印象に残る試合がたくさんありました。4度目の防衛戦の相手、熟山竜一と彼の地元で戦いました。顎にいいのをもらって初めてダウンしました。ダウンとはこういうものなのかと理解できました。
無冠の帝王、アレクサンダー・バクティンの功績を称える、第三回全ロシアボクシングトーナメントが、バクティンの故郷チタで開催された。国内22の地域から100人を超えるファイターが参加した。この地でプロで一度も負けたことのないアレクサンダー・バクティンは生まれ育った。
どうしてボクシングを選んだのですか?
バクティン
「クラスノカメンスクは小さな町ですが、空手、柔道、ボクシング、サッカーなどスポーツが盛んでした。私は父に従って柔道をしていましたがいい成績を残せませんでした。祖母のマリア・アレクサンドルフがボクシングを紹介してくれました。彼女は私がアスリートになりたいという夢の手助けをしてくれました。8歳から始めましたが12歳から試合に出場できるレベルになりました。100人のうち、3、4人だけがボクシングに残ります、そのうち1人だけが多少はまともな結果を残します。クラスノカメンスクでは私は無敗で80連勝しました。しかしエレツのロシア選手権、81戦目で初めて負けました。多分それは数字の魔法だったのかもしれません。私は1981年生まれですから。」他のスポーツの選択肢はなかったのですか?
バクティン
「サッカーやバスケ、バレーボールなども好きですが、ボクシングは私にとっては意味がありました。ある日喧嘩をして練習を禁止されたのでカンフーに転向しました。殴れないんだったらキックがあると。でもボクシングの方が自分に向いていていました。階級上の選手にも勝っていました。だからコーチに二度と喧嘩などしないと謝ってボクシングに戻りました。」プロになってからは日本を舞台にしていましたが、日本への移住はどのように実現したのですか?
バクティン
「多くのボクサーはプロの世界王者になって名声を築きたいとおもっています。1999年にヨーロッパアマチュア選手権の後日本のプロモーターが私に声をかけてくれました。最初は真剣に受け止めていませんでしたが、通訳を通じ何度もコンタクトしてきたので、訪日してスパーリングや観光をしました。19歳でした。それがプロとしての始まりでした。東京の協栄ジム、ここは偉大な先輩のユーリ・アルバチャコフやオルズベク・ナザロフが世界王者になったところです。東京で7年、日本で最後の年は沖縄ワールドジムにお世話になりました。今でも東京にはたくさんの友人がいて、電話したりコミュニケーションをとっています。」
日本の印象について
バクティン
「私は旅行にいったのではありません。戦争(試合)の準備にほとんどの時間を費やしていました。それでも富士山や有名なお寺なども見てきました。とても美しい国で面白いところがたくさんあります。特に気に入ったのは東京の夜景です。色とりどりに光っていて誰もがきっと感動するとおもいます。」日本語は話せますか?
バクティン
「言葉を忘れたわけではありません。日本にいけば大丈夫だとおもいます。話すのは問題ありませんが、カタカナやひらがなといった文字、50音の形を勉強しようとしましたが挫折しました。ボクシングの練習ばかりしていると疲れて日本語教室に行けなくなってしまいます。」好きな日本料理はありますか?
バクティン
「和食のクオリティーは非常に高いです。私は日本で一度もお腹を壊したことがありません。日本人はとても丁寧に料理の質を見極めています。お店で賞味期限切れの魚など売っていません。」日本酒にははまらなかったのですか?
バクティン
「そういえばあまり印象に残っていません。お酒は飲まず健康を心がけていました。今でも毎週アイスホッケーのトレーニングを3回、ボクシングジムで軽く動いています。」これまであなたは一度も負けていません。一番苦しかった試合はなんですか?
バクティン
「印象に残る試合がたくさんありました。4度目の防衛戦の相手、熟山竜一と彼の地元で戦いました。顎にいいのをもらって初めてダウンしました。ダウンとはこういうものなのかと理解できました。あんなパンチを食うとたいていノックアウトされるものです。「何してるんだ、立て」というコーチの声が聞こえました。その言葉で奮起し立ち直って勝利しました。ボクシングは決してどんな時でも油断してはならないと思い知らされました。勝っていても残り数秒で逆転されてしまうこともあるのだと。」フィリピンのローリー・ガスガとのIBO戦はいかがでしたか?
