馴染み深く、懐かしい名前をみつけたので紹介します。もちろん、インタビューの中には日本人も出てきます。思えば彼のボクシング人生は数奇な運命に翻弄されたものだった。彼の言葉、総括には全く同意するばかりだ。
[st-card id=69573 ]熟練した技術を持つボクサーパンチャーのジェリー・ペニャロサはフィリピンで初めてスーパーフライ級で世界王者になった。いつもアウェーで戦い続け、キャリア晩年にはその栄光にもうひとつバンタム級のタイトルも加えることになった。
ジェロニモ・ペニャロサは1972年8月7日にフィリピンのサンカルロスシティで生まれた。6人兄弟の一人で家族はフィリピンではボクシング一家として有名だった。父のカールは1960年代に成功を収めたボクサーであり、ドディーボーイやジョナサンも世界的なボクサーだ。
ペニャロサ
「有名なボクシング一家出身というのはアドバンテージになったけど人々が過剰に期待するからプレッシャーも大きかった。」14歳でボクシングを始めたペニャロサは2年以内にナショナルチームメンバー入りしインドネシアカップでは金メダルを獲得した。しかしオリンピックトライアルで敗れるとペニャロサのチームメイトは深く傷つき、トーナメントを棄権してしまった。
60勝2敗というアマチュアキャリアを残し、1989年に16歳でプロになったペニャロサは20戦19勝1つの引き分けが唯一の傷だった。21戦目にはじめて経験豊富なサミュエル・デュランにスプリット判定で敗れた。
しかしその後元王者のローランド・ボホールやローランド・パスクアを下し信用を取り戻していった。パスクアへの勝利は親戚のドディーボーイの敗北に対する復讐劇でもあった。
1997年、東京の両国国技館で、指名挑戦者として時の王者川島郭志に挑んだ時のペニャロサの戦績は35勝1敗という素晴らしいものだった。スプリットの判定で安定王者の川島を下し日本に衝撃を与えた。
ペニャロサはこの時の勝利が生涯一番の瞬間であるという。世界王座を獲得しただけでなく同時に大学で犯罪学の学士号を取得し卒業もした。
1998年8月に韓国の曹仁柱にスプリット判定で負けるまで3度の防衛に成功、16か月後の曹との再戦でも結果は同じだった。
2001年、3連勝中のペニャロサは曹仁柱を下し王者となった徳山昌守に挑むも僅差判定で敗北。
ペニャロサ
「曹仁柱と徳山の試合の採点は物議を醸すものでした。WBCのホセ・スライマン会長は再戦を命じました。ジャッジに納得がいかなかったのでしょう。」しかし、ペニャロサは不運にもどちらの再戦も明確に勝ちとることができなかった。ペニャロサは完全に勝利の女神に見放された。
ペニャロサはついに階級をバンタム級に上げることにしたが、そんなにアクティブに活動はしなかった。4年間で5勝しただけだったが、驚くべきことにスーパーバンタム級で世界戦のオファーを受け、いきなり当時の王者ダニエル・ポンセ・デレオンに挑み判定負けを喫した。
https://www.youtube.com/watch?v=P1U5uFDCmD8
大きな男への挑戦も辞さないペニャロサの努力が認められ、2007年8月WBO王者のジョニー・ゴンザレスへの挑戦が実った。顕著な体格差、パワー差、スコアで大きく劣勢の中、最後の最後に幸運の女神がペニャロサに微笑んだ。完璧なボディショット一発でゴンザレスを逆転ノックアウト。それは驚くべき勝利だった。
世界王座転落から9年後、35歳で2階級制覇を達成した。
2009年4月25日バンタム級王座を保持したまま(試合後王座を返上)、WBO世界スーパーバンタム級王者ファン・マヌエル・ロペスに挑戦。これまで世界戦を全て1Rで終わらせているロペスに対し、圧倒されながらも懸命に反撃するが、9R終了時点で棄権しTKO負け
2010年2月13日WBO世界バンタム級暫定王座決定戦でエリック・モレルと対戦し、12回判定負けで王座獲得ならず。
2010年10月10日、フィリピン、サンボアンガシティでヨドサエンケン・キャットマンミー(タイ)と対戦し、4回1分49秒TKO勝利を飾り、試合後に現役引退を発表した。
