友情は人を強くするばかり/(マンテキーヤ)サイモン・ブラウン

ボクシングの知識がすごいねとたまに言われるが、そんな事はない。書きながら知る、学ぶ事ばかりだ。サイモン・ブラウン。ブロッカーとの親友対決や、ノリスを痛烈に倒した試合が印象に残っている。どっちかというと黒人王者では珍しい愚直な前進ファイターだった。エキサイティングでタフな怖い倒し屋というイメージだったが、アメリカ人ではなくジャマイカ人だった事は今知った。

親友対決でブロッカーを倒したブラウンを畏怖していたが、読んでみると素朴で素晴らしい人柄で、いつも俺とか私と書くのを僕にしてしまった。

サイモン・ブラウンは1980年代から90年代にウェルター級、スーパーウェルター級で最高のファイターの一人だった。2つの世界タイトルをウェルター級で統一するとスーパーウェルター級でもタイトルを獲得し階級をひっかきまわした。素晴らしい業績だが、ブラウンはどちらかというと過小評価された世界王者のままだ。

1963年、8月15日にジャマイカのクラレンドンで生まれたブラウンはイサクとエヴァの6人の子供のうちの4番目で、バナナとサトウキビのプランテーションで働いて一家の家計を助けた。

家族がワシントンDCへの引っ越しを決めるまで、ブラウンはカリブ海の島で穏やかな暮らしをしていた。

ボクシングとの出会いは偶然だった。

ブラウン
「ジャマイカにはテレビがなかったのですが、アメリカではテレビがありました。1976年のオリンピック、シュガー・レイ・レナードとスピンクス兄弟のファイトをみてボクシングに恋をしました。」

1979年、ブラウンはボクシングを始め、ペペ・コレアと出会った。熱心にトレーニングを続け、16試合アマチュアの試合にも出た。そこで親友となる、未来のウェルター級世界王者、モーリス・ブロッカーと出会った。

ブラウン、ペペ、ブロッカーの3人は、ブロッカーのプロデビュー戦のためにアトランティックシティに向かった。しかしある試合で計量時に問題が発生し、ブラウンが代役として試合に出ることになった。

ブラウン
「リッキー・ウィリアムズという選手の対戦相手が現れず、彼らは私に出場を頼んできた。ペペは将来僕を一流のプロにすると言っていたけど僕にはプロレベルでの経験がなかった。でもペペの言葉を信じていたので、コンディションは常に万全で本心では急な依頼であっても自信がありました。」

ブラウンは正しかった。代役にも関らず4回判定で勝利。ジャマイカからの移民はその後数年間で17連勝を飾った。

1984年初頭、ブラウンはシュガー・レイ・レナードのスパーリングパートナーになり、彼のアイドルの復帰戦のサポートをした。

ブラウン
「ペペの計らいでスパーリングパートナーになれました。6週間キャンプをしました。レイには他に2人のスパーリングパートナーがいました。僕は月曜から金曜まで毎日レイと3回か4回のスパーリングをしました。素晴らしい経験になりました。」

(マンテキーヤ)ブラウンはウェルター級の頂点を目指して走り続けていたが、USBAのタイトルマッチでベテランのマーロン・スターリングにスプリットで敗れ初黒星。

ブラウン
「逆転しようと懸命に戦いましたが少し足りませんでした。もっと序盤から積極的に行くべきだった。スターリングに序盤をとられて後半巻き返したけど遅すぎました。」

財政的な問題で15カ月のブランクを経て、無敗のカナダ人ショーン・オサリバン含む連勝でブラウンは復活した。

ロイド・ハニガンがはく奪されたIBFウェルター級王座をタイロン・トライスと争うチャンスが舞い込んだ。1988年春、フランスで行われたこの決定戦は、ブラウンがもっとも誇りにおもう大事な瞬間、人生をかけたチャンスだった。

https://www.youtube.com/watch?v=T2kce1Gg_bY

ブラウン
「僕にとっては非常に大きな試合で人生の戦いでした。2回にダウンを奪われ、14回にノックアウトしました。それまで僕は15ラウンドまで戦ったことがなく、神の恵みによってそれを成し遂げました。」

