現役時代はボディビルダーのように筋肉質でありながら非力、けれど嵐のような躍動感とスピード、攻守の巧みさで極めて負けにくいトップファイターだったブラッドリー。どうやら彼は長い事ヴィーガン(菜食主義)であり、ドーピング行為の一掃を目指しオリンピック水準のドーピング検査を自主的に受けているほどの厳格者にして、表現豊かなインテリだった。
Desert Storm(砂嵐)ティモシー・ブラッドリーの引退は、その日のワシル・ロマチェンコのESPNでの印象的な勝利の影に埋もれてしまった。
ブラッドリーはそれでも構わなかった。
2団体のスーパーライト級、ウェルター級を制した5度の世界王者、誇り高きコーチェラバレーのファイターは、リングマガジンが引退のニュースを流した時もコメントを控えた。土曜日に元トレーナーのテディ・アトラスと共にテレビ解説者として新しい仕事をした時にはじめて声明を出した。
ブラッドリー
「人生には、正しい選択肢がわかっていても、複雑な感情に満たされて受け入れられない時があります。ここ数日間、私はずっとこの場にふさわしい言葉を探していました。どれだけ深く考えても正しい言葉は見つかりませんでしたが、心を開いて皆さんに伝えたいとおもいます。プロのアスリートの人生が簡単なものではないことはご存知かとおもいます。名声や幸運だけでなく、恐怖や疲労が伴います。野心によってバランスを保ち、正しい見通しをたてる必要があります。私の23年間のプロ生活は、ボクシングへの情熱やチームへの愛情、そして全てのファンによって支えられてきました。それらによって私は最高のコンディションで、倒れても常に起きられるよう自分を100%にキープし続けることができました。」
ティモシー・ブラッドリーは1983年8月29日、カリフォルニア州パームスプリングスで生まれた。父親の影響でサッカーをしながら10歳でボクシングを始めた。リングで名声と富を築きたいという強い願望でカテドラルシティ高校を卒業したが、夢を実現する方法はほとんどなかった。高校ではMMAのカブ・スワンソンと同級生だった。2006年に高校の同級生と結婚、同時に妻の2人の連れ子の父親となった。
多くの地元の子供たちと同じように、ブラッドリーは放課後はレストランでアルバイトをし、食器洗いやウェイターをした。空いている時間に懸命にトレーニングし、時々地元の大会で活躍する程度だった。(その後アメリカ全土でトップアマチュアとして頭角を現していく)
2004年8月20日、プロデビュー。無敗のまま2008年5月10日、イギリスで王者ジュニア・ウィッター(イギリス)に挑戦。6回にダウンを奪うなどして、12回2-1(115-113、114-113、112-115)の僅差判定勝ちで全勝(22戦22勝)のまま王座を獲得。
当時のブラッドリーは、連れ子を抱え、まだボクシングだけで稼ぐのは難しく、この時の銀行口座の残金はわずか11ドルだった。(その後妻が敏腕マネージャーとして資産管理していく)
数々の強豪に勝ち続け、WBC世界同級王者のデボン・アレクサンダーに初黒星を与え、WBO王座3度目の防衛、WBC王座の再獲得に成功。無敗のまま、絶対的な知名度と人気を誇るマニー・パッキャオと3度の戦いを実現させることになる。
2012年6月9日、アメリカ・ラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナでWBO世界ウェルター級王者で世界6階級制覇王者マニー・パッキャオ(フィリピン)と対戦。12回2-1(2者が115-113、113-115)の僅差判定勝ちで王座を獲得し2階級制覇を達成した。
https://www.youtube.com/watch?v=X0zSitKpylE
しかし、試合自体は序盤から手数で上回るパッキャオが優勢で、左ストレートを時折クリーンヒットさせていた。一方のブラッドリーも巧みなディフェンスを披露するものの手数で大きく下回り、決定打を打てないまま試合を終えた。HBOの試合中継では119-109でパッキャオ優勢と出ていた。この不可解な判定が告げられた瞬間、場内には大ブーイングが発生するなど、この試合の判定に対する批判は多く、「ボクシング史上最悪な判定の一つ」と評する声もある。
