自分が苦しい時は相手も苦しい/レパード玉熊(玉熊 幸人)

日本ボクシングの暗黒時代、寡黙に駆け抜けたレパード(豹)がいた。

レパード玉熊は今や多くのボクシングサイトで見かける名前ではない。それは、玉熊が本名でなくリングネームで戦っていた事、日本ボクシングの低迷期に活躍した世界王者だった事などがある。玉熊は1980年代から90年代初頭に世界王者不在の日本に明るい光を灯した。

筋金入りのファンは彼を忘れない。

1964年、青森県青森市で生まれた玉熊は青森商業高等学校で、当初体操部に入部しようと部室を訪れたが誰も居らず、隣のボクシング部から声を掛けられ入部。当初は右のオーソドックススタイルだったが、1年の秋監督のアドバイスにより、サウスポーに転向。2年の春季大会では、県モスキート級チャンピオンとなり頭角を現す。3年時はインターハイ・ライトフライ級準優勝した。

右効きのサウスポーである事が彼の強さの秘訣であり、右のリードブローが多彩で、ディフェンスでも右のカバーリングが巧みだった。

顎の脆さをカバーするため、顔を打たれないよう顔面のみの防御に集中し、ボディを打たれても効かないくらいまで徹底的に鍛え上げた。長身で手足が長いが、アウトボクシングではなく接近戦を得意にし、至近距離で相手のパンチをガードしながら効果的にボディブローやカウンター攻撃をする。日本王座を獲得した試合では、ボディを打たれるたびにわざと苦しそうに唸り、相手の意識をボディに集中させるなど、頭脳的なボクサーだった。

プロ転向6連勝と順調なスタートだったが、その後のキャリアは壊れ始め、8勝3敗になった。苦しい時を乗り越え、キャリアを再構築し、フライ級に転向しながら16勝3敗まで立て直した。

1987年2月26日、日本タイトル初挑戦、王者の西川浩二は23歳、16勝6KO4敗1分、玉熊も23歳で16勝5KO3敗。西川が既に3度の防衛をしている王者という以外、とても良く似た者同士の対戦だった。しかしトップに浮上したのは玉熊で、10回ストップで新王者となった。

再戦で西川を返り討ちした玉熊は3度の防衛に成功、戦績を23勝3敗まで伸ばした。

1989年3月、故郷・青森でWBC世界フライ級王者・金容江(韓国)に挑んだが、3者ともに115-113という惜敗で悲願達成はならず。

その後3連続KOで復活し、1990年7月29日、茨城県の水戸市民体育館で世界再挑戦。WBA世界フライ級1位の指名挑戦者として同級王者・李烈雨(韓国)に挑んだ。李は金容江やヘスス・ロハスに勝っている王者だった。

10回、これまでダウン経験のない王者から2度のダウンを奪い、レフェリーストップによるTKO勝ち(正式タイムは10R2分21秒)。玉熊は31戦目にして世界王者となった(青森県出身ボクサーとしては初)。

https://www.youtube.com/watch?v=RFkf7stC_LE

12月6日には故郷で初防衛戦。元王者ヘスス・ロハス(ベネズエラ)と対戦し、フルラウンドの死闘の末、引き分け1-0で辛くも防衛成功。この時の平均視聴率は19.2%であり、高視聴率を記録した。

翌1991年3月14日、2度目の防衛戦。エルビス・アルバレス(コロンビア)と対戦、12回判定負けで王座陥落。玉熊の短い統治は終わった。試合後、左眼網膜剥離が判明し、結局この試合を最後に引退した。

引退後、トレーナーとして国際ジムに留まり、小林昭司(後のWBA世界スーパーフライ級王者セレス小林)、松浦広平(後の日本スーパーフライ級王者プロスパー松浦)等を指導。

1995年11月に東京都千代田区九段に「レパード玉熊ジム」を開設。同ジム所属の小林秀一が国立大学卒業選手初の日本王者となった。また、後に女子世界王者となる小関桃もアマチュア時代に指導した。

ジムで後進の指導に当たる一方、現在は輪島功一、渡嘉敷勝男、飯田覚士、戸高秀樹等の元世界王者仲間とともに、袴田事件の再審を求める要請書を最高裁判所に提出。元プロボクサーの死刑囚・袴田巌の無罪獲得のため活動を続けている。

また、テレビ、ラジオ、映画など多方面にて活躍している。

金容江VSレパード玉熊

それ以前からたまたま見かけるボクシングには心を奪われてきたが、明確にボクシングを愛し、スケジュールをチェックしてTVにかじりつくようになったのはこの試合がきっかけだ。当時、日本に世界王者はおらず(その後大橋秀行が世界王者になった)世界戦21連敗を記録していた。どん底だったが日本ボクシングは死んでおらず、このレパード玉熊という地味な男が一番世界に肉薄した。

玉熊の故郷での試合なら勝ちでもいいような接戦だったが、ジャッジはフェアでほんの少し金容江が上回った。

2度目の世界戦、李烈雨はウンベルト・ゴンザレスにも判定まで粘り、金容江、ヘスス・ロハスを連破していた猛烈な突貫ファイターで玉熊には分が悪いと感じたが、長身のサウスポー、玉熊は接近戦のコンビネーションで渡り合いTKOで攻略した。腕を畳んだショートのコンビネーションが見事だった。李はこの試合を最後に引退している。

これにより、日本の長身ボクサーといえど、接近戦が上手くないと世界で戦えない、アウトボクシングだけでは通用しないと感じるようになった。

その時の平凡なようで印象的な言葉が

玉熊
「自分が苦しい時は相手も苦しい」

だったと記憶している。

元王者のヘスス・ロハスとは分のいい引き分け、2度目の防衛戦、コロンビアのエルビス・アルバレスに敗れ短命に終わった。(アルバレスは初防衛戦で金容江に負け、30歳でプライベートで刺殺された。)

さほど天才ともてはやされたわけでもなく、スピード豊かでも、パンチャーだったわけでもなく、8勝3敗という苦節を経て、打たれ脆い顎を守りボディを鍛え、長身なのに実は接近戦の鬼という頭脳的なファイトで、暗黒時代に夢をみせてくれたレパード玉熊を一生忘れない。

27勝13KO5敗1分

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