トレインスポッティング/ロッキー・ロックリッジ

クラックブーム(Crack epidemic)とは、アメリカでクラック・コカインの使用率が急激に高まった1984年~1990年までの6年間のことらしい。当然ボクシング界にも蔓延していたのだろう、それは今も形を変えて蔓延しているに違いない。

ファッション的に憧れ手を出す若者は世界中に多く、こうしたブームに浮かれた果ての当然の末路。

「思うがままに生き、後悔なく死に、亡骸は美しいままに」

これは、1950年代「理由なき反抗」のジェームス・ディーンが残した不安な時代の若者を象徴する言葉だ。ディーンは短い乱流の生活の中でこの言葉通りの人生を生きて死んだ。以降、信者は永遠に美しいディーンの早すぎる死を嘆き続ける。ディーンは優雅にこの世を去り、老い、醜く朽ち果てるという現実を逃れた。

ボクシング界のジェームス・ディーンといえるのがWBCフェザー級王者でメキシコの国民的ヒーロー、サルバドール・サンチェス(44勝32KO1敗1分)だ。彼は23歳の若さで死んだ。1982年、サンチェスは若くエキサイティングなファイター、ロッキー・ロックリッジと戦う契約を結んでいた。歴史に残ったかもしれないとても魅力的なカードだった。

もし試合が実現し、ロックリッジがロジャー(ブラックマンバ)メイウェザーを初回ノックアウトしたようにサンチェスを打ち破っていたとしたら、ワシントン州タコマは、サンチェスの大切な思い出を永遠に覆い隠すほどの伝説的な地位を獲得しただろう。

しかしロックリッジには(彼がこれまでリングで向き合ってきた、あるいはこれから向き合うどんなに強力な相手より厄介な)別の敵がいた。それが、ドラッグとアルコール中毒による悪夢のような20年もの間ずっと、彼の富や誇りや尊厳を蝕み続けた。

思うがままに生き、後悔なく死に、亡骸は美しいままに?

そんなきれいごとは、2月7日に60歳で死んだロックリッジの身に起きなかった。他界する2,3年前にロックリッジには薬物中毒を克服するチャンスがあったのだが、実際死んだ男はボロボロで既に壊れていた。

その時点で、彼は上手く言葉をしゃべれず、脳卒中に苦しみ、杖なくしては歩くこともできず、ニュージャージー州のホスピスケアにいた。それでも、彼が絶望の深淵に閉じ込められて過ごした20年よりもはるかにましな環境だった。

失われた20年の間、元王者は自身の影を生きた。ニュージャージー州カムデンのみすぼらしい通りで、物乞い、チャリティー、窃盗・・・すがれるものには何でもすがってホームレスとして生きてきた。(窃盗で何度も逮捕されている)

ロックリッジ
「私は地獄の入り口にいました。」

ロックリッジは2011年10月に、薬物とアルコール中毒と戦って克服していくというテーマのテレビ番組に出演した。その時のロックリッジには、まだ以前のように礼儀正しくて人柄のいい昔の面影があった。

ボビー・トニー(ロックリッジの友人)
「子供は誰もがスーパーマンを持っている。私にとってロックリッジは憧れのスーパーマンだったが、知り合ったのはカムデンでホームレスをしながら援助なしでは生きていけない彼でした。スーパーマンはナイトクラブの前の大きなブロックに座っていた。彼はそこから自分で降りることもできなかった。彼を持ち上げるのには助けがいります。」

ロックリッジは天才アマチュアボクサーだった。タコマボーイズクラブでボクシングをはじめ、210勝8敗のレコードを作り、ゴールデングローブはじめ、数々の大会で優勝した。同時に地元バンドのドラマー兼リードシンガーとして大人気で金に困っておらず、オリンピック代表の座を辞退したほどだ。

ルー・デュバのメインイベンツと契約を交わし、1984年のオリンピック組であるホリフィールド、ウィテカー、テイラー、ブリーランド、ビッグスらと同時に大々的に売り出された。

キャシー・デュバ(現CEO)
「ロッキーはいつも気さくで控えめな人でした。もの静かで素晴らしい人間でした。」

ほとんどノックアウトで連勝街道を走るも、タイトルマッチでは伝説のファイター、エウセビオ・ペドラサに2度阻まれる。3度目の世界挑戦、32勝25KO2敗で迎えた王者、ロジャー・メイウェザー戦でその輝く才能は解き放たれた。後に甥のフロイド・メイウェザーのトレーナーとして称賛されることになるメイウェザーをわずか91秒でノックアウト。

