プロで総合的に一番ハイレベルだったのはデゲールだったとおもいます。スピード、スキル、パワー、彼が最高でした。アマチュアまで含めるとゴロフキンになります。彼が総合的には最高でした。
ルシアン・ブーテ(Lucian Bute, 男性、1980年2月28日 - )は、ルーマニア出身の元プロボクサー。元IBF世界スーパーミドル級王者。カナダのモントリオールに居住している。祖国ルーマニアではアマチュアボクシングで活躍、プロデビュー後は15戦連続KO勝利するなどパンチ力のあるサウスポーで、しっかりとした防御技術も兼ね備えている。ルシアン・ビュテとも呼ばれる。
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ルシアン・ビュテは4年半にわたりスーパーミドル級の王座を保持しており、ライトヘビー級の王座も視野に入れている。もうすぐ37歳になる彼はケベックで1位のエレイダー・アルバレスと対戦する。勝てばWBC王者、アドニス・スティーブンソンへの挑戦が叶う。
ビュテはルーマニアの首都、ブカレストの北東、人口10000人弱の小さな町、ペチャで生まれた。
ビュテ
「7人家族で私以外は全員女子で4人姉妹でした。両親は1日3度食事を与えてくれました。しかし1989年以前、チェウシェスク政権時代はとても困難な時間でした。政権が終わり、民主党に変わると生活は改善しましたが、今でもルーマニアは経済的には厳しい状況です。」ビュテが14歳の時に友人とはじめてボクシングジムに訪れた。それまでボクシングの事は全く知らなかった。しかし、ひとたびボクシングを経験するとすぐに夢中になり、アマチュアボクシングに没頭した。
ビュテ
「アマチュアの経験は良いものでした。1998年、アルゼンチンで開催された世界ジュニア選手権で銅メダル、1999年にシニアになり、ヒューストンの世界選手権で銅メダル、そしてヨーロッパ選手権に出場しました。」2003年のバンコクで行われた世界選手権では、ゲナディ・ゴロフキンとも戦った。
ビュテ
「彼はとても強かった。私よりも若く、21歳か22歳くらいだったとおもいます。当時既に世界ジュニアチャンピオンでした。とてもタフな試合でした。当時はオープンスコアリングで先行した彼に追いつこうと迫りました。ゴロフキンはあの時の私が一番強かったと何度も言ってくれました。3回にゴロフキンからスタンディングダウンを奪いました。4ラウンドまで彼がポイントリードしていたので、私には失うものがなくノックアウトせねばなりませんでした。そして彼の右に捕まり、立ち上がったけど残り20秒でレフリーに試合を止められました。」
23歳になりビュテはアマチュアを卒業した。300試合以上戦い、26敗だという。
ライバルのゴロフキンもその1年後にプロになったが、彼が恐るべき世界王者になったことにビュテは納得している。
ビュテ
「彼はプロで強い世界王者になる可能性があった。アテネで銀メダルも獲得していたしね。」プロとしてビュテはカナダに住む、ルーマニア人のマネージャー、クリス・ガネスクと契約した。
ガネスク
「2003年のバンコクで行われた世界選手権やその他の試合をみてビュテに可能性を感じました。モントリオールのプロモーターが彼を欲しがった。当時世界王者だったエリック・ルーカスのスパーリングパートナーとしてカナダにやってきて、そこでプロを続けることになりました。それがビュテの始まりです。」アマチュアエリートだったビュテは出世を急いだ。
9戦目で元世界2階級制覇王者ディンガン・トベラと対戦しダウンこそ奪えなかったがコンビネーションをまとめて4回1分22秒TKO勝ちでトベラに引導を渡した。
2005年2月19日、カール・ハンドリーとNABF北米ライトヘビー級王座決定戦を行い4回2分9秒TKO勝ちで王座を獲得
2005年3月18日、クリス・クルスと空位のNABA北米スーパーミドル級王座決定戦を行い12回2分18秒TKO勝ちで王座を獲得
2005年9月16日、カバリー・サラーンとWBCアメリカ大陸スーパーミドル級並びにNABF北米スーパーミドル級王座王座決定戦を行い8回終了時TKO勝ちで王座を獲得
