日本ではキャリア晩年に後楽園ホールでルイシト・エスピノサと戦っただけだったが、当時の私はよく覚えている。この身長178センチもある大きなバンタム級が辰吉丈一郎の標的王者になるかもと警戒していたからだ。当時48勝1敗2分という戦績でヒョロヒョロなのに勝率もKO率も高く、得体の知れない難敵と恐れていた。
メキシコはいつの時代もこういう長身のくせ者の名王者が誕生する。
[st-card id=87142 ] [st-card id=71820 ]メキシコの長身パンチャー、ラウル・ペレスは1980年代後半から90年代前半にかけて最高のバンタム級、スーパーバンタム級の王者の一人だった。2階級に渡り王者に君臨した。
ペレスは1967年2月14日にティファナで生まれた。8人兄弟という大家族だったが、彼がわずか2歳の時に父親が亡くなり母子家庭となった。家族は貧困に苦しみ、母親はいくつもの仕事を重ねて家族をギリギリの水準でなんとか育てあげた。
ペレス
「母は8人の子供を養うために家政婦や仕立て屋の仕事をしていました。私は落ち着きがなく、せかせかした子供でした。学校に通うことはできませんでしたが人生が全てを教えてくれました。とても貧しくて大変な時代だったのであの頃をあまり思い出したくありません。」子供のペレスは国境沿いの道端で様々なものを売って家計を助けた。ヒバロ(やせっぽち、骨と皮だけの)は母親にとってとても手がかかる子供だったので、兄のウーゴが彼をボクシングジムに連れて行った。8歳の時だった。
ペレス
「母がボクシングジムにお金を払っていたのをみて自分に言い聞かせました。世界王者になって母に家を買ってあげようと。」学校を4年生でドロップアウトしたヒバロはボクシングに集中し、アマチュアで頭角を現しティファナゴールデングローブで優勝した。他の州でも目覚ましい活躍をした。
ペレス
「ファイトが好きでした。週に3度試合をした事もあります。」101勝7敗というアマチュアの記録を残して、ヒバロは17歳でプロになった。精力的に試合を重ね25連勝を記録した。(26戦目で初の敗北)その後も1998年8月、後の3階級王者ウィルフレド・バスケスと戦うまで16戦15勝1分と再び快進撃を続けた。
バスケス戦に勝ったペレスは44戦目にして初の世界挑戦。ラスベガスのフリオ・セサール・チャベスVSホセ・ルイス・ラミレスの前座で評価の高いコロンビアのWBCバンタム級王者、ミゲル(ハッピー)ロラ(当時31戦全勝)に挑み、僅差の判定で王座を獲得した。
https://www.youtube.com/watch?v=fJBGMVK-6IA
映像がなく、ロラの映像集です。30年以上の時が過ぎた今も、ペレスにとってこの時の記憶は鮮明だ。
ペレス
「あの時の瞬間が最も誇らしいです。映画のシーンのように覚えています。あの美しい夜が永遠に止まってくれればいいのに。」ルシオ・ロペスとの流血戦、チリのカルデンシオ・ガルシアや当時無敗のヘラルド・マルチネスをストップ、評価の高いギャビー・カニザレスへの判定勝利を含む、2年間で7度の防衛に成功した。
ペレスの統治は1991年2月、スピーディーなアメリカの黒人、グレッグ・リチャードソンによって止められた。
その後、ペレスはスーパーバンタム級に階級を上げ、最初の戦いでコロンビアのルイス・メンドーサを僅差の判定で破り2階級制覇に成功。しかし初防衛戦で過去に勝っているウィルフレド・バスケスに3回TKOで敗れた。
ペレスはこの時の敗戦を今でも悔やんでいる。
ペレス
「キャリア最悪の日はメキシコのスポーツパレスでウィルフレド・バスケスに負けた試合です。妻と娘をリング最前列に招待していました。私がバスケスに倒された時、娘のタニアが「パパを殴らないで」と叫んでいたのを覚えています。ロサンゼルスでバスケスと戦った時は簡単な試合で、彼は平凡なボクサーだったのでなめていました。この試合のトレーニングを怠けていました。それが敗因です。」
