幹が強くバランスがしっかりしていた。

フットワーク サパタ

柔軟性があり、距離感も抜群でいいフットワークを持っていました。

ベストチン イシドロ・ペレス

12ラウンドにわたって彼を殴り続けましたが、どこも怪我をしなかったようだ。最後までピンピンしていた。

スマート サパタ

とてもディフェンシブでパンチを食わない。ポイントを取るのが上手く賢いボクサーでした。

屈強 ウンベルト・ゴンザレス

自分がベストコンディションではなかったけれど、激しく彼を殴ることはできました。しかし彼はフィジカルが強く頑丈でした。

ベストパンチャー イシドロ・ペレス

初回にダウンさせられてとても効きました。大変な試合でしたが、手を出し続けてなんとか勝ちました。

ベストスキル ゴンザレス

彼には多彩なテクニックがあり、それを上手く使い分けることが出来た。

総合 ゴンザレス

常に動き続け、試合を上手く支配した。

政治的に緊張状態が続く日韓関係だが、ボクシングファンとしては、おい、どうした、なんで衰退したんだ?という印象しかない。

日本に追いつけ追い越せで、日本を遥かに追い越してしまったような時代もあった。
防衛記録では張正九や柳明佑に日本人は遠く及ばない。

それでも、そんな韓国には井上尚弥や長谷川穂積のような優雅で華麗なボクサーは一人もいなかった。
ほとんど全てがド根性ファイターで我慢強いタフな男ばかり。

政治や文化、様々な理由で、そういうコリアン魂を失ってしまったのだろう。ボクシングなんてシビアなスポーツは受け入れられなくなってしまったのだろうか。

時代は変わったが、張正九や柳明佑を超えることが日本ボクシングのひとつの宿題だ。

彼らには日本人が忘れてしまったハングリー精神があった。なにくそ魂の塊ともいえた。

150年に一人といわれた大橋秀行も、そんな韓国の狂犬には敵わなかった。

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