日本の人々に助けられて世界チャンピオンになれたという気持ちからも試合では“日本とタイの代表”として戦っており、トランクスにはタイと日本の国旗が入っていた。
(イーグル)デン・ジュンラパンは忘れてはならない天才だった。
何年も前に一人のタイの世界王者がいた。タイの国民はほとんど彼を知らなかった。しかし日本では偉大な世界王者と認められていた。デン・ジュンラパンはそれでも自分のキャリアをとても誇りに、光栄に思っている。
デン・ジュンラパン(Den Junlaphan、1978年12月4日)は、タイ王国ピチット県出身の元男子プロボクサー。WBC世界ミニマム級王者を2回経験した。元角海老宝石ジム所属。
1978年12月4日、タイ王国ピチット県バーンブンナーで9人兄弟姉妹の8番目として産まれた。
電気がないくらい家が貧しかったため、義務教育が終わった12歳のときに家族を養うためバンコクへ上京。ボクシングに興味を持ったのは9歳のときにタイ人ボクサーで世界的に有名なカオサイ・ギャラクシーの試合をテレビで観たのがきっかけで、実際にボクシングを始めたのは16歳のときだった。17歳でデビュー戦を迎えたアマチュア時代の戦歴は34戦30勝(25KO)4敗。
2000年4月にムエタイ修行のためタイ在留中だった日本人女性とジムで出会い、同年12月に結婚。2001年4月に来日した当時はボクシングで生計をたてようと思っていたわけではなく何か別の仕事を探す予定だったが、日本語がわからなかったため家で日本語の勉強をしていた。気分転換と日本人との交流のために近所のボクシングジムへ通うようになり、試合経験があったため勧められて試合にも出場したところ、1ラウンドでKO勝利。
実力者に勝ち続け、キャリアを重ねていったが、無名のタイのミニマム級に注目は集まらず、リングネームもイーグル奥田、イーグル赤倉、イーグル京和とスポンサー都合で何度も変わった。
リングネームの“イーグル”には、鷲のような動体視力をもち、力強く勝利を掴みたいという思いが込められている。難しいパンチや素晴らしいコンビネーション等、困難な事を乗り越えたときの喜びはボクシングの大きなやりがいであり、芸術的なボクシングに近づけたと感じるときにはとても嬉しいという。タイ人だが、日本の人々に助けられて世界チャンピオンになれたという気持ちからも試合では“日本とタイの代表”として戦っており、トランクスにはタイと日本の国旗が入っていた。
日本に来てまず驚いたことは、テレビや冷蔵庫、クーラーといった電化製品のある生活が一般的であることだった。デンの家は電気がないためオイルランプを使っていたというくらい貧しく、船で川を渡るお金が無く泳いで渡っていた。
タイでは貧乏と死とは隣り合わせだった。実際にデン自身も20歳のときに母を病院へ連れて行けずに病名もわからないまま亡くしている。またデンは現在9人兄弟だが、本当は15人兄弟だったところ6人は貧しさのために幼い頃亡くなった。
試合を重ね、周りの人々に支えられながら“たった一度のチャンス”と思って挑んだ2004年1月の世界タイトル戦、ホセ・アントニオ・アギーレ(メキシコ)を12回判定で下し、悲願の世界チャンピオンに輝きWBC世界ミニマム級王座を獲得。
https://www.youtube.com/watch?v=KDxCpGHMFIc
2004年12月18日、イサック・ブストス(メキシコ)を相手に2度目の防衛戦。ブストスは試合前には前王者のアギーレなどとスパーリングを行い、対策を練っていた。試合は3回にイーグルが右肩を負傷し、続く4回に試合を棄権し無念のTKO負けで世界王座陥落となった。試合後の検査で右肩甲骨関節窩(かんせつか)骨折と診断された。
2005年8月6日、負傷休養明けの復帰第1戦で世界再挑戦。4月にブストスを下してWBC世界ミニマム級王者となった高山勝成に挑み、12回判定勝ち。王座返り咲きに成功。
2006年5月6日、後楽園ホールにて22戦全勝で世界ランク1位のロデル・マヨール(フィリピン/三迫ジム)と指名試合を行い、3-0の判定で下し、2度目の防衛に成功。
2007年6月4日、当時プロ7戦目での史上最短世界奪取記録樹立に挑む八重樫東(日本/大橋ジム)と防衛戦を行い、2回に偶然のバッティングで八重樫が顎関節骨折をするアクシデントもあったが、終始挑戦者を圧倒し3-0の判定勝ちで4度目の防衛に成功。この試合後京和建物とのスポンサー契約を解消し転居した。
https://www.youtube.com/watch?v=hpRPPCu7atY
2007年8月27日、リングネームを"イーグル・デン・ジュンラパン"に改称。
2007年11月29日、同国人のオーレイドン・シスサマーチャイと対戦。ラーマ9世の誕生祝賀の一環として行われた試合で、0-3の判定負けで5度目の防衛に失敗し王座から陥落。
2008年9月25日、眼疾が発覚し母国タイに帰国。日本ボクシングコミッションに引退届を提出し、現役を引退。
その後、ジュンラパンはどうなったのだろう?(2015年)
デン・ジュンラパン
「私は今パタヤにいます。妻とボクシングキャンプをする場所を探しに来ました。また、仏教の叙階式にも参加します。妻のビザが切れるのでまた日本に行って人生をやり直さなければなりません。」日本のどこにいますか?