身長178センチのペレスはこの階級では圧倒的に背が高くそれが彼の大きな強みだった。1993年4月WBA王者のヘナロ・エルナンデスに挑戦するために、フェザー級をとばして一気にスーパーフェザー級にアップした。
試合は開始後すぐにバッティングが発生しペレスの流血で試合はノーコンテストになった。2カ月後の再戦は、ナチュラルなスーパーフェザー級王者のヘナロ・エルナンデスが8回KOでペレスを下した。
21か月のブランクを経て復帰したペレスはその後も戦い続けるも再びチャンスが訪れることなく2000年、ヘクター・ベラスケスに敗れた後、およそ15年のキャリアの幕を閉じた。
通算戦績:61勝42KO6敗3分
ペレスはボクシングを通じて主な目標を成し遂げた。
ペレス
「稼げるようになって最初にしたことは母に家を買うことでした。母は今でもそこに住んでいます。」現在52歳のペレスはヒルダ・カスタニエダと再婚しティファナに住んでいる。以前の妻との間に3人の子供がいる。地元の子供達を支援するスポーツ複合施設で15年間働いており、ヒバロボクシングプロモーションと呼ばれる小さなプロモーション会社も経営している。
ペレス
「私の人生でもっとも大切なものは子供達です。人生を生きるチャンスを与えてくれた神に感謝します。私は4年前、腎臓ガンになりました。妻のヒルダにはとても辛い時期でしたが、大きな腫瘍のある右の腎臓を切除しました。今はとても元気です。」ライバルについて聞いた。
ベストジャブ ヘナロ・エルナンデス
互角に渡り合えなかった。常にジャブで私を引き離した。
ベストディフェンス ミゲル(ハッピー)ロラ
コンビネーションがほとんど当たらなかった。素晴らしいディフェンスだった。
ハンドスピード グレッグ・リチャードソン
私からWBCのベルトを奪った男です。パンチが速くて見えなかった。
フットワーク ロラ
脚がとても速かった。
屈強 ルシオ・ロペス
とても強靭でフィジカルが強かったけど綻びた。
スマート ロラ
本当に強いパンチを全然当てられなかった。手足が早くて動きが滑らかだった。
ベストパンチャー エルナンデス
一番強く殴られた。彼はとても強い男だった。でも下から上げてきた私とは何もかもが違った。パワーの差を痛感させられたけど、それを差し引いても偉大な王者であることに変わりはない。彼のレバーブローは地獄だった。
ベストチン エルナンデス
打っても微動だにしなかった。
ベストスキル ロラ
とてもインテリジェントなボクサーだった。彼にパンチを当てるのは難しい。
総合 エルナンデス
彼は偉大な王者であり、私が持てるもの、学んだこと全てをぶつけても通用しなかった。
歴史は繰り返す、ヒバロ・ペレスは今のレイ・バルガスやエマニュエル・ナバレッテの先駆者かもしれない。コピーというほどそっくりではないが、長身強打の難攻不落王者として堅牢な政権を築いていた。実績では現王者もまだまだペレスには及ばない。
ガリガリのやせっぽちで速くもないのに異様に強く、KO率も高く、打たれても強い、メキシカン特有の独自のリズムとパワーを持っていた。グレッグ・リチャードソンが彼に勝ったのは番狂わせであり、そんなリチャードソンを下して王者になったのが辰吉丈一郎だった。相手がそのままペレスだったらどうなっていただろうか。
しかしやっぱり、ヒバロ・ペレスはその見た目通りに打たれ強いのではなくまともに打たれていなかっただけなのかもしれない。ウィルフレド・バスケス(破格の強打者だが)との再戦で倒され、自身のグレードアップ、サイズアップ版ともいえるヘナロ・エルナンデスには通用しなかった。
そういう歴史を振り返るとレイ・バルガスやエマニュエル・ナバレッテも、軽打でも破格のスピード(リチャードソン)や破格の強打者(バスケス)、そしてエルナンデスのような自分より大きな階級上の相手が鬼門なのだろう。
歴史を俯瞰すると、フィジカル、パワー差、階級の壁というのを毎回感じる。
歴史は繰り返す、メキシカンは皆どこか、母国の偉大な先人の誰かに似ている。鏡のように影のように・・・
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