隻眼となった魔術師/(マグニフィコ)イスラエル・バスケス

昔、日本の名護明彦が、練習仲間のバスケスの方がパッキャオよりもパンチが強いと言っていた気がする。男らしい殴り合いを得意とするメキシコの傑作スーパーバンタムの一人、激闘王という名にもっともふさわしい試合を演じてきた。身長は今の井上尚弥と同じくらい。当時、このバスケスと激闘、殴り合いができた日本人はいただろうか、いやいなかったから誰も戦えかったのだ。説得力のあるスーパーバンタム級王者だった。

運命のいたずらか、何人かのファイターはライバルと永遠につながっている。モハメド・アリとジョー・フレイジャー、マルコ・アントニオ・バレラとエリック・モラレスのように。そしてイスラエル・バスケスについても例外ではない。彼はいつもラファエル・マルケスとリンクされる。

2人のメキシカンのスタイルは完璧に調和していた。彼らは4度戦い、28回のワイルドなラウンドを戦い抜いた。

2007年3月3日、バンタム級から階級を上げたラファエル・マルケスの挑戦を受け、試合開始早々から壮絶な殴り合いを繰り広げ、両者共に顔面が腫れ上がってボロボロになり、ボクシング史に残る激闘となった。鼻を骨折して呼吸困難に陥ったバスケスが7回に試合続行不能となり、王座から陥落。

2007年8月4日、ラファエル・マルケスとのリベンジマッチが行われ、またしても初回から打ちつ打たれつの殴り合いが続き、初対戦時をさらに上回る激闘となった。6回に一気に攻め立てたバスケスがレフェリーストップのTKO勝ちでリベンジとタイトル奪回に成功。しかし、マルケス側は「レフェリーストップが早かった。まだ戦えた」と主張した。この試合はリングマガジンの2007年ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

振返るとこの試合がバスケスにとってキャリア最高のパフォーマンスだった。

「壊れた鼻と自分自身を取り戻すためリベンジしなければなりませんでした。最初から最後まで全力で殴り合った。最大の戦いであり記憶でした。忘れられません。」

マルケスとのラバーマッチに臨み、またしても初回から壮絶な試合となり、両者共にダウンを喫するなど3度目の対戦もまた激闘となった。11ラウンド終了時点でポイントではマルケスがわずかにリードしていたが、最終12ラウンドにバスケスがダウンを奪い、判定2-1で判定勝ちし、王座の防衛に成功した。この試合は2年連続のリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

マルケス以外にもオスカー・ラリオスとも3度戦った。

プロ13戦目で初めて戦い3回KO勝利
https://www.youtube.com/watch?v=J51cGNOp1q0

2002年5月17日にWBC世界スーパーバンタム級暫定タイトルを争い、12回TKOで敗れかつての雪辱を許す。
https://www.youtube.com/watch?v=XXjbXy7tAmE

2005年12月3日に再度オスカー・ラリオスと対戦し、3回TKOで破りWBC・IBFのスーパーバンタム級タイトルを統一。
https://www.youtube.com/watch?v=8CIE7SufPfM

こうしてラリオスとの3部作を締めくくった。

2006年9月16日、WBO世界バンタム級チャンピオンのジョニー・ゴンザレスの挑戦を受ける。この試合では前半は一方的にジョニー・ゴンザレスが支配し、2度もダウンを奪われるなど苦しい展開だったが、バスケスは逆転の10回TKOで勝利しタイトルを防衛した。

ラファエル・マルケスとの3度の死闘により、網膜剥離を患い、防衛戦を行えないことに対して、WBCがバスケスの実績を考慮して、バスケスを名誉王者に認定した。

2009年10月10日、1年7か月ぶりの復帰戦でアンヘル・プリオロと対戦し、9回KO勝ち。

2010年5月22日、4度目の対戦となったラファエル・マルケスとWBCシルバー・スーパーバンタム級王座決定戦で対戦し、3回KO負けを喫しマルケスとの対戦成績は2勝2敗となった。試合後マルケスはファンが望むなら5戦目をやりたいと話すも、バスケスはいいパンチをもらったので目の治療に専念したいと話した。

