「1ラウンド観ただけで好きになる要素がたっぷりのボクサーでした。」というコメントをfacebookでいただいた。ロシアの過酷な辺境から出てきた異形の怪物、プロボドニコフのファイトスタイルは、その真っすぐな人間性そのままだった。私はプロボドニコフはもちろん、彼と戦ったファイター達を尊敬する。
勝利の後に
電車で24時間、片道切符のプロボドニコフにベレゾヴォに帰る金はなく、一度にまとめて4,5ヵ月住み込みでトレーニングに励んだ。食事は地元の人々に提供してもらった。戦いの夜に故郷に帰るチケット代も含め、まとめて稼ぐのだ。
プロボドニコフ
「お金がなかったので家に帰れませんでした。何もありませんでした。私には家族を養う必要がありましたが、何も持たずに家に帰る意味がありませんでした。ジムで寝泊まりしました。大変でしたがその苦労が私を鍛えました。そのおかげで今日の自分になれました。今ではお金も少し貯まり、あちこち旅をしてジムを開いたり、村や孤児院、里親などを支援しています。誰かを助けることができるならどこでも行きます。」プロボドニコフのプロボクサーとしての道のりは険しいものだったが、その献身と犠牲は幸運にもすぐに報われはじめた。彼がプロになったちょうどその頃にアメリカのプロモーターが才能の発掘にエカテリンブルクを訪れていた。彼らはまだ2試合しかしていないプロボドニコフの可能性に賭けた。すぐに契約しプロボドニコフをアメリカに連れて行った。プロボドニコフはアメリカデビューを初回ノックアウトで飾るとKOの山を積み重ねた。
しかしアメリカでの生活の違いはプロボドニコフに大きな戸惑いを与えた。
プロボドニコフ
「いい悪いという意味ではありませんが、アメリカは全てお金で縛られています。気持ちだけで人を助ける考えがありません。すべてお金です。何かが欲しければお金を払う。ロシアでは人を助けるのにお金を要求することはありません。お金が目的ではないのです。助けてあげたい気持ちがあればそれをする。アメリカではそのような考え方がありません。尊厳と義務だけで動くことはめったにありません。だから私はロシアの方が好きです。私はロシア人です。本当はアメリカのことも大好きで、たくさんの友人もできました。いつでもLAに行くことができるし、ジムに行けば多くの友人が集まってくれます。でも、根本的な考え方が違うので、そこに住むことはできませんでした。夏にトレーニングする時、家族を連れて行きました。家族にはこの国の発展から多くを学んで欲しかったからです。
故郷では私たちはシンプルな暮らしをしています。フィッシングかハンティングしかない。それでもみんな幸せで友好的です。お金を稼ぐことはできませんが「金持ちになった事がない(元からお金など持っていない)のだから(今より金がない)地獄なんてない」という格言があります。これが私たちの生き方です。」
プロボドニコフは無邪気な温かい笑顔でそう語る。
地元のボクシングを盛り上げ、影響を与えたいと言う彼の願望は否定できない。彼はキッズのボクシング大会、「プロボドニコフカップ」を開催し多くの人が集まることを喜んだ。それはまた、より公的な立場で国民に奉仕するという野望を駆り立てる。政治家としてのキャリアがプロボドニコフの次なる道だ。
プロボドニコフ
「秋に地方選挙があります。結局ボクシングは永遠には続かないことを悟りました。いずれにしてもしっかりと考えなくてはなりません。今後の人生で何をするか考えなければなりません。政治家にならないかという申し出を受けました。家族も賛成しており、一生懸命考えましたが、恐らくそれが正しい決断であるとおもいます。でも、ボクシングキャリアの終わりを明確にしたわけではありません。私は再びリングに足を踏み入れるとおもいます。大きな戦い、大事な戦いに参加したいです。しかし現時点では、地元での政治的な活動に縛られています。だからチャンスがあればいつでも大丈夫なように準備だけは整えています。」
プロボドニコフは今でも毎日トレーニングを続けており、毎朝5時に起きて18キロ走っていることをファンに伝えたいと言う。彼が歩む道はスケールは違えどマニー・パッキャオと似ている。
プロボドニコフ
「選挙が上手くいくように神に願っています。人々のために役に立つ人間になりたいです。それが正しい道なのかまだわかりません。リングにいる時は全部自分の責任なので、多少不幸なことがあっても、それは私自身の個人的な不幸です。他人を巻き込むことはありません。しかし政治の世界は違います。私はみんなに対して責任があります。私が何より心配しているのはそこです。人々を失望させたくありません。」プロボドニコフの全盛期、彼は正体不明の不気味さを掻き立てた。ロシア語しか話さず、陽気だったり不吉だったり異形の振る舞いで相手を狼狽させた。計量では、獣の形相で雄たけびをあげポーズを取り、殴り合うのが楽しみで仕方がないような純粋な喜びの笑顔で、家族の集会に参加するようにリングへと歩いていった。
しかし、その内面には、人々に恥をもたらす恐れがあった。それが今でも彼を駆り立てる。
プロボドニコフ
