リトルビッグマン/シャンバ・ミッチェル

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メドウランズで、俺がロープにつかまったところで、ドーン。部屋全体が真っ暗になり、俺は1分間ロープの上に座っていた。その時、「チン」という鐘の音が聞こえた。俺は1分間そこに立って、自分のコーナーに戻った。コーナーは俺の目を見て、頭に氷を投げた。大丈夫かと聞かれたので、『ここはどこだ』と答えたよ。 奴はクソみたいなパンチができるんだ!

1990年代後半から2000年代初頭にかけて3年間、WBAジュニア・ウェルター級王座を保持した実力派のサウスポーがシャンバ・ミッチェルだ。

ミッチェルは1970年8月27日、ワシントンD.C.で生まれた。タコマパークで労働者階級の家庭で育った。母親は大学病院で働き、父親は郵便局員だった。

ミッチェル
「どこの土地でも問題はあるものだ。ストリートで生きて、ストリートで学ぶ。ストリートでの知恵、やっていいことと悪いこと、いたいところといたくないところ。俺の住んでいたところはゲットーではないけれど、ハリウッドでもない、いいところだったよ(笑)」

ミッチェルの初恋はフットボールで、ボクシングには興味がなかった。ある日、父親が仕事から帰ってきて、ボクシングのトレーナーをしている友人のエイドリアン・デイビスに会わせた。

ミッチェル
「父が一緒にドライブに行こうと言い、エイドリアン・デイビスのジムに行った。父にどうだ?と聞かれた。スポーツならなんでもOKさと言った。それからボクシングがはじまったんだ。」

ミッチェルがアマチュアとして優秀な成績を収めるのに時間はかからなかった。

1985年、ジュニアオリンピックで金メダルを獲得。年齢的にオリンピック・トライアルで戦うための特別な免除を受けなければならなかった。東部のトライアルで優勝したが、決勝でトニー・ブラクストンに敗れた。1988年のゴールデングローブの決勝で、後に130ポンド王者となるエディ・ホプソンに敗れた。

アマチュアとして156勝7敗となったミッチェルはプロに転向。

約6年の間に、元世界チャンピオンのラファエル・リモンやロッキー・ロックリッジといった有名選手を相手に勝利を収め、それまで無敵だったチャド・ブルサードを1ラウンドでノックアウトし、NABFタイトルを獲得して、その地位を確固たるものにした。

しかし、なかなか世界タイトルマッチを確保できないことに不満を持ち、それがミッチェルの有望なキャリアを頓挫させるおそれがあった。

リトルビッグマン(ミッチェル)は、後の世界チャンピオン、リーバンダー・ジョンソン(KO8)、スティーブ・ジョンソン(TKO9)によもやの連敗を喫する。

ミッチェル
「トレーニングもせず適当にやっていた。リーバンダー・ジョンソンに最初に負けたとき、俺がトレーニングしていようがいまいが奴は何もできない と思って臨みました。ジョンストン戦はちゃんとしてれば俺の方が勝っていたかもしれない。奴はいいパンチを当て、俺はロープ際で後退し全く何もせずに止められた。究極の代償を払ったんだ。」

その後、11連勝し1998年10月、フランスのパリでプロモーターのドン・キングを説得してWBA王者のカリ・ライルーと対戦し、ついに待望のタイトルマッチの機会を得た。

ミッチェル
「奴をノックアウトしなければ、決定的に勝たなければならないことはわかっていた。俺は奴をノックダウンした(2回、3回、7回に2度)世界に素晴らしいショーを行い、故郷であるD.C.に俺が男であることを知らせたかったのです。そのために、すべての瞬間を最大限に活用するつもりだった。それがあの試合で現れた。立ち直って何かを成し遂げたことは大きな達成感だった。」

1999年2月、ペドロ・サイスを相手に帰国し、タイトルの防衛に成功。

ミッチェル
「最初のタイトルマッチとテレビ放送をD.C.に持ち帰ることは、俺がやりたかったことの一つさ。」

そして、同じDMV出身でスパーリングパートナーのレジー・グリーンと地元バトルを繰り広げることになった。

12ラウンドの判定でミッチェルに軍配が上がった。

ミッチェル
「俺たちはD.C.から来たんだ。ここは俺の町なんだ。同郷のライバルだった。」

ミッチェルは西に向かい、ラスベガスの大きなプロモーションで、WBCのキングピンであるコスチャ・ジューとの統一戦を待ちながら、さらに2回のタイトル防衛を果たした。2人は2001年2月にシン・シティで対戦することになった。ミッチェルはこの試合を自分の晴れ舞台にしたいと願っていたが、それは失敗に終わった。

ミッチェル
「ジョギングをしていたら、足がしびれたんだ。試合の2、3日前だった。トレーナーに話して、医者に診てもらったら、部分断裂だと言われた。試合は控えた方がいいと。」

ミッチェルは医師の忠告を無視し、試合を続行した。

ミッチェル
「俺は死んだ足で奴と戦っていたんだ。スタイルが試合を決める。俺はパンチをたくさん受けるタイプではなかったし、フラッシュヒットも受けなかった。ジューはクリーンなハードショットを俺に当てなかったから、奴の打撃の強さはよく分からない。膝の痛みがひどく、(第7ラウンドの後)リングに出ることができなかった。」

