アレクシス・アルゲリョの後継者、ローマン・ゴンザレスの源流には、ロセンド・アルバレスがいた。ニカラグアの世界チャンピオンは少ないが、とびきり強い奴が現れる。
ロセンド・アルバレス(Rosendo José Álvarez Hernández、男性、1970年5月6日 - )は、ニカラグア共和国のプロボクサー。マナグア出身。元WBA世界ミニマム級王者。元WBA世界ライトフライ級王者。メキシコの英雄リカルド・ロペスとの2度に渡る壮絶な試合で知られる。
ロセンド・アルバレスは1970年5月6日にニカラグアのマナグアで生まれた。
1986年にニカラグアの軍隊に従事、除隊後1年以上かけてボクシングのトレーニングを行い、1988年4月16日にアマチュアデビューした。78戦66勝の記録を残した。1990年にはゴールデングローブ、中米タイトル、カリブ海タイトル、アウグスト・セザール・サンディーノ杯の金メダルを獲得し、キューバ人、ロシア人、メキシコ人と競い合った。1991年には同大会で銀メダルを獲得した。
1992年12月12日にプロに転向し、パブロ・トーレスを3ラウンドKOでデビュー。
1995年12月2日、無敗のまま20戦目で世界初挑戦。敵地でWBA世界ストロー級王者チャナ・ポーパオイン(タイ)に挑み、フルラウンドの死闘の末、2-1の判定勝ちを収め、世界王者に輝いた。
1996年6月15日の2度目の防衛戦で日本のリングに初登場。仙台で佐藤建太(本名:エリック・チャベス/フィリピン出身/元IBF世界ストロー級王者)を12回判定に降す。続く10月1日の3度目の防衛戦でも日本のリングに登場(北九州で塩濱崇と対戦し、8回KO勝ち)。4度の防衛を果たした後、ライバルがいなかった当時ミニマム級で無敵、全階級でも屈指のファイター、リカルド(フィニート)ロペスを相手に統一戦に臨んだ。
ロペスのプロモーター、ドン・キングは、1998年3月7日にメキシコでこの戦いを実現させた。王者同士ではあったが、El Finito(フィニート、素晴らしい男) ロペスはこれまで無敗(46勝35KO)で21度目の防衛戦、断然のヒーローで、(バッファロー)アルバレスは大いなる負け犬だった。
多くのニカラグア人が応援にかけつけたが、ブルーのストライプが入ったグレーのトランクスを履いたアルバレスは98%を占めるメキシコの観客のブーイングを浴びた。ジミー・レノン・ジュニアの盛大なリングコールの後で、ロペスとアルバレス、そして3人目にリングに入ったのはレフリーのアーサー・メルカンテだ。
「メヒコ、メヒコ」という雷のような絶え間ないユニゾンの叫びが火をつけ、ロペスは正確なジャブとパンチで応えた。遠距離からのロペスの正確な攻撃に対し、アルバレスはコンビネーションで中間距離から中に入っていかねばならなかった。メキシコのファンは安心してタコスやファヒータ、ブリトーを食べながらいつものロペスの圧勝を見守った。
アルバレスはロペスのジャブと高いガードの隙を突くために鋭く突込みバッティングが発生、メルカンテレフリーに注意された。初回から、アルバレスはロペスを脅かすための準備に入っていた。
ナチョ・ベリスタイン(ロペスサイド)
「あまり攻撃しすぎるな、相手はお前のガードを出し抜くいいフックを持っている。リーチを生かし腕を上げ、しっかりガードしろ。アルバレスがお前の腕しかパンチを当てられないように。」リゴベルト・ガリバルディ(アルバレスサイド)
「ロペスに嫌がらせを続けろ。お前のフライングフォアハンドが効果を出し始めている。」2ラウンド、アルバレスはロペスから見事なクロスカウンターによってダウンを奪った。8カウント、ロペスは動揺し効いていた。プロアマ通じ、ダウンしたのは初めての事だった。再開後、アルバレスはさらに攻勢を強め試合を決めにいった。
10-8 アルバレスが完全に試合を支配した。
3ラウンド、はじめてのピンチ、はじめての苦戦に闘志をみなぎらせたロペスが反撃し、アルバレスのレバーに左フックを当てていく。アルバレスの射程よりも長いロペスは危険な右フックを警戒しながらダブルフックで応戦しメキシコファンの歓声はさらに高まっていく。
「ビバメヒコ、ビバメヒコ」
ロペスの同胞たちは彼に勇気を注入しようと叫んだ。ロペスは再び長い射程で正確なジャブと右ストレートを伸ばし、凶悪なアルバレスの右を避け続けた。
リゴベルト・ガリバルディ(アルバレスサイド)
「ロペスの得意な展開にしてはいけない。彼の距離を操って右を当てろ、ガードを叩いて貫通させろ。」4ラウンド、両者の激しい攻防、意思のあるコンビネーション、ロペスのレバーブローとジャブが効果的だが、アルバレスは再び重い右と左フックをロペスの顔面にヒットさせた。己のプライドをかけた激しい衝突はゴング後の加撃により、ロペスがアルバレスに謝るシーンがあった。
