最後の激闘王/(韓国の石の拳)文成吉

文成吉は僧侶みたいなものでした。兄嫁の家に居候していたのですがジムでは神がかったようにサンドバッグを叩いていた。誠実さや集中力においては柳明佑も最高でしたが、私がみた文はそれ以上でした。ただ、それしか知らなかった。ボクシングだけに青春を捧げてきたので、今では飽きてしまっても仕方ない、きっとそうなのでしょう。

今となっては世界王者が一人もいない韓国のボクシングだが、1970.80年代の張正九、柳明佑を筆頭に軽量級を席巻した時代があった。しかしファンの脳裏には「軽量級はKOが少なくてつまらない」という先入観がある。実際に判定勝負が多かったかもしれないが、そんな時代にKO率68%という驚異的な破壊力を秘めた軽量級ボクサーが韓国にもいた。

ガッチリした体幹から放たれる強力なパンチと猪突猛進なファイトで記憶に残る、「韓国の石の拳」文成吉だ。

ボクシングを始めてから4年後に出場したアジア大会で金メダル、世界選手権でも金メダルを獲得、ロサンゼルスオリンピックボクシングバンタム級に出場しベスト8入り、輝かしいアマチュア記録を残した。プロでは恐ろしい「石の拳」を放ち2階級で世界を制した。

1988年8月14日、7戦目で世界初挑戦。WBA世界バンタム級王者カオコー・ギャラクシー(タイ王国の旗 タイ)に挑み、6回負傷判定勝ち。王座獲得に成功した。その後、2度の防衛に成功。

1989年7月9日、3度目の防衛戦でカオコーと再戦し、0-3の大差判定負け。前王者の雪辱を許し、王座から陥落した。

1990年1月20日、1階級下げての世界再挑戦。WBC世界スーパーフライ級王者ナナ・コナドゥ( ガーナ)に挑み、9回負傷判定勝ち。2階級制覇を達成。

その後は元同級王者ヒルベルト・ローマン(メキシコ)、元WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン(アメリカ)、元世界2階級王者イラリオ・サパタ(パナマ)や、松村謙二(日本)らの挑戦を退け、通算9度の防衛に成功。

1993年11月13日、10度目の防衛戦。帝拳プロモーションマネージメント契約選手でもあるホセ・ルイス・ブエノ(メキシコの旗 メキシコ)と対戦。フルラウンドの激闘の末、1-2の判定負けで王座陥落。この試合を最後に引退。

何よりも文のファイトは猪突猛進で、あまりにガムシャラすぎるのでバッティングで流血という試合も一度や二度ではなかった。相手のパンチなど全く恐れていないかのごときタンクのようなアタックに一種のカタルシスを感じるファンも多かった。

文成吉のボクシングキャリアは15年、プロはたったの6年だった。もっと長い活躍を願うファンも多かった。

文成吉
「振り返ってみると本当に波乱万丈でした。青春を全て注ぎ込んだと言っても過言ではありません。」

文は1978年にボクシングジムに入門した。全羅南道体育高校陸上部に入りたかったが試験に落ちた。1年間、城南の家具工場で働き、木浦徳仁高校に入学した。この頃からすでにボクシングに対する憧れがあった文は陸上ではなくボクシングを選んだ。高校生の大会で活躍し頭角を現していった。

文成吉
「残念ながら韓国体育大学に行けなかったんだけど、木浦(体育学校)が強いと聞いて行った。木浦には全七星(1984年LAオリンピックライト級銅メダリスト)などそうそうたる選手が多く、全国大会を制覇したりしていたんです。」

木浦の1年生だった1982年にニューデリーアジア大会に出場した文成吉はバンタム級で金メダルを獲得した。1984年LAオリンピックでは、準々決勝で相手の頭突きで目尻をカットし、惜しくもメダル獲得に失敗したが、1986年に米国リノで開かれた世界アマチュアボクシング選手権で韓国選手としては初めて世界選手権バンタム級金メダルを獲得した。1986年のソウルアジア大会でも金メダルを獲得し、2連覇を達成した。

文成吉
「自分がボクシングを続けてこれたのは、当時のアマチュアボクシング連盟会長だったキム・スンヨンハンファ会長のおかげです。1984年LAオリンピックでメダルが取れずに落ち込んだけど、キム会長の励ましを受けて1986年の世界選手権で金メダルをとることができました。」

この勢いで1988年のソウルオリンピックへの期待がかかったが、文はプロになることに決めた。1986年12月のことだった。

文成吉
「ソウルオリンピックに行きたくないといえば嘘になります。悩みました。世界選手権を制した達成感があり、5000万ウォンという契約金の誘惑に負けました。」

しかし予期せぬことがあった。兵役の義務があったのだ。兵役免除されるには5年間アマチュアスポーツ選手でい続ける義務があったが、半年足りずに文はプロになった。

文成吉
「よくわからないけどそうなった。それを知っていれば半年我慢していたでしょう。」

現在、文成吉の名前を冠したボクシングジムが全国にたくさんある。一種のチェーン型のジムだ。しかし肝心の文成吉はジム経営に全く関与していない。最初の3,4年はジムで選手のミットを持ったりしたが今は全く関与していない。

文成吉
「なんて言えばいいんだろうか、飽きたり幻滅したともいえるけど、疲れたとでも言っておくよ。」

文成吉は誰にも負けない心肺持久力を持っていた。ボクシングをする前は陸上選手を目指し、器械体操、レスリングもやっていたので下半身が強靭だ。その強靭な下半身と心肺持久力がハードパンチャー文成吉を形成した。