世界王者となったブラウンは故郷のジャマイカで凱旋防衛試合を行い、ホルヘ・ヴァカを3回でストップ。

ブラウン
「僕のキャリアで最も楽しい瞬間でした。故郷で防衛戦が出来て幸せでした。みんな僕を大切に扱ってくれました。素晴らしい時間でした。」

その後ブラウンは世界各地を転戦した。スイスやハンガリーなどでも試合を行った。

ブラウン
「プロモーターのドン・キングが国際的な展開をしたかったので僕は多くの国で戦いました。どこであろうと気にしませんでした。」

これらの経験がブラウンを成熟させることになりアメリカでの防衛戦につながった。タイロン・トライスとの再戦を含め4度の防衛に成功。

この時点で、親友のモーリス・ブロッカーはマーロン・スターリングを下してWBC王者になっていた。ブラウンは1991年3月にブロッカーと統一戦をすることに合意した。

ブラウン
「僕とモーリス、僕らは血のつながった兄弟のようなものでした。何をするにしてもいつも一緒でした。モーリスが王者になった事で対戦が計画されました。彼は合意し僕も合意した。試合をみればわかります。僕らは互いに全てをぶつけあった。」

親友同士の対決、9回終了時、ブロッカーがわずかにポイントリードしていた。ブラウンは自分が劣勢だと自覚していた。

ブラウン
「はい、当時の僕のトレーナーである(元ウェルター、ミドル級王者)エミール・グリフィスは負けているからモーリスをノックアウトする必要があると言いました。それが僕が実際にやった事です。」

ブラウンの逆転KOによる決着。

翌日、2人の家族は一緒にディナーに出かけた。前代未聞の事であるが、ブラウンは自分が勝った親友への好意として長い間保持していたIBFの王座を返上した。

ブラウン
「モーリスに何かプレゼントがしたかったんだ。IBF王座を空けることでモーリスはグレンウッド・ブラウンとのタイトルマッチが実現し、見事にベルトを取り戻しました。」

ブラウンは全盛期で対戦者から避けられて望むようなスーパーファイトが実現できずにいた。

ブラウン
「当時はみんな僕を恐れていました。この左フックを食いたくない。(笑)みんな対戦を拒否しました。」

減量にも悩まされていたブラウンは1991年、名王者のバディ・マクガートの挑戦を受けよもやの判定負け。

ブラウン
「言い訳はしません。階級を上げるべきだった。出来る限りウェルター級にとどまったけど100%ではありませんでした。言い訳はしません。自分自身に負けました。」

脱水症状と死闘の果て、試合後は病院で5日間入院した。

復帰したブラウンは正式にスーパーウェルター級に階級を上げた。ドン・キングの興行の前座で勝ち続け、当時P4Pファイターの一角であったテリー・ノリスへの挑戦権を掴む。

網膜剥離で引退の危機を克服したブラウンは、ノリスが簡単に打ち負かした親友のブロッカーとアイドルのレナードへの復讐を誓い最強王者の弱点を研究した。1993年12月の決戦に備え、1カ月メキシコで高地トレーニングをした。オッズはブラウンに好意的でも1-30という大差、おおいなるアンダードッグだった。しかしブラウンはオッズなどみていなかった。

ブラウンはオープニングラウンドでノリスを倒し、2回、3回も大きなダメージを与え、4回、壊滅的な右クロスでノリスをスリリングに破壊した。

トロイ・ウォータースに勝って初防衛した後、2人は再戦、ブラウンは真っ当な評価を受け、110万ドルというキャリア最高の報酬を得たが返り討ちには失敗した。ノリスは初戦の反省を踏まえ、アウトボクシングで安全なファイトを展開、ユナニマス判定でブラウンはリベンジされた。

勇敢なパンチャー、ブラウンはその後も世界タイトルに挑み続けたが、ビンセント・ペットウェイにキャリア初のKO負け。

https://www.youtube.com/watch?v=Hl0z7ldEZmo

アーロン・デービスにも敗れた。ミドル級に上げるもロニー・ブラッドリーに判定負け。最後はIBF王者バーナード・ホプキンスに挑むもキャリア2度目のストップ負け。

https://www.youtube.com/watch?v=XGLVvajyiK8

通算戦績47勝34KO12敗

ホプキンス戦から6連敗しグローブを吊るした。

ブラウンは現在30年間連れ添う妻と4人の子供に囲まれ、メリーランド州ヘイガーズタウンで暮らしている。引退後もボクシングを続けボクシングアカデミーを経営、フルタイムでトレーナーをしている。

