無敵の少年/(Iron Boy)イヴァン・カルデロン

私には相手のような背の高さも、リーチも、パワーもありませんでした。動きで相手を失望させる必要がありました。打たせず、打つ、それが私のスタイルでした。

イヴァン・カルデロン・マレーロはとても小さな男だったが、最高のボクシングスキルで賞賛され、WBOミニマム級王座を11度、同ライトフライ級王座を6度も防衛する名チャンピオンとなり、プエルトリコを代表するボクサーとなった。

カルデロンはプエルトリコ北部のグアイナボ市で生まれ、幼いころからやんちゃだった。

カルデロン
「ストリートファイトばかりしていたので兄がジムに連れて行ってくれました。結局兄はボクシングを辞めたけど私は続けた。ボクシングのために生まれてきたんだとおもいました。17歳になって本気で取り組むことにしました。」

小さなサウスポーはアマチュアとして活躍、パンアメリカン大会や中南米ゲームでメダルを獲得、2000年のシドニーオリンピックにも出場したが残念ながら初戦敗退した。アマチュアでは110勝20敗の記録を残した。ブライアン・ビロリアと4度対戦し、3勝1敗している。

2001年2月にエリック・モラレスVSグディ・エスパダスJrの試合の前座でプロデビューした。

2003年5月3日、マンダレイ・ベイ・イベント・センターでWBO世界ミニマム級王者エドゥアルド・レイ・マルケスに挑戦し、9回43秒3-0(89-81、2者が90-80)の負傷判定で勝利し王座を獲得。その後2007年までに11度の防衛に成功、新たな挑戦を求めてジュニアフライ級に階級を上げた。

2007年8月25日、バヤモンのコリセオ・ルーベン・ロドリゲスでWBO世界ライトフライ級王者ウーゴ・カサレスに挑戦。8回にダウンを奪われるも何とか巻き返し12回2-1(111-116、2者が115-112)の判定勝ちで2階級制覇を成し遂げた。WBO王座獲得と同時にリングマガジンから同誌ライトフライ級王座に認定された。

カルデロン
「2度目の防衛戦、ネルソン・ディエッパ戦がベストパフォーマンスだったとおもいます。12ラウンド全てに渡り完封しました。」

2008年8月30日、バヤモンでウーゴ・カサレスと再戦し、7回に偶然のバッティングで額を裂傷しドクターストップ。7回1分58秒3-0(67-66、2者が68-65)の判定勝ちで3度目の王座防衛に成功。

2010年8月28日、グアイナボのコリセオ・マリオ“キホーテ”モラレスでWBA世界ライトフライ級王者ジョバンニ・セグラと王座統一戦を行ったが、プロ初黒星となる8回1分34秒KO負けを喫し、WBA王座の獲得に失敗、WBO王座の7度目の防衛にも失敗し、カルデロンは3年間保持してきたWBO王座をセグラに明け渡す結果となり、WBA王座とWBO王座の統一に失敗。

カルデロンの世界戦22戦18勝3敗1分というのは、プエルトリコではレジェンドのウィルフレド・ゴメスやフェリックス・トリニダードを凌ぐものだ。

カルデロン
「アマチュア時代のライバル、ブライアン・ビロリアと戦って3階級制覇を達成したかった。彼がタイトルを失い、その機会がなくなりました。」

忍び寄る年齢から来る衰えは隠せず、最後の4試合のうち3試合に負け、2012年、35勝6KO3敗1分という記録を残して引退した。

引退した今も地元でトレーナーとして積極的にボクシングと関わっている。

ライバルについて

ベストジャブ ロデル・マヨール

ライトフライ級時代のマヨールのジャブは長く真っすぐで素晴らしいものでした。

ベストディフェンス アルベルト・ロセル

ブロックが上手くて打ち崩す方法がなかった。

ハンドスピード ヘラルド・ヴェルデ

速くていたるところに消えたり現れたりした。

フットワーク ヴェルデ

一番は私自身だとおもいます。フットワークで相手は私を捕まえることが出来ませんでした。私には相手のような背の高さも、リーチも、パワーもありませんでした。動きで相手を失望させる必要がありました。打たせず、打つそれが私のスタイルでした。対戦相手で選ぶとしたらヴェルデです。2005年だった。彼は動きがよくて難しい相手でした。

ベストチン ジョバンニ・セグラ

全てのパンチで彼を殴ったが動じることがなかった。

スマート ロベルト・レイバ

これも自分自身が最もスマートだったと言いたい。相手ではレイバだろう。いいコンディションで私はプランABC全てを駆使せねばならなかった。

屈強 ジョバンニ・セグラ

彼をおいて他にいません。

ベストパンチャー ウーゴ・カサレス

彼のパンチは本当に効きました。

ベストスキル ロベルト・レイバ

試合中感銘しました。リングカットの方法、パンチをブロックする方法を熟知していた。

総合 ロベルト・レイバ

ミニマム級の4度目の防衛戦で戦ったとおもうけど、彼はボクサーに必要な全てを備えていました。パワー、スピード、スキル、殺気、全てを持っていた。私は5回で死んだとおもったけどなんとかふんばり判定で勝てました。

WBO総会で日本に来て、大晦日、井岡の対戦相手のジェイビエール・シントロンのセコンドに就くため再来日しているので書いた。来日は何度もしているが彼と日本人が戦ったことはないはずだ。WBOは無縁だった。

「小さなメイウェザー」の異名通り、誰よりも小さくパワーもないが、柔軟で素早いスキルフルなスタイルで難攻不落、当時のP4Pではマニア筋で上位に評価されていた。

もうメイウェザー並の域で負けないスタイルを確立しているとすら感じたが、やはり階級アップで体格、パワーの壁に屈した。明らかにデカい相手のパワーで今までのようなファイトが出来なくなっていった。計量では同じでも試合当日はいつも相手がかなり重かったはずだ。

身長152センチ、リーチ160センチ
小さくて非力でもここまでできると、ボクシングの奥の深さを教えてくれた。

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