「自分が自分でなくなる。明日が怖い」
「いくらもお金は残っていない。また敗軍の将になるのだろうか」
「行こう、行こう、孤独な道、私の夢があるところへ」
本名崔 堯森(チェ・ヨサム)韓国ライトフライ級王座、東洋太平洋ボクシング連盟 (OPBF)東洋太平洋ジュニアフライ級王座、世界ボクシング機構 (WBO)大陸間フライ級王座、世界ボクシング評議会 (WBC)世界ライトフライ級王座を獲得した。
1993年7月3日、プロデビュー。
1995年9月23日、韓国ライトフライ級王座獲得。しかし、11月24日の初防衛戦で陥落。これがプロ初敗北となった。
1996年12月3日、大阪府で行われた東洋太平洋ボクシング連盟 (OPBF)東洋太平洋ジュニアフライ級王座決定戦に出場。安藤謙三に12回判定勝ちし王座獲得。3度防衛後、1999年9月に王座返上。1999年10月17日、母国で世界初挑戦。世界ボクシング評議会 (WBC)世界ライトフライ級王座10度防衛中のサマン・ソーチャトロン(タイ王国)に挑み、12回判定勝ち。王座獲得に成功。
https://www.youtube.com/watch?v=rH0sLZP87p8
1999年、悲願の世界チャンピオンになった。顎が折れた。病院に向かう車の窓を開けて「俺は世界チャンピオンだ」と叫んだ。
スポンサーの反応は冷ややかで3年間で4試合しかできなかった。防衛戦を含めわずかなファイトマネーを得ただけだった。サマンとは2001年1月30日の2度目の防衛戦でも対戦し、7回KOで返り討ち。その後、3度目の防衛にも成功。
https://www.youtube.com/watch?v=CuauvkoCyqM
2002年7月6日、4度目の防衛戦。暫定王者ホルヘ・アルセ(メキシコ)と統一戦を行い、6回TKO負け。王座から陥落。試合後、一度は引退を表明したが、程なくして撤回。
https://www.youtube.com/watch?v=sCWB3G-zM3Y
2003年11月15日、世界再挑戦。ベビス・メンドサ(コロンビア)とのWBA世界ライトフライ級暫定王座決定戦に臨むも12回判定負け。
2004年9月9日、1階級上げての世界挑戦。WBA世界フライ級王者ロレンソ・パーラ(ベネズエラ)に挑むも、12回判定負け。
王座奪回の道は遠かった。18か月のブランクを経て崔 堯三はリングに再び戻ってきた。日記帳にはこう記されていた。
「自分が自分でなくなる。明日が怖い」
「いくらもお金は残っていない。また敗軍の将になるのだろうか」
「行こう、行こう、孤独な道、私の夢があるところへ」2007年9月16日、WBOインターコンチネンタルフライ級王座決定戦に出場。テルドキャット・ジャンデーン(タイ)を12回判定に降し、王座獲得。35歳になっていた。
2007年12月25日、ヘリ・アモル(インドネシア)を挑戦者に迎えての初防衛戦。終始優位に試合を進めるも、最終・12回終了直前に強烈な右を顎に受け、ダウン。立ち上がったところで試合終了のゴング。
「グローブを外してくれ」という最後の言葉を残し、深い闇の中に入った。直後、リング上で倒れ意識不明となった。結果は3-0の判定勝ちで防衛成功。この試合に勝って世界挑戦する予定だった。
2008年1月2日、崔 堯三はソウル峨山病院で脳死と診断された。その後、家族の要望で生命維持装置が外され、1月3日午前0時に正式に死亡(35歳没)。崔の臓器は、移植を希望する患者6人に提供された。この事故をめぐっては応急措置が適切でなかったとして、2010年6月には病院側に1,500万ウォンの賠償金支払を命じる判決が下された。
家族は最後の瞬間、崔 堯三の目元に水をみた。涙だとおもった。
崔の母親
「減量できちんと食べさせてやれなかった。それが一番心苦しい。世界チャンピオンになるんだと・・・」韓国ボクシング界では1982年、金得九がレイ・マンシーニに14回KOで敗れ昏睡状態に陥り4日後に死亡した過去がある。そして15年ぶりにまた同じ悲劇が起きた。崔 堯三は4階にある区民体育館で試合を行い、事故直後は担架にのせられて階段で一階まで降りなければならなかった。病院までの道のりが混雑し移送に時間がかかった。1年で5度リングにあがった崔 堯三のコンディションは不良だったというが、血圧と脈拍だけをチェックする簡易なメディカルチェックでは異常はみられなかった。
チェ・ギョンホ(弟)
「兄はいつもお金よりも大切なものがあると言っていたので、その意思を汲んで臓器提供することにしました。兄の心臓はどこかに留学に行ったんだと考えるようにしました。」3日0時1分、人工呼吸器が外され、法的に死亡が宣告された。角膜2個、腎臓2個、肝臓、心臓などが提供され、患者6人に新たな生活を与えた。死亡時刻をこの時間に合わせたのは母親の要望だった。3日は崔 堯三の父親の命日だった。
崔の母親
「もう結婚もできない。好きだったホジェサトバプも食べさせてやれない。」崔 堯三は通算32勝(19KO)5敗のキャリアを残した。生涯最後の戦いに判定勝ちした彼は、臓器提供することで32勝にもう一つの勝利を加えた。
10度防衛のサマン・ソーチャトロンから王座を奪取しホルヘ・アルセに奪われた。
一流、立派な王者だった。
日本では山口真吾が挑戦したが、坂田や内藤と戦った時よりも完敗だった。あまり日本人と多く戦ってきた王者ではなかったが、日本は全敗、敵わなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=Wv-CukNZzfY
韓国ではすでにボクシングが衰退し、世界王者になっても稼げる状況ではなかったようだが、それでも崔 堯三にはボクシングしかなかった、かなり過酷な減量とコンディションだったことが窺い知れる。
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