デン・ジュンラパン
「埼玉から大阪に引っ越しました。2人の子供がいましたが、不仲で妻とは別れ再婚しました。元世界王者、徳山昌守さんの元マネージャーです。」どうしてボクシングを引退したのですか?
デン・ジュンラパン
「タイでオーレイドンに負けて私にはスポンサーがいなくなりました。角海老ジムともいくつか問題を抱えていたので引退になりました。」再起はしないのですか?
デン・ジュンラパン
「激しい練習をしています。まだボクシングのトレーニングをしています。大阪で名城信男さんのサポートなどをしています。今は快適に暮らしています。貯金や家も練習するためのジムもあります。元世界王者という肩書が効いています。」タイには戻らないのですか?
デン・ジュンラパン
「間違いなく戻ってきます。パタヤでジムを開きたい。日本より物価が安いからバンコクに家を買おうとおもっています。トレーナーとして第二の人生のチャレンジをしていきたい。国際的に誰でも歓迎します。日本のボクシングから多くを学びました。」日本のボクシングをどうおもいますか?
デン・ジュンラパン
「ブームに沸いているとおもいます。ボクシングが復活しました。多くの世界王者がいます。テクニックが改善しました。良い外国人コーチを招聘したのでしょうか、アジアで最高のボクシング王国です。山中慎介は世界クラスのビッグ・ダルチニアンに勝ちました。」タイのボクシングはどうですか?
デン・ジュンラパン
「日本と対等に戦うことは出来ないと認めねばなりません。テクニックで劣っています。過去に比べてタイの若い世代は弱くなっているようです。しかし新しい時代、若い世代を認め、精進していかねばなりません。」タイのボクシングファンに一言
デン・ジュンラパン
「日本を活動拠点にして私は長年タイを離れていました。しかし今こそ故郷に戻る時です。日本で学んだこと、経験を生かしてタイでボクシングジムを開こうとおもいます。政府のボクシングプログラムやキャンプを支援していきたいです。私はここで生まれ、ここで死ぬために戻って来なければならないのです。」戦績
WBC世界ミニマム級王座
1度目 - 防衛1回、2度目 - 防衛4回アマチュアボクシング:34戦29勝(25KO・RSC)4敗
プロボクシング:20戦18勝(6KO)2敗
今、恐らくタイにいるとおもうがわからない。
デン・ジュンラパン、日本ではイーグルとして知られる彼も今となっては「忘れられた伝説」の一人だ。20戦18勝(6KO)2敗、2度世界王者になったが、もっと活躍すべき偉大な才能だった。
高山、八重樫には圧勝し、当時怪物的存在だったロデル・マヨールにも勝った。そのキャリアは不運や怪我で短命に終わったが、時代を突出した、名王者クラスのものだった。
八重樫に勝った次の試合が最後になるのがボクシングの非情、敗者八重樫はそこから長いキャリアを築いていく。
人生波乱万丈だが、そうした経験が今に生きているのだとおもいたい。
(イーグル)デン・ジュンラパンは忘れてはならない天才だった。
運とタイミング次第で殿堂入りクラスの才能だった。
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