ボクシング進化論、今を追うだけで忙しいので過去は振り返らない。古い雑誌やビデオの収集もしない派なのですが・・・
昨日ふと書いたこれで、やっぱりいいなぁ、すごいなぁ、原田も青木も今でも通用するなぁ、強いなぁなんておもっちゃいました。その時代の背景、突出度、やはりボクシングは時代を写す鏡であり、時の王者は偉大である。
そんなファイティング原田を調べて出てきたのがこの男であり、朽ち果てていく脳内だけでなく記事に残しておこうとおもいました。
田辺 清
22勝5KO1分
田辺 清(たなべ きよし、1940年10月10日 - )は、日本の元プロボクサー。青森県青森市出身。1960年ローマオリンピックのフライ級銅メダリスト。不運な判定により五輪金メダルを懸けた決勝進出を妨げられ、プロ転向後は技術とパワーのバランスの取れた逸材として世界王座を嘱望されたが、世界挑戦を前に網膜剥離を発症し無敗のまま引退。
「悲劇のボクサー」と呼ばれた。
田辺 清は1958年、青森工業高校でボクシングを始め、高校日本一となった。中央大学に進学。大学でアルバイトをしながら競技に打ち込み、国内タイトルを総なめにする。2年後輩に1964年東京オリンピック・バンタム級金メダリストとなった桜井孝雄がおり、公式戦では2度戦い、いずれも田辺が勝利。1962年の第17回岡山国体では、青森代表の田辺が階級を上げてバンタム級で出場し、千葉代表の桜井にポイント勝ちを収めた。この試合は田辺にとって120戦のアマキャリアで最後の試合となっている。
1960年、ローマオリンピック、フライ級で銅メダルを獲得。
卒業後は日刊スポーツに入社するが、半年で退社。プロ転向を決意する。
1963年12月4日、田辺ジム所属でプロデビュー。1965年10月25日、14戦目で日本フライ級王者滑川明石に挑戦し、10回判定勝ちで王座を獲得した。同王座は2度の防衛に成功した。1965年からの2年間、田辺のトレーナーはボビー・リチャードが務めていたが、後に韓国初の世界チャンピオンとなる金基洙を育てるため韓国へ渡り田辺の下を離れてしまった。代わりのトレーナーとは相性が合わず、1967年2月からエディ・タウンゼントが田辺のトレーナーとなる。
同年2月20日、ノンタイトル10回戦で、当時の世界フライ級王者オラシオ・アカバリョ(アルゼンチン)に6回TKO勝ち。同王者との世界王座を賭けた試合も決定していたが、右目に網膜剥離を発症。2年間の手術療養の甲斐なく失明し、無敗のまま現役引退。田辺に代わってアカバリョの世界王座に挑戦したのは返り咲きを目指した海老原博幸であった。
網膜剥離で世界戦が実現しなかったため、田辺がエディに教わった期間はわずか20日間だけであったが、二宮清純が2011年に行ったインタビューで、田辺はエディとの出会いを
「一番の邂逅ですよ。難攻不落と言われたアカバリョに、海老原(博幸)、高山(勝義)でも勝てなかったアカバリョに勝たせてくれた。この感謝の気持ちは言葉では言い尽くせないね。エディさんの教えは、今でも心の中に深くしみこんでいますよ。」
と述懐している。一方、多数の名ボクサーを育てたエディは生前「一番かわいそうはタナベね」と度々語っていた。
[st-card-ex url="https://www.ninomiyasports.com/archives/4935" target="_blank" rel="nofollow" label="" name="" bgcolor="" color="" readmore="続きを見る"]田辺
「片目でもいい、この試合が最後でもいいからやらせてほしい」エディ
「清はアカバロを実力でノックアウトした。ラッキーパンチではないよ。彼が僕が見てきた中で一番のアンラッキーボーイね」
https://www.youtube.com/watch?v=UFOyN2izWNY
すごい貴重な映像です。
その事実のみは知っていましたが、こりゃ金メダリストの桜井孝雄を凌駕しているな。不運な判定により五輪金メダルを懸けた決勝進出を妨げられとはどういう経緯だったのだろう?その後、五輪でこれ以上の記録を残したものは軽量級では森岡栄治以外いない。
昭和の3羽カラスと同世代、ファイティング原田より年上だったのか。平成3羽カラスは鬼塚、渡久地、辰吉なのか川島なのかわからない面があるが、田辺も4羽目のカラスといえる。しかも最高峰の才能を持った男だっただろう。
ここまでもよく知られた話ではあるが、田辺がノンタイトルで破ったオラシオ・アカバリョ(アルゼンチン)というのがすごい。
通算戦績
75勝34KO2敗6分
田辺と戦った時は73勝1敗という怪物王者だった。
昔は、世界に挑戦するにはその前に世界王者を破るとか、大きな実績を残さねばならなかったようで、世界王者もノンタイトルをよくやっている。パスカル・ペレスに初めて黒星をつけた矢尾板貞雄などもその例に漏れない。
田辺の世界戦を目前に控えての失明、引退を受けて急遽ピンチヒッターで遠くアルゼンチンまで出向いて戦ったのが海老原博幸であり、何度も見舞われた骨折によりSDで惜敗した。これが燃え尽きたアカバリョのラストファイトとなった。
ここまで書くと、またしても壮絶なボクシング人生を駆け抜けた海老原博幸の事も書かずにはいられなくなってきた。
おもっていたよりもずっと偉大な先人達なのでした。
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