膝の負傷により、ミッチェルは13ヶ月の間試合から遠ざかった。復帰後は、ジューとの再戦を目指し、山を登り続けた。元タイトル保持者のヴィンス・フィリップス(MD12)、鉄腕ベン・タッキー(UD12)、ラブモア・ヌドゥ(UD12)など、注目すべき相手に勝利を収めた。

ミッチェルがジューと再会したとき、ミッチェルは最高の自分をジムに残してきた。

ミッチェル
「2戦目、俺は脳みそから血を抜かれたようだった。戦いは体重を減らすことであって、試合ではなかった。あの体重で戦うべきじゃなかった。生きて、学んでいくんだ。」

ミッチェルはキャリアを続けることを決意し、ウェルター級に転向。一度は敗れたクリス・スミスに勝利し(TD5)、ザブ・ジュダーと対戦する予定だった。しかし、このニューヨーカーは試合をキャンセルし、代わりに2005年11月にフロイド・メイウェザーと対戦することになった。

ミッチェル
「俺は全盛期ではなく、引退を控えた時期にフロイドと戦ったんだ。当時の俺はフロイドのキャリアに箔をつけるのにおあつらえむきだった。」

ミッチェルは、6ラウンドでストップされた。

最後の試合、ポール・ウィリアムズ(KO4)に負ける前に、メキシコのホセ・ルイス・クルスを破った。

57勝6敗、30KOの戦績で引退。

現在51歳のミッチェルは結婚しており、5人の娘と1人の息子がいる。ボルチモアに住み、数人の選手をトレーニングしている。パーソナルトレーナーでもあり、ボクシングのフィットネスも行っている。クライスラー・ダッジ・ジープ・ラムの自動車販売店で財務部長もしている。バケッツ・ラウンジ、そしてザ・パープルフリップという健康スムージーの店を経営している。

ベスト・ジャブ ポール・ウィリアムズ

ジャブをたくさん使いました。多くの選手はジャブを使いませんが、奴はかなりジャブを使いました。俺より大きかったし、常に距離が遠い男だった。

ベスト・ディフェンス フロイド・メイウェザー

いつも良いディフェンスをしていた。俺は奴のショットをキャッチしたが、本当のクリーンショットで当てることができませんでした。頭を動かすことが多く、奴のスタイルそのものだった。

ベスト・ハンドスピ-ド ケビン・マーストン

俺が最初に始めた頃に戻らなければなりません。フロイドはハンドスピードがあったけれど、俺は同じ階級でもっと色んな奴らと戦ってきた。ケビン・マーストンという選手と戦ったんだけど、今でも負けたと思う。奴のハンドスピードはかなり速かった。フロイドはハンドスピードがあったが、フロイドよりスピードがあっても、フロイドのような技術を持っていない選手もいる。マーストンは技術ではなく、ハンドスピードがあっただけだ。

ベスト・フットワーク リーバンダー・ジョンソン

リング上を動き回ることができる。何度か怪我をさせたが、回り込んで滑ることができた。奴のフットワークはかなり良かった。サイドからサイドへ動くことができた。

クレバー メイウェザー

一つの方法がダメだったら、別の方法にすぐ切り替わるんだ。奴は自分がそうであるように生まれてきたのであって、それ以外の何者でもない。

屈強 レジー・グリーン

俺より大きくて、打ち合いに強い。奴がミッキー・ワードにしたことを見ての通りだ。ポール・ウィリアムズは背が高かったけど、ひょろ長かったし俺を押しのけるようなことはなかった。

ベスト・チン ベン・タッキー

奴を倒したのは俺だけだったんだ。信じられなかったよ。倒した後、立ち上がってきて、奴は怪我をしていない、怪我をしているわけがないと思ったよ。奴の顎は信じられないほどだった。俺はただ、見えない一発で捕らえただけなんだ。

ベストパンチャー ロッキー・ロックリッジ

メドウランズで、俺がロープにつかまったところで、ドーン。部屋全体が真っ暗になり、俺は1分間ロープの上に座っていた。その時、「チン」という鐘の音が聞こえた。俺は1分間そこに立って、自分のコーナーに戻った。コーナーは俺の目を見て、頭に氷を投げた。大丈夫かと聞かれたので、『ここはどこだ』と答えたよ。 奴はクソみたいなパンチができるんだ!

ベストスキル メイウェザー

フロイドはカウンターパンチャーだ。素晴らしいスキルを持っていて、自分のゲームプランを必要なところに設定する。正確で、無駄なショットはしないんだ。

ベスト・オブ・オールラウンド メイウェザー

奴の時代には、奴のような人はいない。特別な存在でした。戦いの途中で切り替えができる人でした。常に素晴らしいゲームプランを持っていて、それを実行した。自然体なんだ。

負けを素直に認めたくない意地を感じるが

ミッチェルが世界初挑戦した時の場所はパリ、戦績は42勝2敗。森田健がジャッジをしていた。

そんなに長くチャンスを待たされていたら、調子が狂う時もあるだろう。

ミッチェルは悲運のスーパーカー、オーバ・カーになりかけていたが、なんとか世界王者にはなれた。

悲運のスーパーカー/(モーターシティ)オーバ・カー

本気を出せば誰にも勝てる、かなり負けにくいスリックなオールラウンダーだったが、ビッグマッチでは期待はずれな凡戦や大敗を繰り返し、レジェンドの域には届かなかった。

今のSライト級にいたとしても、トップをはっていけるだけの能力があったとおもう。

現在は実業家として多忙なようでなによりだ。

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