喧騒の中の孤独/(バズーカ)アイク・クオーティー Vol.1

ずっとやりたかったアイク・クオーティーの登場です。
ジャブの怪獣、アイク・クーティーはどこからやってきてどこに行ったのか。
知らなかった事実も含め、オールドファンの皆様お楽しみください。

https://www.youtube.com/watch?v=vbg9nf0Z7oU

ゾンゴ交差点はガーナの首都アクラで最も騒がしいエリアの一つだ。歩行者の海が車の周りをジグザグに流れ、標識のない道路を横断する。子供のケンカのように道路でクラクションを鳴らすワゴンタクシー、果物から子犬までなんでも売っている行商が道端を埋め尽くす。

1ブロック先にこのあたりでは異質でモダンなオフィスビルがある。この4階建てビルの所有者であるイシフ(アイク)クオーティーが現役のファイターだった時に建設されたものだ。他のガーナのアスリートはもっと閑静で高級なエリアにビルを建てるが、クオーティーは耳を道路の喧騒に向けることを好む。

ビルの中にあるクオーティー専用の部屋には、彼のキャリアの写真や記念品がたくさん置かれている。会合室は壁にアイク・クオーティーVSバーノン・フォレストのポスターが枠入りで飾ってあることを除けばほとんど空虚だ。

それはアイクが忘れたい夜であり、おそらく彼がポスターを部屋から遠ざけているのはそのせいだろう。2000年、フェルナンド・バルガスに敗れてから5年間の中断を経てクオーティーは2005年現役に復帰した。2006年に行われたバーノン・フォレストとの対戦はバルガス戦以来のHBOのヘッドライナーだった。

勝てば、新たな世界タイトルへの道が開けたかもしれない。10ラウンドを終えてほとんどのファンはクオーティーの勝利を確信した。しかしジャッジは全会一致でフィレストを支持。マジソンスクエアガーデンの観客がマイケル・バッファのコールを理解するのに時間がかかった。

クオーティー
「その後、もう戦いたくありませんでした。あと一試合だけやったがそれだけです。」

複数の不動産、外に止めてあるクラシックカー、アフリカの部族長のように首にかけている金のネックレスをみればクオーティーの財政状況は悪くはなさそうだ。

アイクが最後にリングに上がってから10年が経過した。(3年前の記事)

漁師の町、ブコムで生まれたイシフ(アイク)はファイターの家系だ。父親のロバート・ムスタファは裁判所の保安官であり、皆から畏怖されるストリートファイターだった。異母兄のクレメントは1960年のローマオリンピック銀メダリスト。彼がガーナ初のオリンピックメダリストだ。

イシフ(アイク)は27人兄弟の末っ子として生まれた。(記述ミスではない。27人だ。)当然、彼は家族の足跡をたどった。(アイク)は元々クレメントのニックネームだ。(それを良しとしない兄弟もいる)

8歳でガーナで有名なアコトクアカデミーボクシングジムのレギュラーになった。主任トレーナーのアトゥクエイ・クロッティはアズマー・ネルソンが「ガーナ史上最高のボクシングトレーナー」と呼ぶ男だった。アズマー・ネルソンにディフェンスの重要性を教えたのはクロッティだ。

クロッティの助手に13歳のダニエル・オダムテンがいた。オダムテンはクロッティの死後ジムを引き継ぎ、近所の子供達のスパーリングセッションを開催していた。

オダムテン
「最初はアイクに特別な才能があるとはおもっていませんでした。誰もが世界王者になると期待していたのはアルフレッド・コティでした。でもコティはエリートだったので別の人が担当になりましたのでアイクが私の大事な生徒になりました。」

オダムテンはクオーティーが2007年に引退するまでトレーナーを続けた。クオーティーはアマチュアで50勝4敗、1988年のソウルオリンピックでガーナ代表に選ばれた。韓国で行われたオリンピックに備えて出向いたアメリカのフロリダ州ペンサコーラがクオーティーの第二の故郷になり、そこでロイ・ジョーンズJrと友人になった。

クオーティー
「ボクシングでは偉大な世界王者は皆偉大なアマチュアでした。ほとんどがオリンピック選手です。1984年と1988年のオリンピックをみてください。(すさまじい数のアメリカ代表、メダリストがプロで世界王者になった。)1992年のオスカー・デラホーヤ、1996年のフロイド・メイウェザーをみてください。もしガーナがボクシングに対して真摯な気持ちがあるなら、政府はアマチュアプログラムをしっかりと構築すべきです。もしガーナ人が、オリンピックで世界と競い合うつもりがなくローカルレベルでいいのであれば、私の言葉は忘れてください。」

オリンピックが終わった2カ月後にクオーティーはプロになり16連勝全てノックアウトした。17戦目で元トップアマチュアのケルシー・バンクスをストップした時(これがアメリカデビュー)ドン・キングはクオーティーを「マシンガン」と呼んだ。アイクは自分のスキルを磨きながらニックネームを「バズーカ」に修正した。

1992年、クオーティーとアンダー23のサッカーチームはイタリアに向かう飛行機にいた。サッカー選手にはクオーティーの試合が招待された。歌とドラム演奏響くガーナ式の声援を受けたクオーティーはアルフレド・ジュアリーナを5回でストップ。その試合をみたフランスのプロモーターの目にとまり、クオーティーはアカリエプロモーションズと契約を結び、フランスに移住した。

フランスではアイクとロナルド(ウィンキー)ライトという名前の若いサウスポーがオダムテンとフランスのルイス・アカリエの元トレーニングを受けた。ハイガードで攻撃的なジャブを多用する彼らのスタイルが似ているのも今となっては不思議ではないかもしれない。

クオーティー
「ウィンキーとは決してスパーリングしませんでした。私たちは良い友達で彼の部屋は私の向いでした。1994年に初めて世界挑戦した時、ウィンキーも前座に出ていました。」

1994年の世界初挑戦、クオーティー(25勝21KO)はWBAウェルター級王者のクリサント・エスパーニャ(30勝25KO)と対戦。オッズは1-20というアンダードッグだった。

クオーティー
「エスパーニャは階級を上げてテリー・ノリスと戦う予定でした。私はただの踏み台に過ぎないとみられていました。」

10ラウンドの激しい攻防の果て、11ラウンド、クオーティーは15連打の一斉射撃でエスパーニャを崩壊させた。

アイク・クオーティーは遂に世界王者になった。しかしガーナではこの快挙よりもレジェンド、アズマー・ネルソンの引退の話題に沸いており、(ザ・プロフェッサー)アズマー・ネルソンはクオーティーのキャリアに暗い影を落した。

クオーティーのキャリアはアズマー・ネルソンの偉大な功績からの逃避でもあった。

Vol2に続く

父親のロバート・ムスタファは裁判所の保安官でありストリートファイター
8歳のクオーティーに13歳のダニエル・オダムテンがトレーナー
ロイ・ジョーンズJrやロナルド・ライトとの邂逅

面白いなあ、知らんかったなぁ。

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