治療後自身のオフィシャルページで減量がきついと話しフェザー級に転向して2階級制覇をしたいと話すも、今度は網膜剥離が再発し、試合予定をキャンセルすることになった。その後2011年7月16日、ラファエル・マルケスとファン・マヌエル・マルケスの兄弟テストマッチで引退を発表した。

通算戦績44勝32KO5敗。
バスケスは引退を決して後悔していない。

バスケス
「やりきったといえるボクシング人生だったので神に感謝している。願わくば永遠に若く、怪我無く健康でありつづけたかった。ボクシングだけが私の情熱だから。」

最後に一人、戦ってみたかった相手としてファン・マヌエル・ロペスの名をあげた。

バスケス
「サリドに負けるまでは無敗の大きな存在でした。メキシコVSプエルトリコ、それは私にとって素晴らしい戦いになった事でしょう。」

2016年7月17日、バスケスは右目を失明していたことを公表し、近いうちに義眼に変える手術をすることを明かした。右目は元々悪かったが2010年5月のラファエル・マルケスとの4度目の対戦でさらに悪化させ、その後、網膜剥離や瞼の手術を何度も受けるが回復せず摘出手術に至った。

妻と3人の子供に囲まれて、バスケスは現役に対する未練を残しつつ、カリフォルニア州サウスゲートにあるマグニフィコボクシングジムで自らの20年の経験を若者たちに引き継いでいる。

ライバルについて

ベストスキル ラファエル・マルケス

ナチョ・ベリスタインのところから来た彼は非情に守備的でいつもカウンターパンチを狙っている。彼は左ジャブの使い手で距離の管理が巧みでした。あの左をなんとか解除しようと大変でした。彼は質の高いファイターでした。

ベストジャブ ジョニー・ゴンザレス

左ジャブで距離を管理するのが巧みです。彼の戦略を解決するのに時間がかかりましたが、遂にそれを見出してなんとか勝つ事ができました。あのジャブをかいくぐって彼にパンチをあてるのは大変でした。

ベストディフェンス オスカー・ラリオス

彼の身長とリーチは本当に大きな悩みでした。

ベストチン ホエル・エリエセール・フリオ

彼がバンタム級の世界王者だった時、私はスパーリングパートナーでした。私のパンチが当たれば大抵のファイターは効くか倒れるが、彼は平気で立っていました。

ベストパンチャー ラファエル・マルケス

みんな困難で独自のスタイルを持っていましたが、ラファエルのパンチは木鎚で打たれているような痛さでした。

ハンドスピード オスカー・ラリオス

彼の強みは高さ、距離、そしてそれを生かしたパンチの速さでした。

フットワーク オスカー・ラリオス

おまけに足も速くリングを動くので捕らえるのが大変でした。

スマート ジョニー・ゴンザレス

彼の強固なスタイルを解体しノックアウトしないと勝てないので、そのスタイルを理解するのが本当に大変でした。

屈強 ラファエル・マルケス

私のファイターとしての強みは前進力ですが、彼も強靭な肉体を持ち、左ジャブが強くて自分の強みを生かすのが本当に難しかった。

総合 ラファエル・マルケス

彼が最強だろう。バンタム級で偉大な実績があり、兄はあのファン・マヌエル・マルケスだ。兄に通じるとても偉大でタフなファイターだ。

マルケスとの4度の死闘、その他の試合でもいつも流血、顔面をボコボコに腫らしていた。強打の逆転王でもあったので、易々と試合を止められない。負けていてもいつからでも逆転の一打をねじ込んできそうなムードとタフネスを誇った。そんな激闘のつけが、完全なる失明、右目を失うことにまでなってしまったが、それでもギリギリまで現役を諦めていなかった。

その性格も肉体も人並み以上にタフに作られたマグニフィコなのだから、第二の人生と健康だけは大事にして欲しい。
バスケスが生んだ数々の激闘は永遠に忘れない。

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