両者のプロモーターであるトップランク社のボブ・アラムは「ブラッドリーのことは讃えたいが、ボクシングに関わってこんな恥ずかしい思いをしたのは初めてだ。ジャッジは採点の仕方を知らないとしか言いようがない。昨年のパッキャオ対マルケス戦は接戦だったからどちらの勝ちでもおかしくないが、今日の試合は接戦ですらない明白なパッキャオの勝ちだった」と激怒した。
ブラッドリーは試合序盤、レフェリーと交錯した際に左足を骨折していたことが試合後判明した。
WBOはブラッドリーの2-1の判定勝ちとした判定について国際ジャッジ5人による精査を行い、5人全員がパッキャオを支持するも判定は覆らず、ボブ・アラムを含めパッキャオとの再戦を促した。
2013年3月16日、アメリカ・カリフォルニア州のホーム・デポ・センター・テニスコートで、WBO世界スーパーライト級2位のルスラン・プロボドニコフ(ロシア)と対戦し、12回3-0(2者が114-113、115-112)の判定勝ちで初防衛に成功。
ブラッドリーは普段とは違い足を止めて打ち合いに応じ試合は激闘となったが、試合直後にリング上で受けたインタビューで数秒前に自分で喋った事が思い出せなくなるほどの大きなダメージを被り、試合後記者会見に出席することなく病院に運び込まれた。
その後「(試合で起きた)ほとんどの事を覚えていない。正面に立ってビッグパンチャーと打ち合ったのはバカだったよ。作戦はアウトボクシングすることだったんだが、なぜか分からないけど打ち合ってしまった」「1ラウンド以降は酔っ払っているような感じでセコンドの指示にも上の空で、自分が何ラウンドを戦っているのかわからない状態だった」と話している。
別のインタビューでは今回の試合はあまり調子が良くなかったと語り、理由について、試合2週間前の時点でウェルター級の制限体重を20ポンドオーバーしており、短期間で無理な減量をしたこと、試合当日の体重を過去最高となる160ポンドと体重を戻しすぎたことを上げた。ブラッドリーは2ヵ月半、ろれつの回らない状態や平衡感覚がままならない状態が続いたが複数の専門医に診てもらうことで回復した。この試合はHBOが放送して120万人の平均視聴率を獲得、2013年度リングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。
10月12日にファン・マヌエル・マルケスと対戦することが発表される。
ファン・マヌエル・マルケスは前の試合となる2012年12月のマニー・パッキャオ戦で、39歳にして不自然なほどビルドアップされた体や元ステロイドの売人であるアンヘル・ギジェルモ・エレディアをコーチとして陣営に迎えたことなどで多くのドーピング使用疑惑報道があった。そのため、今回の試合では検査が甘いと言われているネバダ州コミッションによるドーピング検査では無く、抜き打ち検査を含むオリンピックレベルの検査基準を採用しているVADAかUSADAによるドーピング検査が行われることが両者の合意のもと契約書に盛り込まれていた。
しかし、マルケスは合意を撤回、交渉の引き延ばしやブラッドリーに理不尽な体重制限を要求するなどしてVADAかUSADAによる検査を拒否した。これに呆れたブラッドリーが試合を行わない可能性を示唆したことで試合実現が一時的に危ぶまれた。その後ブラッドリーが折れる形となり、マルケスへのドーピング検査がネバダ州アスレチックコミッションによる検査のみになることを了承、VADAによる検査は自費でブラッドリーだけに行われることとなった。
ブラッドリーはボクサーの50~60%が禁止ドーピング薬物を使用していると推定しており、ドーピング行為の一掃を目指しオリンピック水準のドーピング検査を常に自主的に受けてきた。ヴィーガン(菜食主義)による減量を行なっていたが、パッキャオ戦の初戦と第2戦で共に足を負傷したことを考慮し、現在は肉を食べるようになった。
2013年10月12日、トーマス&マック・センターにて、4階級制覇王者でWBO世界スーパーライト級王者ファン・マヌエル・マルケスと対戦し、12回2-1(116-112、115-113、113-115)の判定勝ちで2度目の防衛に成功。
2014年4月12日、MGMグランド・ガーデン・アリーナでマニー・パッキャオとおよそ2年振りのリマッチを行うも、12回0-3(2者が112-116、110-118)の判定負けで3度目の防衛に失敗し王座から陥落するとともに、33戦目にして初黒星となった。