バクティン
「私のキャリア最悪の試合です。当時私はWBC1位、WBA2位でしたが世界挑戦できずにいました。コンディションは60%程度でした。日本を含めたプロキャリアを通じてずっとアレクサンドル・ジミン氏のコーチングを受けましたが、あの時コーチはニコライ・ワルーエフの試合のためにドイツに行って不在でした。私は自己流でトレーニングして、どうやら筋肉に負荷をかけすぎてしまったようです。ハードな運動は回復期間を設けて行うべきですが、私は休むことをしなかった。試合前は調子が良さそうな気がしますが完全に持久力を失ってしまいました。規律とプライドがあったから何とか勝てたのだとおもいます。試合後救急車で病院に運ばれ4日入院しました。」「ロッキー」「マッドブル」「ミリオンダラーベイビー」などボクシングにまつわる映画が多いですが、見世物だからリングの戦いが誇張されて描かれています。ファイトの演技をみても楽しくないし、三十路を超えて主人公が最後に勝利するのがいいんでしょうか?
バクティン
「そうですね、主人公は時に強烈にノックアウトされます。でもストーリーがいいから主人公を好きになってしまう。多くの場合、そういう映画は困難を克服する物語ですが、最後は主人公が勝利する。基本的にこれらはボクシングのプロパガンダです。映画の影響で多くの子供たちがジムにやってきます。」ボクシング映画には興味がない?
バクティン
「どちらかといえばそうですね。でも「影の戦い」は好きです。主演のデニス・ニキフォロフという俳優を知っています。「青春バラシカアリーナ」で主演を務めた。彼はいい人だよ。」演技をアドバイスしてください。
バクティン
「当時は彼を知らなかったけど、ボクシング技術の間違いを指摘してもよかったかもね。」バラシカに戻ってきた理由は何ですか?
バクティン
「2008年にロシアボクシング連盟にバラシカに戻ってボクシングを続けて欲しいと言われました。バラシカの街はチャンピオンを必要としていました。その後はロシアを拠点に戦っていきました。しかし2013年に引退することになりました。2015年にアリーナ・バラシカアイスパレスのディレクターに就任し事務職をしました。大変でしたが仕事を理解できるようになりました。施設の業績も伸びています。スポーツばかりしているとそれが仕事になってしまいます。何かを引き受けたらそれが全てになってしまいます。」どのような成果をあげてきましたか?
バクティン
「50人の少年をボクシングに導き、そのうち10人はかなりのマスターレベルになりました。2018年にはバラシカアリーナにボクシング部門が開設され、現在150名の選手がボクシングに取り組んでいます。ロシア選手権に勝ったチャンピオンもいます。この部門が発展していくことは間違いありません。東側のスタンドには美術館を作りました。ユーリー・リャプキンや私やアイスホッケーの選手などの功績が展示されています。」大きなスケートリンク施設の責任者としての仕事の話(割愛)
あなたは2人の男の子の父親ですが、父親の後を継いだのですか?
バクティン
「長男は柔道をしていましたが、1年かけてボクシングの道を選びました。彼はそれが好きなようだ。進歩をみせています。良いことです。次男はヴァンガード・オリンピアンスクールでアイスホッケーをしています。」
Vol.2と書いてただの世間話のようなインタビューでしたが、貴重なので残しておきました。
熟山竜一戦は危なかったんだな。
現在はボクシングも含め、アイスホッケーやフィギアスケートの巨大施設の責任者をしているようで、業績も好調なようです。各所から「サーシャとだけはやるな」と言われ、世界挑戦すら叶わず無敗で引退した悲運のファイターだが、ここではっきり本音を言えば長谷川や山中より強かったとおもう。
彼自身に後悔や悲壮感がないのが救いだ。
1981年生まれ、まだ38歳、人生はこれからだ。
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