ライバルについて聞いた。

ベストジャブ モーリス・ブロッカー

モーリスはジャブを武器に勝ち続けてきた。バディ・マクガートもいいジャブを持っていたが難しいものではなかった。モーリスのジャブは相手を寄せ付けない、強く硬いジャブでした。中に入ろうとするたびにジャブで食い止めました。

ベストディフェンス バーナード・ホプキンス

B-Hopにパンチを当てるのは難しかった。ガードが非常にしっかりしていた。モーリスも大変でした。倒すには時間をかけてダメージを蓄積させ突破する必要がありました。トロイ・ウォータースもとてもスリックでブロックもよくディフェンスセンスが抜群でした。

ハンドスピード テリー・ノリス

テリーのハンドスピードはすごかった。あらゆる角度から多くのパンチを打ち込まれた。

フットワーク タイロン・トライス

僕は彼を追いかけて捕まえる必要があった。フットワークが良く本当に上手く動いた。少しもじっとしていませんでした。バディもいいフットワークを持っていた。僕がやっと追いついたら試合はもう終わっていました。

ベストチン ルイス・サンタナ

持てるパンチを全て当てました。彼はパンチを受けて平然と耐え続けた。スイスのマウロ・マルテッリも頑丈な男でした。

スマート ブロッカー

僕たちは何年もスパーリングをしてきました。彼を追いかけるのは大変だ。モーリスはパンチを当てるのが難しいファイターです。

屈強 ホプキンス

大きなミドル級でパンチもミドル級の本格的なものでした。フィジカルが強くいつもベストシェイプなファイターです。

ベストパンチャー ノリス

彼は様々なアングルからパンチを繰り出してくる。打たれることを恐れない。とてもパワフルなパンチャーでした。

ベストスキル バディ・マクガート

リングをとてもよく動く、とどまる事を知らない。とてもいいボクサーで、打っては動きパンチを当てさせてくれませんでした。

総合 ホプキンス

彼は賢いファイターです。パンチの打ち方、外し方が実に巧妙です。リーチと背の高さを生かす事を知っている。あらゆる面で優れたファイターで、ミドル級ではトップレベルでしょう。でも、僕とは体格が違った。ミドル級は僕のクラスではなかった。ホプキンスがウェルター級だったらノックアウトしてやるよ。

素朴に朴訥に語っているが、ジャマイカでバナナとサトウキビのプランテーションで働いていた少年の駆け上がった階段は凄まじい。代役でプロデビュー、アメリカではじめて手に入れたテレビで観たヒーロー、レナードのスパーリングパートナーになり、大親友のモーリス・ブロッカーと共に世界王者の夢を実現し、そのまま親友との統一戦。ヒーローのレナードに引導をわたしたノリスをノックアウト。

現実とはおもえないようなサクセスストーリーだが、純粋なひたむきさや潜在能力が半端なかったのだろう。このレベルで起こる話としては出来過ぎ、凄すぎです。

こうしてキャリアを振り返ると、30代後半、全てを成しえた後、増量の果てに屈強な王者に屈し、そこから急激にキャリアが終焉を迎えるというパターンが多い。これがボクサーの、人間としての限界なのだと物語っているかのようです。

通算戦績47勝34KO12敗とあるが、ホプキンス戦含め最後は6連敗なので、それを除けば難攻不落の名王者の戦績だ。

テリー・ノリス戦でへっぽこぶりをみせたルイス・サンタナがベストチンに選出されているのは面白い。本当は打たれ強い奴だったのだ。

改めて彼らの時代を振り返ると、前回書いたテリー・ノリスのセンスにサイモン・ブラウンの屈強さが加われば最強モンスターの出来上がりだ。

素朴で正直で友人想いのジャマイカン、(マンテキーヤ)サイモン・ブラウンを好きになった。

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