多くの地域王座を獲得、防衛し着実にランキングを上げ全勝のまま、2007年10月19日、IBF世界スーパーミドル級王者アレハンドロ・ベリオに挑戦し、11回TKO勝ちで世界初挑戦にして世界王者となった。
2008年2月29日、ウィリアム・ジョッピーと対戦し、10回TKO勝ちで初防衛に成功後、リブラド・アンドラーデと2度の死闘を演じた。
初戦では、最終ラウンド終了間際、リブラド・アンドラーデがルシアン・ビュテからノックダウンを奪い、「あわや逆転KO」という場面があった。それをレフリーがロングカウントで助けたと言われていた。因縁の再戦はビュテが完璧な試合運びで4ラウンドKO勝ちで完勝した。
ビュテ
「初戦で色々な事を言われたのでケリをつけたかった。私の方が強いと証明するために。」2009年下半期、ショータイムはスーパーミドル級で「スーパー6」トーナメントを開催した。ビュテは参加せず、防衛を重ねていった。
ガネスク
「ビュテはスーパー6に招待されなかったんだ。あのトーナメントはアーサー・アブラハムのザウアープロモーションがマネージメントしていたんだけど3人のヨーロッパ人、3人のアメリカ人が必要だった。ビュテは参戦希望でしたが決して招待されませんでした。誰かが怪我で脱落してもビュテは代役にも呼ばれませんでした。スーパー6の期間、ビュテは独自に戦い続けねばなりませんでした。最終的にビュテはアンドレ・ウォードと戦いたかったのですが、ウォードはビュテと戦いたくなかったようです。」しかしこの期間にビュテは故郷のルーマニアで防衛戦をした。
ビュテ
「素晴らしい経験が出来ました。2011年、1位のジャン・ポール・メンディと私の故郷のブカレストで戦い、4回KOしました。アリーナには10000人の観客がいました。」その後、ビュテはアンドレ・ウォードとの対戦を求めて、ショータイムと3試合の契約をした。次戦で元王者のグレン・ジョンソンを破ったビュテは王者として、カール・フロッチにカナダでの対戦を呼びかけた。
ビュテ
「私が王者だから、カナダで戦おうと言ったのですが、フロッチは決して英国を出ようとしなかった。だから私が英国に行ったのです。しかしそれは間違いでした。怪我をして足が感染症を起こしてしまいました。抗生物質を服用していました。グローブにも問題がありました。彼らは試合の2時間も前にグローブの着用を命じました。決して言い訳ではないですが、試合を延期する理由はたくさんありました。それでもフロッチの地元で彼を倒せるとおもっていましたが、彼はやる気に満ちていた。目が生き生きとしていた。」フロッチの地元、ノッティンガムで、5回TKOでビュテは初黒星を喫し、長い統治は止められた。
https://www.youtube.com/watch?v=kB9ikFU40Og
半年の休息を経て、ビュテはリングに復帰したが、デニス・グラチェフ相手の再起戦は不調にみえた。その後カナダのジャン・パスカルと戦うまで、怪我で14か月のブランクを作った。試合はかつてのビュテではなかった。
状況の変化を求め、19か月のブランク後、イタリアのアンドレア・ディ・ルイサを見事にストップし、かつて保持していたIBFタイトルをかけてイギリスの王者、ジェームズ・デゲールに挑戦。
ビュテは全盛期のように戦ったが、ユナニマス判定で敗れた。しかし内容は悪くなく、ワシントンDCでバドゥ・ジャックと対戦し引き分けた。
しかしその後、ビュテから禁止薬物のオスタリンが検出された。
ビュテ
「私にとっては苦しい状況でした。アマチュアの頃から違法薬物に手を出したことはありません。デゲール戦では試合前後合わせて9回もドラッグテストをしました。バドゥ・ジャック戦の前に市販のサプリメントを摂取したのがいけなかったのだとおもいます。
薬で有利になろうなんておもっていません。精神的に苦しかったです。私はクリーンなファイターですが人々が私を疑いの目でみているのではないかと疑心暗鬼でした。しかし全ては過去の出来事であり、今は克服しました。」ビュテは5万ドルの罰金を受け入れた。