マーブ・アルバート(解説者)
「驚きの結果です。ロッキー・ロックリッジが初回でメイウェザーを粉砕しました。今この瞬間スターが誕生しました。」

長い時を経て、彼がボクシングを通じて稼いだ300万ドルの財産は、ドラッグとアルコール、取り巻きの寄生虫に吸い尽くされて消えた。ロジャーメイウェザー戦をリプレイすると、ロックリッジは永遠に凍り付くことを望んだ魔法の瞬間をよみがえらせた。

ロックリッジ
「あの男、ロジャー・メイウェザーを知ってますか?誰があの男をノックアウトしたか知ってますか?ロッキー・ロックリッジだぜ。」

メイウェザーを破って王者になったロックリッジはその後2度の防衛に成功、1985年、プエルトリコのサンファンで、殿堂入りの王者ウィルフレド・ゴメスに15ラウンド判定負けで王座陥落、その試合でキャリア最高の275000ドルを稼いだ。

戦いに負けはしたものの、ロックリッジの価値は落ちることなく、1986年には絶対王者、フリオ・セサール・チャベスに挑戦、12回判定負けを喫するもキャリアで2番目に高い200000ドルの報酬を手に入れた。

1987年8月9日、IBF世界スーパーフェザー級王者バリー・マイケルに挑戦し、9回TKO勝ちで王座を獲得。同王座は2度の防衛に成功。1988年7月27日、3度目の防衛戦でトニー・ロペスと対戦し、12回判定負けで王座から陥落。この試合はリングマガジンのファイトオブジイヤーに輝いた。

しかしこの試合がロックリッジのキャリア終焉の下降スパイラルの始まりだった。最後の5試合で4試合を失った。

ロックリッジはいつから人生と才能をドラッグとアルコールで滅ぼしていったのだろうか。彼自身さえ、正確な時期を覚えていない。勝利のパーティーで浮かれていた時、または敗北の屈辱を慰めていた時、それでも彼はまだアクティブなファイターだった。クスリやアルコールに溺れ、ゆっくりと破綻し、妻と3人の息子は彼の元を去り、混沌とした夢の中で遂に自分自身を見失った。

ロックリッジ
「私の人生は苦い。とても苦い。いくつかの、多くの間違いを犯しそれは私の想像を超えていました。人生で受けたパンチはリングで受けたそれよりもずっと厳しいものでした。」

ロックリッジの状況にも関わらず、彼のキャリアは殿堂入りに値すると信じているファンもいる。彼は現在、過去、未来の9人の世界王者と戦った。

ジョージ・ベントン(ロックリッジのトレーナー2011年78歳で死去)
「ロッキーの全盛期は目を見張るものがあった。彼は美しいファイターでした。彼の試合は席を立つことも出来ない。戻ってきたらもう試合が終わっているかもしれないから。」

1980年代はクラックブーム(Crack epidemic)に揺れた10年だった。30年が経ちそれは歴史となった。多くの国際的なアスリートや芸能人が長生きできずに死んでいった。ロックリッジも(ジェームズ・ディーンのような)若くして死ぬことが意味したであろう永遠の平和を望んでいたのかもしれない。(しかしボロボロになって中途半端に長生きして死んだ)

ロックリッジと同じメインイベンツの看板ファイターであったジョニー・バンフス(58)も未来の犠牲者として同じ運命を辿るかもしれない。

ジョニー・バンフス(元世界ウェルター級王者でロックリッジの同郷の親友)
「人生の底辺にいます。私は麻薬中毒者です。お金がありません。仕事も家も車もありません。私はそれら全てを手に入れたのですが、全てを吸ったかコカインに変えてしまいました。全てのファン、友人、家族、私のファイト観たことがある人、私を知っている人に謝りたいです。私はみんなを誇りに思った。それなのに全てを壊した。」

ロッキー・ロックリッジ
44勝36KO9敗
WBA世界スーパーフェザー級王座(防衛2)
IBF世界スーパーフェザー級王座(防衛2)

人生にたいした切実さもないのに、ドラッグに溺れる人は愚かである。
切実だ?いやそんなの全くたいしたことはない。

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