フェアな戦いがしたかった。反則なしでネリーと戦いたかった。ネリーのスキルやパンチ力など正確なことはわかりません。まともな状況ではなかったからです。今後も体重が許す限りはバンタム級で戦い続けるのでしょうが、これ以上問題を起こさず、クリーンな戦いをして欲しいとおもいます。
ビッグパンチャーのサウスポー、山中慎介は卓越したバンタム級王者を輩出する日本の誇り高き伝統を継承した。2010年代のWBCバンタム級王朝を築き、12度の防衛に成功した。
1982年、10月11日に滋賀県湖南市(旧甲賀郡甲西町)で生まれた。実家はレストランを経営しており山中は野球少年だった。しかし15歳の時に新たな関心に出会った。
山中
「辰吉丈一郎VSシリモンコン・シンワンチャーをテレビでみて感動しました。畑山隆則選手も好きでした。彼らが私にボクシングに対する情熱を呼び覚ましたのです。」山中はアマチュアボクシングで34勝10KO13敗という記録を残した。後のWBCフェザー級、スーパーフェザー級王者の粟生隆寛に勝って国体で優勝した。他にインターハイ2位の経歴も持っている。当初はオーソドックスであったが、顧問の指導によりサウスポーに変えた。
しかし山中はプロとして成功するには、何か変化が必要だと感じていた。
山中
「目標もモチベーションもなくダラダラとやっていました。自分に規律を課すため、厳しい環境に身を置く必要がありました。帝拳ジムを訪れた時に本能的にここだと直感しました。最高レベルのボクシングをするという決意を維持できる緊張した雰囲気がありました。帝拳ジムが私に最高の環境を提供してくれました。」2006年1月にプロに転向した山中は判定勝ちでデビューを飾る。13戦11勝2分、2010年6月に日本王座を獲得。初防衛戦で当時プロスペクトで後に世界王者になる岩佐亮佑に10回TKO勝利。世界で活躍できるレベルであることを証明してみせた。
山中
「岩佐に勝ったことで帝拳の本田会長に認めてもらい世界戦が叶いました。岩佐に勝って私のチームは私が世界王者になれると信じていました。」当時の王者、ノニト・ドネアが階級を上げてベルトを返上したのをうけて、山中はクリスチャン・エスキベルと空位の王座を争った。両者がダウンする試合となったが、山中は強打でメキシコ人をストップした。
山中
「世界王者になったと実感できませんでした。多くの祝賀パーティーがありましたが、それでも現実だとはおもえませんでした。世界王者として防衛戦が決まった時にはじめて自分が王者であることを実感しました。」ビッグ・ダルチニアン、マルコム・ツニャカオ、スリヤン・ソー・ルンビサイ、トマス・ロハスらの強豪をはねのけ、山中は防衛を重ねていった。サウスポーのハードパンチャーの目標はバンタム級の統一に変わっていった。
https://www.youtube.com/watch?v=QMD7Z7biEmo
山中
「モチベーションが全てでした。私は常に新しい挑戦を探して前向きでいられたので長い間防衛に成功しました。対戦相手を選んだこともありません。常に強敵と戦いたかった。」2015年9月、元WBAの長期王者だったアンセルモ・モレノをスプリットで破る。
僅差の試合だったため2人は1年後にリングマガジンバンタム級王座をかけて再戦、今度は山中がショットガンを炸裂させてモレノをストップした。
https://www.youtube.com/watch?v=Bfgi78epFNc
山中
「あの試合の意味は大きかったです。リングマガジンのベルトは特別な権威があります。モレノに集中しそのベルトを獲得した時、私は本当に幸せでした。歴史上、日本人世界王者でもリングマガジンのベルトを獲ったものは少ないとおもいますからとても光栄なことです。」2017年8月、指名挑戦者、ルイス・ネリーによって山中の防衛記録はストップされた。13回防衛という具志堅用高が持つ日本記録がかかっていた。しかし、勝者のネリーにドーピングが発覚した。
2018年3月に両者は再戦し、山中は再びネリーに2回でストップされたが、今度はネリーが体重超過を犯した。
山中
「フェアな戦いがしたかった。反則なしでネリーと戦いたかった。ネリーは雑で荒いけど全体的にはいいファイターでした。ネリーのスキルやパンチ力など正確なことはわかりません。まともな状況ではなかったからです。彼のコンビネーションが効果的だったことは認めます。今後も体重が許す限りはバンタム級で戦い続けるのでしょうが、これ以上問題を起こさず、クリーンな戦いをして欲しいとおもいます。」ネリーの2度に渡る反則という不運の敗戦だけで、27勝19KO2敗2分という記録を残して山中は引退した。
現在37歳の山中は妻と2人の子供と東京で暮らしている。テレビ番組に出演したりボクシングの解説をしている。最近では「Gods Left」というバンタム級のトーナメントを主催している。
山中
「さらなる準備も進めています。このトーナメントの優勝者は日本王者に挑戦する資格があるとおもいます。未来の日本王者、世界王者を生み出していくためにイベントのサポートを続けていきたい。毎年このトーナメントを開催したいです。」ライバルについて
ベストジャブ アンセルモ・モレノ