「政治においては自分自身ではなく、自分を信じてくれる人々に対して責任があります。私にとって人々を失望させる事こそ最悪です。リングでは勝ち負けは重要ではありません。負けても私は全力を尽くしたことを知っているし、恥もありません。大事なのはファンを失望させないこと、自分に失望しない事です。タイトルを持っているかどうかは関係なく、私はTV局の人気者でした。他のロシア人ボクサーと違って、私はタイトルもないのに多くのチャンスを与えられ、ビッグマッチが出来ました。ファンには感謝したいです。リングで私がすることは全て、彼らを失望させないファイトをすることです。」ティモシーブラッドリーのWBOウェルター級チャンピオンシップへの挑戦はリングマガジンのファイト・オブ・ザ・イヤーに選ばれたが、これはロシア人ボクサー初の快挙だ。
プロボドニコフ
「あの試合で私は「シベリアンロッキー」として知られるようになりました。あの試合が私の道を開きました。試合に負けたにも関わらず、私には大きな勝利となりました。人々を熱狂させた試合だったからです。人生を変えたという意味では恐らく最も厳しい戦いで、私にとっては最初にして唯一のチャンスだったと思います。全てをぶつけて全力で戦ったからこそ、別のチャンスを得ることができたのです。」この試合でプロボドニコフはベルトより大事なものを手に入れた。彼のスタイルは多くのファンを獲得した。ファンの支持を得たプロボドニコフは、ライトウェルター級でWBO王者のマイク・アルバラードをノックアウトし、世界王者に輝いた。
遂に、ボクシングで最も長い旅の目的地に到達した。
しかし、プロボドニコフは、その勝利の後にハードワークが始まったと主張する。
プロボドニコフ
「生涯最高の気分でした。私だけでなくチーム全体が人生で最もエキサイトした瞬間でした。私は私のまま変わりませんが、様々な責任が生じました。世界チャンピオン、それは大きな責任であり追加の仕事です。名声、人気、私の人生は変わりました。みんなが私を知るようになりましたが、それは責任だともう一度言います。世界チャンピオン、有名になるのは大変な仕事です。正しく、賢く、培養された人間であり続ける必要があります。子供達の模範でなくてはなりません。飲まず、遊ばず、詩を読む。品行方正、礼儀正しい人間になるために懸命に取り組む必要がありました。全てが変わりました。世界チャンピオンになるということは全てのドアが開かれたということを意味しません。」
初防衛戦で、プロボドニコフは挑戦者クリス・アルジェリから初回に2度のダウンを奪ったにもかかわらず、判定で敗れ王座を失った。
最後の試合では伏兵のジョン・モリナ・ジュニアにアウトボックスされた。「シベリアンロッキー」の精神は衰え、ブラッドリーとアルバラート戦でみせた時代を超えた戦争の炎は突然消えた。
プロボドニコフ
「言い訳はしません。私は強靭な男です。試合には負けましたが相手より弱いから負けたのではありません。そこには「燃えるもの」がありませんでした。何かが欠けていて情熱がありませんでした。「燃えるもの」がなかった。私にはリスクを冒す準備が出来ていなかった。ハングリーでなくなると、「この犠牲は何のためにあるの?」という自問が始まりました。何のためにこの身を危険にさらしているのかわからなくなり、そういうハングリーさなしで戦っていました。しかし誰のせいでもありません。自分のせいです。それは明らかに心理的なものでした。私は過ちを犯した。それでおしまいです。」
モリナ戦のプロボドニコフには、相手のエネルギーを奪い、地上の精霊を振るい落とす激烈な渦のようなものがなかった。
激しいファイト、世界チャンピオン、テレビ局との大型契約、ロサンゼルスでのフレディ・ローチとのトレーニングキャンプ・・・それらを経て、今プロボドニコフは政治の最前線に立っている。
おそらくそれは最も論理的なステップだ。そのステップが新たな長い旅の始まりだったとしても、プロボドニコフにはそれに耐えた経験がある。
プロボドニコフ
「私は幸運でした。タイミングよくアメリカのプロモーターが私を本場に連れて行ってくれたので道が開けました。それでも私は人生に運はないとおもっています。転落してもそれは運ではないからです。」それが運であろうがなかろうが、最初の旅はシベリアンロッキーを激しく、強く、最も愛されるファイターの一人に導いた。
彼の次の旅がどこになるのかはまだ分からない。
ほとんど読まれない記事なのに、翻訳にかなり手こずりました。この苦労は何のため・・・
プロボドニコフの素朴な人柄がにじみ出た言葉の数々なのですが、ロシア語の翻訳英語だからか、彼の言葉が子供っぽいからか、理解しにくい表現が多く、長く、同じ事を何度も言っている。(大丈夫かな、少し打たれ過ぎたかな。)なるべく短く、彼の人柄を損なわない範囲で自分が理解できる言葉に置き換えたりしました。
ハングリーでなくなると
「この犠牲は何のためにあるの?」
「何のためにこの身を危険にさらしているのかわからない」
状態になってしまう。
世界チャンピオンになるということは全てのドアが開かれたということを意味しません。
あまりに激しい本能むき出しのファイトと、あまりに純粋な子供のような心を持った男だからこそ、この言葉は重い。
世界王者になり世間の注目が集まると自分らしくいられなくなり、ハングリーさを失った途端に火が消えるという、人間性そのものが彼の爆弾のようなファイトスタイルだったのだなと改めて思い知らされました。
政治家への道は必然的な人生のステップだとおもうが、パッキャオ同様、プロボドニコフは引退していない。いつでもリングに上がる準備だけはしている。
との事です。
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