今こそ、ルシアン・ビュテは、カール・フロッチ戦の前の自分に戻らなければならない。エレイダー・アルバレスとの闘いは最後のチャンスだ。2階級制覇という目標を果たすには負けることの出来ない戦いだ。
ビュテ
「自分に挑戦することにしました。スーパーミドル級でタイトルマッチを求めてきましたが、1年経ってもチャンスは巡ってきませんでした。アルバレスとの試合のチャンスが来ました。彼はライトヘビー級の指名挑戦者で無敗です。勝てば私がアドニスの指名挑戦者になれます。これは大きなチャレンジです。」ビュテは結婚3年目で妻は第一子を妊娠している。2012年にカナダの市民権を得たが、年に2,3回は故郷のルーマニアの家族の元を訪問している。自主的なアンチドーピング協会のスポークスマンとして彼の経験を語ったりしている。
32勝25KO5敗1分
NABF北米ライトヘビー級王座
NABF北米スーパーミドル級王座
NABA北米スーパーミドル級王座
WBCアメリカ大陸スーパーミドル級王座
WBOインターコンチネンタルスーパーミドル級王座
IBF世界スーパーミドル級王座(防衛9度)ライバルについて
ベストジャブ バドゥ・ジャック
多くの素晴らしいファイターと戦ってきましたが、ジャブが特に素晴らしかったのはジャックです。良いジャブと距離勘を持っていました。
ベストディフェンス ジェームズ・デゲール
彼はスキルフルです。オーソドックスからサウスポーに何度も変えるスイッチヒッターです。センスとスピードがありました。
ベストチン リブラド・アンドラーデ
とてもタフな男です。彼とは2度戦いました。初戦では強くヒットしても彼は決して倒れることなく前進を続けました。とても打たれ強い男でした。
ハンドスピード デゲール
私が戦った相手では一番速かったです。コンビネーションもとても速かった。
フットワーク デゲール
彼はとても滑らかで捕まえるのが難しかった。ラウンドが進むにつれて機動力が落ちていき、捉える事ができるようになっていきました。彼は打たれることを極度に嫌う男でした。
スマート デゲール
彼はスマートに戦い、打たれずに生き残る術を持っていました。彼を警戒しすぎていたのがいけなかったのかもしれません。マウスピースを吐き出して時間を稼ぐような狡猾さもありました。
屈強 カール・フロッチ
とにかくフィジカルが強い。スキルもテクニックも足りないがとにかく屈強です。意思の力も強い。序盤にいいパンチを当てたけど彼は全く影響を受けなかった。彼にとっては素晴らしい夜になったが私には悪夢だった。再戦して欲しい。
ベストパンチャー アレハンドロ・ベリオ
すごいパンチャーでした。アンドラーデは打たれ強かったがパンチャーというほどでもなかった。フロッチも強かったけど一番はベリオでした。
ベストスキル デゲール
彼は完全パッケージだ。全てを兼ね備えている。スキル、スピード、動き、距離の管理。
総合 デゲール
プロで総合的に一番ハイレベルだったのはデゲールだったとおもいます。スピード、スキル、パワー、彼が最高でした。アマチュアまで含めるとゴロフキンになります。彼が総合的には最高でした。
アメリカには行ったことがなくてもルーマニアには行ったことがある私にとって、ルーマニアルーツのビュテは特別な存在だった。
気高くも貧しい国なのでもっと少年時代の物語が知りたかったが、ここから世界を席巻するだけでも尊敬に値する。
ゴロフキンと戦ったことは知っていても映像をみたのは初めてだった。素晴らしい熱戦、3回は明らかにビュテのラウンドだ。
どこか長谷川穂積を大きくしてパワフルにしたような機能美溢れるクールなサウスポーでスーパーミドル級王者に一番ふさわしい風格を持っていると感じた時もあった。
スーパー6に参戦せず、優勝者のアンドレ・ウォードとの対戦を求める途中で、ウォードに敗れたフロッチの強靭なファイトに屈してから、もう元のビュテには戻らなかった。
ビュテは今のヒルベルト・ラミレスに少し似ている。スーパーミドル級は似合っても決してライトヘビー級ではない、そんな気がする9度防衛の美しいサウスポーだった。
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