気が付けばフェニックス/大橋秀行
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過去の偉大な日本人ファイターといえば、ファイティング原田、渡辺二郎、海老原博幸、長谷川穂積、柴田国明などが一般的に思い浮かぶ。

大橋秀行(19勝12KO5敗)は、ファイターとしてよりもむしろプロモーターとしての仕事の方が国際的によく知られている。

とはいえ、1980年代から1990年代初頭にかけての彼は、24試合のキャリアの中で、8年間で7つの世界タイトルマッチに出場し、歴代の名選手と対戦した素晴らしいファイターであった。プロモーターとして、彼は今、日本を代表する人物の一人であり、次世代の日本人ファイターを育成している。

大橋は1965年、神奈川県横浜市に生まれた。
アマチュア時代から国内外を問わず活躍、10代で日本代表として1985年のキングスカップに出場し、オリンピック出場を目指したが、国内予選で黒岩守に敗れた。

1985年2月12日、米倉健司のもとで当時19歳の大橋はプロデビューを果たす。日本の多くのトップアマチュアがそうであるように、6ラウンドでキャリアをスタートさせ、相方 将克(西遠)をわずか145秒で圧倒した。

その3ヶ月後に行われた2度目の試合では、長内 秀人(協栄)を8ラウンドで下した。大きなステップアップであったが、大橋はパワーだけでなくスタミナもあることを示した。

3戦目は、元日本ライトフライ級王者の倉持 正(角海老宝石)志を10ラウンドの予定が1ラウンドで3回倒し、勝利を収めた。倉持は前年12月にWBCライトフライ級世界タイトルマッチで伝説的なファイター張正九と12ラウンドを戦っていた。

1986年、大橋は金奉準(韓)に10ラウンドの判定負けを喫した。しかし金奉準がその後、WBAミニマム級王座を獲得し、91年まで保持していたことを考えると、この敗戦は決して悪いものではなかった。

大橋はこの敗戦からわずか3ヵ月後、空位となっていた日本ライトフライ級王座を野島 嘉章(ピストン堀口)昭から奪取。

国内でのタイトル獲得に続き、仁川で韓国の象徴である張正九に世界タイトル初挑戦することになった。当時WBCライトフライ級王者だった張は、当時5勝1敗の大橋を相手に11度目の防衛戦を行った。

張は伝説の王者であるだけでなく、プロとして31勝1敗、唯一の敗北を取り返し、4年間無敗を誇っていた。大橋はこの伝説的な韓国人選手に対して善戦し、張の重いショットに対抗して顔面を強く打ちぬくこともあったが、張の執拗なプレッシャーに打ちのめされた。顔面血まみれ、腫れ上がった大橋は、5ラウンドでストップされた。

張に敗れた後、大橋は日本に戻り、喜友名朝博に判定勝ちして日本ライトフライ級タイトルを奪還、国内3勝を記録。

この勝利によって、大橋は張との2度目の対戦を今度は日本のホームで果たした。3回、3度のダウンを奪われた直後、右の強打をアゴにクリーンヒットさせ、王者を大きくグラつかせたものの追撃及ばず。結局、その後4度のダウンを追加された末の8回TKO負けでまたしても世界王座獲得ならず。

ライトフライ級で2度の世界戦に臨んだがこの階級の偉大な選手に惜敗し、階級を下げてミニマム級で戦うようになった。そこで彼は本当の成功を手に入れた。

張に敗れた後、いくつかの勝利を収め、自信をつけた大橋は、1990年2月、WBCミニマム級チャンピオン、崔漸煥と対戦。崔は、1986年から1988年までIBFライトフライ級王座を保持し、1989年にはWBCミニマム級王座を獲得するなど、2階級で成功したファイターの一人だった。大橋との試合は、崔の初防衛戦であり、一進一退の攻防が続いたが、9ラウンドに大橋のボディショットが決まり崔はダウン、試合続行もボディショットで再びダウンし、カウント負け。

初防衛戦では、井岡弘樹からWBC王座を奪ったタイのナパ・キアトワンチャイに勝利。井岡の2連敗の雪辱を果たし、大橋対井岡戦の期待が膨らんだ。しかし残念なことに実現はしなかった。

1990年末、大橋はメキシコの伝説的な選手、リカルド・ロペスと対戦し、3ノックダウンで5ラウンドTKO負け、タイトルを失った。この勝利でロペスは初の世界タイトルを獲得し、後のスターへの大きな一歩を踏み出した。