文成吉
「泰陵選手村で毎週ブルアム山に上る訓練があるんですよ。5kmの距離を走って上がるのにいまだに私の記録が破られていないそうです。私は器械体操、レスリングで培った強い下半身と腕力があったので、相手を倒すことができる強力なパンチを持つことができました。」

文成吉はアマチュアで219勝169KO22敗の記録を残した。KO率は実に68%を記録した。プロでは20勝15KO2敗の記録を残して引退、これまたKO率68%となる。10人と戦って7人は倒す計算になる。

文成吉が成功したのは持って生まれた身体能力もそうだが、集中力が桁違いだった。

ジョウウンソプ館長(トレーナー)
「文成吉は僧侶みたいなものでした。兄嫁の家に居候していたのですがジムでは神がかったようにサンドバッグを叩いていた。誠実さや集中力においては柳明佑も最高でしたが、私がみた文はそれ以上でした。ただ、それしか知らなかった。ボクシングだけに青春を捧げてきたので、今では飽きてしまっても仕方ない、きっとそうなのでしょう。」

文成吉のキャリアはファイトマネーが問題だった。9度目と10度目の防衛戦のファイトマネーの問題は未だに解決していない。2試合で1億ウォンを少し超えるくらいのファイトマネーが20年を過ぎた今も支払われていない。

現在、文成吉は鉄板チャーハンのレストランを2店舗経営して暮らしている。後輩たちが運営する文成吉ジムにはほとんど顔を出さず縁を切った。ボクシングの国際殿堂入りの候補にもなったが招待状は来なかった。

それでも、かつて自分が深く愛し、情熱を注いだボクシングを心配しないわけではない。韓国ボクシングは自分が駆け抜けた時代と比較して弱くなった。物足りなさを強く感じている。

文成吉
「私が引退してから後に続く後輩がほとんど出て来なかった。柳明佑、辺丁一などもほぼ同時期に引退したけど彼らも後進の育成はしていない。いい選手を常に排出しなければいけないのに。」

今では、ボクシングがしたくてジムに入門する者はほとんどいない。ダイエットのために通う者がほとんどだ。文成吉はこの現実が辛い。ハングリースポーツと言われるボクシングが現代の価値観に合っていないのではないかというと決してそんな事はないと反論した。

文成吉
「それを言ってしまえば、日本やアメリカの現状をどう説明しますか?ボクシングは貧しい国の人だけがやるという認識は間違っています。韓国のボクシングが低迷したのはインフラがないからです。日本やアメリカはプロモーター市場が活性化しています。韓国ではプロモーターも見つけることも出来ず、チャンピオンベルトも進んで返上するような状況です。プロの市場が成り立ってないのですから、プロになりたいという者もおなず、当然業界は低迷します。」

ジョウウンソプ館長(トレーナー)
「文成吉がチャンピオンの時、8度目の防衛までは順調だったのです。ところが9度目の防衛戦からファイトマネーが払われなくなりました。10度目の防衛戦は判定勝負だったのですが、ホセ・ルイス・ブエノに勝てるかどうかわからないからと支援も何もありませんでした。この問題のために、3階級制覇の野望も断念して引退したんです。」

それでも文成吉は韓国ボクシング界に希望の光をみている。2014年、韓国プロボクシング連盟(KBF)初代会長の手腕に期待している。

文成吉
「韓国ボクシングはなくなりません。リオデジャネイロオリンピックでは代表が1人しか出なかったほど衰退していますが、それでも格闘技を志向する若者はなくならないでしょう。KBF会長にも期待している。私は今はもうボクシングに関与していないけど、生まれ変わったら応援したいとおもっています。」

文成吉はボクシング国際殿堂入りの候補になった。アメリカのミュージシャンが彼のボクシングに魅了され、「Sun Kil Moon」というバンドを作ったりもした。「Sun Kil Moon」は韓国で公演を行ったりもした。しかしそれほどのボクサーがきちんとした待遇を受けられない状況がある。そこが変わらなければボクシングのイメージも変わらない。なぜ「韓国ボクシングの伝説」が最前線に出て来ないのかを考え直す必要がある。韓国ボクシング復興のためには問題が山積みだ。

WBAバンタム級王座(防衛2度)
WBCスーパーフライ級王座(防衛9度)

文成吉、私の記憶では最後のコリアンファイターだ。
2階級制覇しスーパーフライ級を9度も防衛していた。
戦ってきた相手のレベルも高い。

10度目の防衛戦でメキシコのホセ・ルイス・ブエノにSDで敗れ次にブエノに勝って王者になったのが日本の川島郭志だった。

本当にアマチュアエリートなのかよという荒っぽい猪突猛進ファイターだったが、パワーも馬力も十分で強打者という点で今までの韓国人ファイターにいないタイプだった。日本人では小林智昭と松村謙二が挑んだが歯が立たなかった。あの時代にカオサイと文成吉に本気で挑む日本人ファイターは雑草選手以外いなかった。

そのくらい、ただでは済まない、傷だらけ、ボコボコにされる覚悟が必要な怖いファイターだった。イッセー尾形に似ているなとおもったもんだ。

文成吉のファイトをみて、これを継ぐ韓国人はいなくなった。
この先輩が強すぎたからかもしれない。

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