ブラッドリー
「衝突、怪我、山あり谷あり、ベッドから出たくない日々と眠れない夜、心、勇気、魂(ソウル)が試される多くの場面がありました。しかしあらゆる挑戦に希望がありました。ボクシングは私に生きる意味を与え、通り(の犯罪)から私を遠ざけ、自信を与え、男になる方法を教えてくれました。血、汗、涙、全て流しました。(引退という)ページをめくるのが
ほろ苦いのはそのためです。けれど悲しむな、私はもう引退したんだ、自分で決めた事だ。ボクシングに引退はつきものなんだ。」引退したブラッドリーには、解説者としてセカンドキャリアを送りながらも、今急上昇の無敗の王者、フレズノのホセ・ラミレスと戦うために現役復帰する話があった。
さらに、マニー・パッキャオがオーストラリアで伏兵のジェフ・ホーンに敗れた試合を目の当たりにした時、テディ・アトラスはじめ多くの人が結果に異を唱えたが、ブラッドリーはそれよりもかつてのライバルが多くのパンチを打たれたことにショックを受けた。(ブラッドリーはパッキャオに2度負けただけで引退している)
オーストラリアから帰国する飛行機の便でブラッドリーは真剣に考えた。
「ジェフ・ホーン、彼と戦い私は打ち負かすことができる。そのベルトを手に入れる、と言うと思ったでしょ、でもそうではなく、パッキャオの事ばかり考えていた。パッキャオはダーティーなやり方だけどひどく打たれ傷つきました。以前のパッキャオにはありえなかった事です。どうしてでしょうか、みんな年をとったという事です。」
ロサンゼルスに戻るころには、ブラッドリーの頭から現役復帰への未練は消えていた。
ブラッドリー
「毎日目を覚まして、私が100%与え、注ぐべき人生で一番の目的は、今ではボクシングではない何か・・・そう、家族に向けられています。彼らに、強さ、平和、そして無条件の愛を見出します。私は全ての時間において父親であり、夫であり、自由であることを望んでいます。毎日夢中になっていた四角いリング(ボクシング)は、私にたくさんの笑顔と祝福を与えてくれましたが、妻と子供達が与えてくれる笑顔と祝福を上回るものではありませんでした。今は、彼らをサポートし、彼らの夢を生きる番です。教えて、伝えて、大好きなこのスポーツのファンになることでボクシングを続けていきたいとおもいます。
23年間、無償の愛と支援をありがとう。どれほど感謝し、どれほど謙虚であるか、伝える言葉が見つかりません。私がそれに値しなかった時、私がそれを必要としていた時、みんなの無条件の愛と支援が、毎日続けていくための鼓動になってくれました。ありがとう。
みんなのおかげで、私は今、男になることができました。」
アマチュアボクシング:145戦125勝20敗
プロボクシング:37戦33勝(13KO)2敗1分1無効試合
https://www.youtube.com/watch?v=hmUHCSA8rY8
結果的にマニー・パッキャオに(1勝2敗、実質3敗だろう)しか負けないでキャリアを終えたブラッドリー。
パッキャオに勝ったことで悪夢が始まり(非難の嵐)、プロボドニコフ戦で自分のスタイルを捨てて命を削って殴り合い、ファンの信頼を獲得したという数奇な運命だった。
ちゃんとヒアリングできないから彼の解説は正確にはわからないが、ユーモアがあり鋭い発言をするインテリな面がある。アンドレ・ウォードと共に貴重な才能だ。もっと感動的で繊細でいい話もあったが、各所からつぎはぎのような形で彼の一面を紹介した。
ボクサーの50~60%が禁止ドーピング薬物を使用していると推定しており、ドーピング行為の一掃を目指しオリンピック水準のドーピング検査を自主的に受けている。
やはり、ブラッドリーのようなフィジカル、パワーというのがボクシングのナチュラルな姿なのかもしれないと強く感じる。
パッキャオやメイウェザーの影に隠れ、人気者、真のヒーローにはなれなかったかもしれないが、全盛期は本当に上手くて強くて人気がなくて、だからこそ、スター、メイウェザーとの対戦が実現しなかったのではないか、パッキャオの実力を査定する実験台にされた、そんな気持ちにさえさせる偉大なファイターだった。
素晴らしい人間性、素晴らしい引退の決断だ。
それでもプロボドニコフ戦は熱かった。試合後もかなりヤバかった。
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