通算戦績55勝37KO8敗2分
現在46歳のペニャロサは結婚してマニラで暮らしている。2人の息子、甥のドディーボーイジュニアやデイブ・ペニャロサはフィリピンのプロスペクトだ。15ものボクシングジムや建設会社を経営している。
ライバルについて
ベストジャブ ジョニー・ゴンザレス
バンタム級としては背が高く、ジャブが邪魔で中に入るのが難しかった。自分の距離を保つためにジャブを効果的に使い、得意なパンチ、右クロスを打つことができるんだ。
ベストディフェンス 川島郭志
川島は私のパンチを外すのが上手く滑らかでとても速かった。サウスポーで素晴らしいフットワーク、ハンドスピード、ヘッドムーブを持っていた。
ハンドスピード 曹仁柱
背が高くハンドスピードがあるのでカウンターを合わせるのが難しかった。彼は打ち合う気など全くなかった。距離をキープしハンドスピードを生かしてポイント勝ちするスタイルだ。
フットワーク 曹仁柱
脚が長くてとても速かった。ヘルマン・メラズという選手も走り回って生き延びるだけの選手だった。
ベストチン ローランド・ボホール
経験豊富で撃たれ強かった。
スマート ローランド・パスクア
彼には才能があった。彼はトリッキーなスタイルで向かってきたが、私は8回で彼をストップした。プレッシャーをかけて彼を疲れさせたんだ。
屈強 ダニエル・ポンセ・デレオン
デレオンとファンマです。強いパンチを打たれました。彼らは2人とも私より大きくて重かった。
ベストパンチャー ジョニー・ゴンザレス
彼はワンパンチでノックアウトできるパンチャーだ。背が高くバンタム級ではとても大柄です。最高の右クロスを持っていた。
ベストスキル 川島郭志
彼との試合は難しいものでした。彼はアンタッチャブルなコンプリートファイターだ。彼に勝てたのは私の方がハングリーでコンディションがよかったせいでしょう。
総合 ジョニー・ゴンザレス
ジョニー・ゴンザレス、彼はコンプリートファイターです。インサイドでもアウトサイドでも戦えるし、パワーがあるし。私が勝てたのはラッキーだった。私の最高の勝利は川島郭志とジョニー・ゴンザレス、この2試合です。
川島郭志をとても評価しているのはそれだけ高度で難解な試合だったからだろう。ペニャロサ戦がなければ川島はもっと長く防衛する名王者になっていたはずだ。
ギリギリの技術戦を日本というアウェーで制したペニャロサには強運があった。日本のジャッジはフェアでいい国だった。川島を破った本格王者としての長い栄光が約束されているはずだった。
しかし運命は非情である。
曹仁柱に2度、徳山に2度、際どい試合ばかり、勝ちきれない。アウェーでなければ全てペニャロサの勝利といえたかもしれないほどの際どい内容だ。何度やってもギリギリの判定負けで、本格王者候補だったペニャロサは2度と王者になれなくなってしまった。
その後ペニャロサは階級を上げるも、元々小さな体格で、パワフルな若手の踏み台、練習台として、悲哀をかんじさせる立場に自らを置いた。不遇で悲惨な晩年にみえた。
ジョニー・ゴンザレスへの挑戦もまさにそうで、誰一人ペニャロサの勝利を予想する声はなかった。小さな年寄りのペニャロサが勝てるはずのない挑戦であり、実際決するまでは一方的にやられていた。起死回生のボディ一発、あれがあるからジョニゴンでありペニャロサなのだ。
世界王座転落から実に9年、35歳で2階級制覇を達成
運命の女神は10年ぶりにやっとペニャロサに微笑んだのだった。
ペニャロサにとっては
ほとんど全てが勝ったつもりであっても
曹仁柱や徳山との試合は勝利の女神に見放された辛い思い出
川島郭志とジョニー・ゴンザレス戦だけが運に恵まれた試合
だった。
川島郭志について
He gave me my hardest fight; he was untouchable, a complete fighter.
彼との試合は難しいものでした。彼はアンタッチャブルなコンプリートファイターだ。
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