リゴベルト・ガリバルディ(アルバレスサイド)
「お前は相手の敵地で戦っているんだ。ロペスのリズムで戦ってはいけない。どんどん前に出て攻めろ、ロペスを追いかけてパンチを投げ続けろ。」5ラウンド、両者は激しい打撃戦を展開、特にボディを打ち合った。レフリーのメルカンテはローブローを注意した。再開後、アルバレスの重たい右がヒットし優勢を印象づけた。
ナチョ・ベリスタイン(ロペスサイド)
「ガードばかりでは駄目だ。左フックから右ストレート、アルバレスは強い、よく注意して戦え。」6ラウンド、アルバレスはバッティングでレフリーから注意を受けた。両者の攻撃は激しさを増す。被弾しても前に出て右を振り回すアルバレスに、ボディを返すロペスだが、アルバレスの圧力とパワーが光った。
7ラウンド、益々激しい両者の攻防、中間距離でハードショットを交換しあう。アルバレスが右ボディから返しの左フックを打った瞬間、両者の頭が当たり、ロペスの左眉から大量出血。レフリーのアーサー・メルカンテはアルバレスのバッティングに対し減点1を宣告。医師の判断で試合が続行されるも、ロペスはアルバレスの左フックを受けた。
アルバレスのラウンドだが、減点により9-9だ。
ラウンド終了後、ロペスの傷が深く試合はストップ。負傷判定となった。集計までに15分もかかった。
トム・カッツマレク(アメリカ)67-64 ロペス
サミュエル・コンデ(プエルトリコ)68-63 アルバレス
ダルビー・シャーリー(アメリカ)66-66結果は三者三様のドロー。
20度防衛・無敗のWBC王者から大金星獲得は惜しくもならなかったが、アルバレスは自身のWBA王座を防衛した。私は(記者)は個人的にアルバレスの2ポイントリードだった。しかし世間もメキシコのボクシング評論家もアルバレスの勝利を支持しなかった。
8か月後の1998年11月13日にラスベガスで行われた再戦では、ロペスはより冷静に、より良い距離感と準備で文句なしの判定勝ちをした。当時、アルバレスは28歳、ロペスは31歳、再戦のレフリーはリチャード・スティールだった。
https://www.youtube.com/watch?v=WqOdVXkvgso
試合終了後の両者の顔をみれば、傷だらけのロペスに比べ、アルバレスが勝者のようだった。しかし実際に試合をうまくコントロールしたのはロペスだった。
後にアルバレスに話を聞くと彼は敗北を受け入れていた。右を生かした先制攻撃ができず、集中力を欠いてしまったそうだ。初戦でもアグレッシブな右がアルバレスの主な武器だっただけに2戦目はそれが発揮できずより不利になった。
それでも採点結果は2-1
115-114
115-112
ロペス115-113
アルバレスだ。
ロペスは前人未到の22度目の防衛に成功、この試合を最後にミニマム級に別れを告げた。
ミニマム級にはリカルド・ロペスしか(価値ある男が)いなかった時代に唯一無二のライバルとして現れたアルバレス。人気も知名度もさっぱりだったから、穴王者かもしれないと、かつて日本に2度もやってきたが、モノが違った。
私の観戦歴でベストなファイターがリカルド・ロペスだが、ロセンド・アルバレスも好きだった。彼は軽量級のロベルト・デュランだと言っても誰にも相手にされなかった。
スキル、パワー、タフネス、フィジカルがあり、ファイターとしての大事な要素を備えた男だった。ニカラグアでは、エディ・ガソ、アレクシス・アルゲリョに次いでたった3人目の世界王者だ。
ロペスとの2戦目は確信犯的な体重オーバーという失態をやらかしたので評価はできないが、初戦は事実上の勝利だ。7ラウンドにバッティングで中断後試合は続行されたが、その間ずっとWBCのホセ・スライマンとナチョ・ベリスタインが話し合いをしており、結果発表までの時間も長かった。負傷判定で引き分けという結果を2人が捏造したと言われている。
ロペスに勝利は出来なかったアルバレスだが、その後もずっと「小さなデュラン」として期待していたが、あの日で何かが吹っ切れてしまった。
ロペス戦後に、ベビス・メンドサと4度も戦うことになったり、減量苦ともトレーニング不足ともいえる状態で階級をあげながらリングに出ては煮え切らない試合を繰り返した。ロペス戦こそ人生のハイライトであり、その後のキャリアはパッとしなかった。
同じ国、街からロマン・ゴンザレスが出て来るまで、私にとってはミニマム級2番手の男はアルバレスだった。そしてどこか、フルパッケージといえる彼らは似ており、ロマゴンはより真面目な優等生だった。
アレクシス・アルゲリョの後継者、ローマン・ゴンザレスの源流には、ロセンド・アルバレスがいた。ニカラグアの世界チャンピオンは少ないが、とびきり強い奴が現れる。