ロペスに敗れた大橋は引退を考えたが、キャリアを継続し、1991年まで3勝を挙げて再起を図る。この再建は1992年まで続くが、その頃、大橋はもう一つのタイトルマッチを視野に入れ始めていた。

1992年10月、大橋は国技館でWBAミニマム級チャンピオン、崔煕庸(当時14勝0敗)と対戦。崔は、すでに4度の防衛を果たし、実力者としての評判を高めていた。しかし、全会一致の判定で大橋が2度目の王者となった。

1993年2月10日、大橋は無敗の指名挑戦者チャナ・ポーパオイン(タイ)に判定で敗れ、2度目の王座奪取は4ヵ月もたなかった。ポーパオインは、1995年12月まで王座を保持したが、ロセンド・アルバレスにスプリット判定で敗れた。

このタイトルマッチが、大橋の最後の試合となった。
現役続行を目指していたが、目の病気が発覚し、引退に至った。1994年2月7日に記者会見を開き、デビュー戦から約9年での引退を正式に発表。

19勝12KO5敗というキャリアで、伝説的な記録は残らないが、その後も高い評価を受け続け、後に大橋ジムを設立することになる。

このジムは現在、井上尚弥や八重樫東を輩出する日本有数のジムだ。また、日本ボクシング界の重鎮として、日本ボクシング連盟と共にアマチュアとプロが一緒に練習できるよう取り組んでいる。

プロモーターとしての彼の活動は、日本のボクシング界が発展するための鍵の一つと考えられており、定期的にトップ選手と契約し、フェニックスバトルの旗の下で定期的な興行を開催している。

個人的に大橋をしっかり認識したのが、日本ボクシング暗黒時代、国内ジム所属選手の世界挑戦連続失敗回数「21」の記録に終止符を打った崔漸煥との試合からだ。それまでもボクシングを観ると熱くなっていたが、国内や世界の詳細はインプットされていなかった。あの頃、韓国人がまだ強くて、タフなブルファイターがたくさんおり、崔漸煥も典型的なコリアンファイターだったが、大橋のパンチは重すぎた。

150年に一人の天才?という触れ込みの割には戦績は芳しくなく、軽量級らしからぬ変わったスタイルという印象を受けた。大橋のスタイルは重量級のようであり、フットワークなし、手数少ない、ほぼ相打ちのカウンターで、溜めて溜めて、ズドン、パンチのキレと重さは最軽量級のものではなかった。

今にしておもえば、天才とはいえ、5勝1敗の日本人が31勝1敗、後に15度防衛の記録を残し殿堂入りした張正九に挑むのだから無謀なチャレンジだった。こういう挑戦が日本ではよくあった。

張正九の壁は厚く、ミニマムに下げて、大橋はWBC、WBAのベルトを獲得したが、方や伝説のリカルド・ロペス、もう一方も10度くらい防衛したチャナ・ポーパオインという名選手に敗れ引導を渡すことになったが、ロペスは仕方がないにしても、チャナ・ポーパオインには勝てたような内容にみえた。メガトンパンチなのだが、狙いすぎで手数少なく、積極性で競り負けたようにおもう。

しかしもうあの頃は、気力、体力、減量の限界、世界レベルでは大橋だけが重い十字架を背負い日本ボクシングを引っ張っていた状態だったともいえ、かなり消耗していたのだと推測する。

米倉会長と二人三脚で歩んできた多難な現役時代を経て、大橋秀行が今、日本を牽引するトッププロモーターとなり、素晴らしい選手を輩出し続けている。

こんな未来は予想できなかったが、多難の道のりを歩んできたからこその、大橋しか経験しえないボクサーロードだったが故の結果だろう。

現役当時はフェニックスとは呼ばれていなかった気がする。いつのまにかそんなニックネームがついた。19勝12KO5敗というキャリアだが、偉大な世界王者以外には負けていない。誰に対してもKO勝ちが期待できるスリリングなワンパンチフィニッシャーだった。

何度負けても復活し、WBCもWBAも獲り、優れたプロモーターとしても活躍している、絶対に世界をとれるといえた異次元の強打でボコボコに相手を倒し、そのスタイルに固執するが故、ボコボコに打ちのめされてきた、あの大橋だから成しえたことなのだろう。

これからも、健康で末永い活躍を・・・

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