私の対戦相手は私に効果的なジャブを打てなかったとおもいます。しかしモレノは最高のジャブを打ってきました。彼のジャブは速くはないけどタイミングが独特で予測できないものでした。無駄な動きのないコンパクトなジャブでした。初戦では彼のジャブで距離感が掴めませんでした。
ベスト・ディフェンス モレノ
特に初戦のモレノのディフェンスは厄介でした。距離の達人で、私は自分の距離を作れませんでした。彼にパンチを当てるのは難しかった。モレノはスピードはないけどとらえどころがないのです。彼にパンチを当てるために多くの工夫、テクニックを駆使しました。
ハンドスピード マルコム・ツニャカオ
ツニャカオが最高だったとおもいます。岩佐も速かった。スピードが速くてもそのパンチは予測可能だったため対処できました。実際、ハンドスピードで私を驚かせた選手はいません。
フットワーク アルベルト・ゲバラ
フットワークを多用しよく動きましたが、強靭さに欠けていました。アウトボクシングに専念して打ち合いを避けました。ツニャカオもいい脚を持っていましたが私よりフットワークが優れた男はいませんでした。(笑)ダルチニアンに対する私のフットワークは最高でした。(笑)ゲームプラン通りに動けて満足しました。
屈強 スリヤン・ソー・ルンビサイ
スリヤン、ダルチニアン、ネリーでしょう。一番印象に残っているのはスリヤンです。他の誰よりも頑丈だと感じました。
スマート モレノ
モレノには素晴らしい経験がありました。彼はWBAで12度の防衛に成功していました。そこで学んだ全てを生かす方法を知っていました。ただトリッキーなだけではなくとても頭がいい。私の距離を作らせなかった男はモレノだけです。
ベストチン ビッグ・ダルチニアン
消去法でダルチニアンになります。彼だけが私の相手でダウンせず12回のゴングを聞いたからです。私は全ての挑戦者を倒してきました。私の強いパンチを受けても倒れなかった。岩佐も私のパンチに耐え続けた。レフリーが救うまでとても勇敢だった。
ベストパンチャー ダルチニアン
これは難しい質問です。私はキャリアを通じて本当のハードパンチャーに出会ってこなかった。一人選べと言われたらダルチニアンにします。モレノとの再戦でダウンしましたが、効かなかった。パンチ力は感じませんでした。
ベストスキル モレノ
とても洗練された熟練のファイターでした。非常にテクニカルで初戦ではなかなかパンチをヒットさせることができませんでした。自分がジャブで主導権をとれなかったのはあれがはじめてでした。ボビング、ウェービングが卓越してました。ラストラウンドでポイントを獲ったからかろうじて勝てましたが、そんなことははじめてでした。初戦ではモレノの方がよかったとおもいます。
総合 モレノ
私が戦ったファイターの中ではモレノこそ最高のファイターでした。彼のジャブと距離感はいままで経験したことのないものでした。とても多くのことを考えさせられました。素晴らしいライバルでした。初戦は彼独特の距離で戦ったので大変でした。モレノの予測不可能なタイミングに戸惑い、私は自分の距離を作れず、効果的なパンチを当てることができませんでした。
モレノは決してスピーディーなパンチャーでもフットワーカーでもありませんでしたが、特にジャブが巧みで踏み込むことができませんでした。初戦はオープンスコアリングで8回までモレノが勝っていました。最後の3ラウンドでなんとか僅差で勝てました。
井上尚弥がいなければ、山中慎介こそが私にとっての日本史上最高のバンタム級だったように、山中慎介がいなければ西岡利晃が一番のモンスターレフトだった。西岡のすぐあとに同じ帝拳から比類なきゴッドレフトが登場するとはおもわなかった。
山中は悲劇のヒーローだ。
13度目の防衛戦の相手がネリーでなければ、反則王でなければ、具志堅当時と同じクオリティーの相手であれば記録を更新していただろう。再戦でも反則を繰り返されて、フェアな戦いが出来ぬまま引退となった。
しかし同時に山中の方にもタイムリミットは迫っているようにみえた。モレノとの再戦で圧勝し強さのピークに達したとおもわれた直後の試合では、身体全体の固さや効きやすさが顕著にみられるようになっていた。繊細なボクシングが年齢や微妙な何かで劣化の兆しをみせていた。
アンセルモ・モレノとの2試合こそが山中を進化させ完成の域に達したピークだったようにおもう。
批判を承知で書けば、ピーク時の山中であればレオ・サンタクルスを倒していただろうし、ノニト・ドネアともいい勝負を演じたかもしれない。願わくば海外進出、もっと世界に羽ばたいて欲しい選手だった。バンタム級のスケールを超える体格と左の強打を持っていた。
ルイス・ネリーとの初戦も続けていればゴッドレフトが炸裂した気がしてならない。距離、相性、タイミングが合っていた。
あの山中との初戦を終えて、ネリーは怪物化していく。
身体が硬いし、ジャブと左ストレートしかない、それしか打たない方が強い。バリエーションの非常に少ないサウスポーだったが、究極に研ぎ澄まされていた。「神の左」が大げさでない偉大な世界王者だった。
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